エピローグ 1
「先輩……? ねぇ、せんぱいってば!」
「っ!」
耳元で響いた声に、海斗は勢いよく顔を上げた。
視界いっぱいに広がっていた眩い光が消え、代わりに白い蛍光灯が目に飛び込んでくる。
山も、朝日も、銃声もない。あるのは見慣れたデスクと、無造作に置かれた資料。それから、何台ものモニターに囲まれた、いつもの職場だった。
「うわぉ……、びっくりした……」
すぐ隣で、若い女性が大げさに胸を押さえている。
髪を一つにまとめた、少し稚気が残る印象の顔立ち。その顔を見た瞬間、海斗の口から自分でも意図しない名前が零れた。
「えっ……、むら、かみさん……?」
「え、誰それ……?」
目の前の彼女は顔を顰めると、真面目なトーンで名乗る。
「私、斉藤ですけど……」
「えっ……、あぁ……、そっか……」
何を言っているんだろう。目の前にあるのは、確かに見慣れた後輩の斉藤の顔だった。
それなのに寝起きの一瞬だけ、別の誰かと重なって見えた気がした。
「センパイ、大丈夫ですか? まだ入院、してた方が……」
「入院……、あぁ……」
その言葉にも、妙な引っ掛かりを覚える。けれど何が気になるのか、自分でも分からない。
海斗は誤魔化すように目元を擦った。
「いや、大丈夫だよ……。ちょっと懐かしい夢――見てただけみたいだから……」
「ふぅーん……、まっ、いいですけど」
斉藤はまだ少し疑わしそうに海斗を見ていたが、やがて諦めたように肩を竦める。
「それより先輩っ、残業中に居眠りしてただらしない先輩の代わりに、優秀な後輩はここまで仕事してましたっ」
そう言って、斉藤が隣のモニターを指差した。
「えっ……、うわっ、ホントだ……」
眠る前にはまだ大量に残っていたログが整理され、怪しい通信だけが綺麗に抜き出されている。画面を追っていけば、その先には見覚えのない数字の羅列まで辿られていた。
「犯人のIPアドレス、割るところまで行ったんですから、ジュースの一つや二つ、奢るのが当然なのでは?」
得意げに胸を張る斉藤を見て、海斗は小さく息を吐く。
「は、はいはい……」
椅子から立ち上がり、部屋の隅に置かれた自動販売機へ向かう。
並んだ商品を眺めながら、小銭を取り出したところで手が止まった。
「女の子だし、コーヒーはないか……、ん……?」
海斗自身も、自分がどうしてそんなことを考えたのか分からなかった。
「はぁ……、退院してから、デジャブばっかりだ……」
結局、適当に目についたボタンを押す。落下音とともに取り出し口へ転がってきたパックを拾い、そのまま斉藤へ放った。
「ほいっ、こんなんでいい?」
「おっ! リンゴジュース! さっすが先輩っ!」
両手で受け取った斉藤が、途端に機嫌を良くする。
「ブラックコーヒーと迷ったけど、怒られそうだったから」
「むっ、迷った時点で大減点です」
「り、理不尽……」
「そういうのは言わないのが粋なんですよ?」
「ご教授どうも」
「いえいえー」
何が粋なのかは、海斗にもよく分からない。
それでも、そんなくだらないやり取りが妙に心地よかった。
斉藤はリンゴジュースを一口飲むと、机に広げていた資料を手早くまとめ始める。
「それじゃあ先輩、私帰りますけど、何か手伝えることありますか?」
「いや、もう遅いし帰った方がいいよ。後はこっちでやっちゃうから」
「そう……ですか……」
それまで軽かった声が、ほんの少しだけ沈んだ。
「ん? どうかした?」
「いえ、べっつにぃー」
すぐにいつもの調子へ戻り、斉藤は鞄を肩に掛ける。
「それじゃあ先輩、お先ですー」
「うん、気を付けてね」
ひらひらと手を振る斉藤を見送る。やがて扉が閉まり、室内には再びパソコンの駆動音だけが残った。海斗は椅子へ座り直す。
「さて、僕もさっさと終わらせちゃおう……」
モニターへ向き直り、斉藤が残した解析結果に目を通す。
数行追ったところで、ふと指が止まった。
――センパイ、大丈夫ですか? まだ入院、してた方が……。
先ほどの斉藤の言葉が、妙に耳の奥へ残っている。
入院。夢。村上という、知らないはずの名前。
どれも掴もうとすればするほど、指の間から零れていくように輪郭を失ってしまう。
「ホント、変な事ばっかりだな……」
海斗は小さく首を振ると、再び目の前の仕事へ意識を戻した。




