↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼馴染のニート更生プログラム  作者: やわらぎメンマ
PR
11/14

リターン0

 街に近づいてくるにつれて、それまで断片でしかなかった記憶が、一つ、また一つと線で繋がっていく。

 見覚えのある道路。窓の外を流れていく田園風景。遠くに浮かぶ山の輪郭。

 その一つ一つを目にするたび、今まで思い出すことのできなかった景色が、海斗の頭の中で少しずつ形を取り戻していった。

 西に広がる海と、水平線の先に沈むオレンジ色の夕陽。その光景だけは、他の記憶よりもずっと鮮明だった。

 潮風に吹かれながら、海斗はただ一人の少女と向き合う。

 そこには涙を浮かべながら銃口を向ける、このセカイとは違う加奈の姿。

 どうしてそんなことをするのか。何をしようとしているのか――あの時の自分が何を言ったのかまでは、まだ思い出せない。

 ただ、加奈が泣いていたことだけは覚えている。泣きながら、それでも銃口を下ろさなかったことも。

 「カイ君っ、元気でねっ」

 声が震えていた。別れを惜しむような言葉とは裏腹に、加奈の指はゆっくりとトリガーを引き切る。乾いた発射音。直後、首元にチクリと鋭い痛みが走った。

 「っ……」

 思わず手を伸ばす。指先に触れたのは血ではなく、首筋に刺さった小さな何かだった。

 引き抜くよりも早く、視界が大きく揺れる。足元から力が抜けていく。

 夕陽も、海も、目の前にいる加奈の姿さえも、輪郭を失うように滲み始めた。

 「か、な……」

 呼びかけようとしても、舌が上手く動かない。

 膝から力が抜け、そのまま地面へ倒れ込む。身体が動かない。

 それでも薄れていく意識の中で、加奈の声だけは不思議なくらい鮮明に聞こえていた。

 「これからはもう、私を知らない世界で――」

 その先は聞こえなかった。何かを言い残そうとしていたのか。それとも、最後まで言葉にできなかったのか――この時の海斗には、何も分からなかった。

 ただ――あれが別れの言葉だったことだけは、分かってしまった。

 加奈はあの時、海斗を殺そうとしていたわけではない。自分の知らない場所へ。自分のいない人生へ――海斗を一人で送り出そうとしていた。

 そしてきっと、あの瞬間の自分にもそれだけは伝わっていた。

 もう二度と。加奈とは、会えないのだと。



 東の空に、夜明けの気配が滲み始めたころ。

 海斗が運転する車は、加奈が新幹線でこの街へやってきた駅近くのインターチェンジを降りた。

 明るみ始めた空を背にして、車は人気のない街を西へと駆け抜けていく。信号は動いている。街灯も、道路脇に並ぶ店の看板も、見覚えのある形を保っている。

 それなのに、そこを歩く人の姿は一人もない。すれ違う車もなければ、後ろから追ってくる車もない。

 まるで街そのものが、海斗たちだけを残して眠りについてしまったようだった。

 「帰って、きたね……」

 助手席から、加奈が小さく呟く。

 「……うん……」

 「道、覚えてる?」

 「……大丈夫…………、多分……」

 自信などなかった。頭の中に地図があるわけでもなければ、この先をどこで曲がるのか説明できるわけでもない。それでも次の交差点が近づけば、海斗の手は自然とハンドルを切る。

 迷っているのは頭だけで、身体の方は最初から行き先を知っているようだった。

 「大丈夫だよ。もう少し、だから……」

 「…………うん」

 重たそうに穂を垂らした稲を横目に、車はさらに西へと走る。

 細い農道を抜け、国道を横切り、跨線橋を越えていく。

 助手席の加奈は、それ以上道を教えようとはしなかった。海斗も尋ねなかった。

 ただ二人とも、同じ場所へ向かっていることだけは分かっていた。

 やがて、道路の先に大きな鳥居が現れる。その下をくぐったところで、それまで遠くに見えていた山が、フロントガラスの正面へ大きく迫ってきた。

 「私、初めてかも」

 ぽつりと加奈が言った。

 「何が?」

 「あの山に登るの……」

 「…………そっか」

 海斗は正面の山から目を逸らさない。

 見覚えがあった。さっきまで戻り始めていた記憶の中にも、同じ輪郭がある。

 「僕は、二度目だよ」

 「もしかして、この夢を見る前の話?」

 「うん」

 「……そっか」

 短い返事のあと、車内に沈黙が落ちる。

 「聞かないの?」

 「えっ?」

 「僕たちが初めて、登った時のこと」

 加奈はすぐには答えなかった。

 「……聞けない」

 一度だけ海斗へ顔を向けて、それから逃げるように窓の外へ視線を移す。

 「私にだって感情、あるんだもん……」

 その声は、少しだけ拗ねているようにも聞こえた。

 同じ名前で、同じ顔をしている。同じ記憶さえ、どこかに残っているのかもしれない。

 それでも今、隣に座っている加奈にとっては初めての場所なのだ。

 海斗がもう一人の加奈とここへ来た記憶まで、自分の思い出として受け入れられるわけではない。

 「…………そう、だよね……」

 それ以上、海斗も話そうとはしなかった。

 車はやがて、山道の入口に残された寂れたゲートをくぐる。そこから先は急勾配だった。

 アクセルを踏み込み、何度も大きくハンドルを切りながら、曲がりくねった坂道をゆっくりと登っていく。日本で一番高い電波塔と同じ高さらしいその山は、どちらのセカイでも変わらない景色だった。

 変わってしまったものばかりの中で、それだけが何も知らないように、同じ場所に立ち続けている。

 山頂までは、あと二十分ほど。

 海斗はハンドルを握り直す。助手席には加奈がいる。荷台では、沙耶が眠っている。

 もう、誰も言葉を交わさなかった。

 聞こえるのはエンジンの音と、坂道を踏みしめるタイヤの音だけ。

 これが最後の、海斗たちのドライブだった。



 曲がりくねった山道を登り切った先には、今までの道幅が嘘のような広い駐車場があった。

 当然のように、そこにも人の姿はない。

 だが海斗は駐車場をそのまま通り過ぎ、少し外れた場所に車を止めた。

 エンジンを切ると、それまで車内を満たしていた低い振動まで消えた。残ったのは、ビューっと風が抜ける音だけ。

 「ねぇ、この子どうしよっか……」

 車を降りた加奈が、荷台を覗き込みながら困ったように呟く。

 毛布の中では、沙耶が静かな寝息を立てていた。海斗も荷台へ回り込み、その顔を覗き込む。

 顔色は決していいとは言えない。それでも呼吸は規則的で、応急処置を施した脇腹から新たに大量の血が滲んでいる様子もなかった。

 「そっとしとこう。疲れてるだろうし、このケガで階段もキツイと思う」

 ここから先へ連れていくために無理やり起こす方が、今の沙耶には負担になる。そう判断するしかなかった。

 「……それもそうだね……」

 加奈は少し心配そうに沙耶を見つめてから、そっと毛布を掛け直す。

 二人は車を離れ、駐車場から少し先にある小高い丘を目指した。

 長い階段を一段ずつ上っていく。

 疲労の残る身体には決して楽な道ではなかった。それでも、どちらからともなく足を止めることはなかった。

 やがて最後の一段を上り終える。遮るもののない視界が、一気に開けた。

 東の眼下には、まだ眠りから覚めていない街と、その向こうまで続く田園。

 夜明けが近いのか、うっすらと太陽が顔を覗かせ始めていた。夜の色を残した空を、淡い光が少しずつ塗り替えていく。

 少し振り返れば、二人がここまで走ってきた道が、細い線となって遠くまで伸びている。

 そして西には、記憶とは違う、暗く静かな海原が広がっていた。

 「綺麗、だね……」

 振り返ってみると、加奈が小さく呟いた。

 「…………ッ」

 海斗は何も返せない。人が消えても。街の明かりが消えても。標識から意味が失われても――朝だけは、何も知らないようにやってくる。

 「これがカイ君の中のセカイなんて、信じられないっ」

 「……違う……」

 気づけば、海斗は否定していた。

 「だって加奈は――っ」

 「分かってるよ」

 言い切るより先に、加奈が遮る。その顔には、寂しそうな笑みが浮かんでいた。

 「分かってる。私もここにいた。沙耶ちゃんも、サイトウさんもいた。カイ君のお母さんだって……、確かにみんな、ここにいた」

 「…………」

 「夢だからって、全部なかったことになるわけじゃない。それくらい、私にだって分かってるよ」

 だからこそ、余計に苦しそうだった。加奈は昇り始めた太陽へ目を向ける。

 「多分向こうの私も、カイ君と距離作るためにこの夢を見せたのかな……」

 それは確信ではない。この世界がどうして生まれたのか。向こうの加奈がどこまで望み、どこまで知っていたのか――その答えを、今の二人は持っていない。

 「だけどさ、それって――」

 加奈が一度、唇を噛む。

 「過去の始末、未来の自分に背負わせただけじゃんねっ」

 吐き捨てるような言葉だった。けれどそこにあるのは怒りだけではない。

 海斗には、それが自分自身へ向けた言葉のようにも聞こえた。

 向こうの加奈が何を考えていたのか。どうして海斗から離れようとしたのか。

 今の加奈には、その記憶も理由もすべては分からない。それでも、残されたものを受け取ってしまった。

 海斗への想いも。海斗を遠ざけなければならないという結論も。

 「……ねぇ、カイ君」

 「…………なに?」

 加奈がこちらを向く。もう笑ってはいなかった。

 「もう、分かってるよね? この夢の終わりが、何を意味してるか」

 「……分からない…………」

 嘘だった。分からないわけがない。思い出せなかったはずの記憶が戻り始めた。

 そして自分たちは今、すべてが始まる前にも訪れたこの場所にいる。

 それでも――。

 「知りたく、ないっ……」

 答えを認めることだけは、できなかった。

 「……ホント、困った幼馴染だなぁ……」

 加奈の声が震える。

 「カイ君、いい加減諦めなきゃダメなんだよ……。この夢を見始めたときから、全部、もう終わってたんだから……」

 「いやだ……、絶対……、いやだ……」

 ここまで来て、ようやく自分で選べるようになった。

 誰かに命じられたからでもない。誰かに連れてこられたからでもない。自分でハンドルを握り、自分でここまで来た。

 なのに、その先に待っていた答えだけは、どうしても選びたくなかった。

 「小高海斗ッ‼」

 加奈の声が、朝の静かな空気を震わせた。思わず顔を上げる。

 「私は……、向こうの私はもう、カイ君の前には居ないんだよ……」

 「そんな……、そんなはず……」

 「…………ごめんね。一番、残酷なことしちゃってるよね…………」

 そう言って、加奈は腰に手を伸ばした。取り出したのは、ここまでずっと持ってきたリボルバー。

 その姿を見た瞬間、海斗の身体が僅かに強張る。けれど――銃口はこちらを向かなかった。

 加奈は銃身を自分の側へ向けると、グリップを海斗へ差し出した。

 「…………加奈?」

 海斗は手を伸ばせない。あの夜、加奈はこの銃を海斗へ向けた。

 それを下ろし、最後にはハンドルを握る海斗の手へ、自分の手を重ねた。

 そして今――加奈は同じ銃を、海斗自身の手に委ねようとしている。

 「でもこれは、カイ君自身でけじめ、つけなきゃなんだよ……」

 差し出されたリボルバーは、朝日を受けて鈍く光っていた。

 「……だからさっ――」

 加奈は無理に笑顔を作って見せる。

 そして、海斗が絶対に望まない願いを、彼女は口にした。

 「“カイ君のセカイ”から、私を消して」



 「な……なんで……」

 差し出されたリボルバーと、その向こうにいる加奈を交互に見る。

 何を言われたのかは理解できる。けれど、その意味を頭が受け入れようとしない。

 「そんなこと、できるわけないじゃないかッ!」

 反射的に絞り出した声が、静かな山頂に響いた。

 「カイ君……」

 「なんで……、なんでそうなるの……?」

 加奈を消すために、ここまで来たわけではない。

 ようやく自分で選んだ。誰も置いていかないと決めた。加奈も、沙耶も、自分自身も。

 それなのに最後になって、どうしてその加奈から、自分を消せと言われなければならないのか。

 「その気持ちのせいだよ」

 「えっ……」

 加奈の声は静かだった。責めるような響きはない。

 ただ、ずっと前から知っていた答えを口にするように、海斗を真っ直ぐ見つめている。

 「カイ君は、私のこと好きでいてくれた――それくらい、ずっと分かってたよ?」

 否定できなかった。もう、否定するつもりもなかった。

 「でもそれは、向こうのセカイの私も同じみたい……。それに、私もカイ君と同じ気持ちだったから――だから全部、壊れちゃった……」

 加奈が握ったままのリボルバーが、僅かに震える。

 海斗を想ったから、向こうの加奈は海斗を遠ざけた。そして海斗もまた、加奈を想ったからこそ、その別れを受け入れられない。

 互いを大切にしようとした結果が、今の二人をここまで連れてきた。少なくとも加奈は、そう考えている。

 「だからカイ君……、これは決別なんだよ」

 「決……別……?」

 「そう、私との決別。ちゃんとここで終わらせなきゃ、この夢を見てる意味がないのっ……」

 最後の言葉だけ、加奈の声が僅かに裏返った。それでも、差し出した銃を引っ込めようとはしない。

 これが正しいのだと。海斗のためには、そうしなければならないのだと。自分自身へ言い聞かせているようにも見えた。

 「……そんな…………、意味が分か――」

 海斗は尚もごねかけた――その時だった。


 ――バンッ!


 乾いた破裂音が、言葉を引き裂く。

 「――ッ⁉」

 ほとんど同時に、右の頬へ焼けるような痛みが走る。何が起きたのか理解するより先に、背後の地面で何かが弾けた。

 反射的に頬へ手を当てる。指先に、僅かな赤い血がついた。

 「えっ……」

 海斗だけではない。正面に立つ加奈も、目を見開いたまま海斗の後ろを見ていた。

 風の音に混じって、荒い呼吸が聞こえる。

 「させない、よ……」

 聞き覚えのある声だった。けれど、いつもの軽さはどこにもない。

 海斗はゆっくりと振り返る。

 「さ、沙耶……ちゃん……?」

 少し離れた階段の先。そこには、荷台で眠っていたはずの沙耶が立っていた。

 顔色は青白い。脇腹を押さえた手には血が滲み、肩は呼吸のたびに大きく上下している。

 ここまで歩いてくるだけでも辛かったことなど、一目で分かった。

 それでも――もう片方の手だけは、震えていなかった。

 その手に握られた銃口は、真っ直ぐ海斗へ向けられていた。

 「酷いよ、加奈さん……。私を置いて、終わらせちゃおうなんてさ…………」

 沙耶は銃口を下ろさない。息をするだけでも痛むのか、脇腹を押さえた身体は僅かに前へ傾いている。

 それでも、その視線だけは真っ直ぐ加奈へ向けられていた。

 「私も、ハッカーさんと同じ考えだよっ」

 「沙耶ちゃん……?」

 「だからさ――」

 沙耶の銃口が、再び海斗を捉える。


 ――バンッ!


 今度は警告ではなかった。

 海斗が反射的に身体を捻った直後、背後で硬いものが砕ける音がした。

 「死んで? ハッカーさん」

 いつものように笑おうとしている。けれど、その表情は上手く笑顔になっていなかった。

 「さ、沙耶ちゃんっ⁉」

 加奈が悲鳴に近い声を上げる。

 「……な、なんで……」

 海斗には理解できない。さっきまで同じ車に乗っていた。一緒に逃げようと決めた。誰か一人でも死ぬつもりなら、自分も諦めるとまで言った。

 あの時、沙耶もそれを受け入れてくれたはずだった――なのに。

 「やっぱり私、生きてたいから……」

 荒い呼吸の合間に、沙耶は言葉を繋いでいく。

 「加奈さんと出会って、一緒に死線抜けて――消えたくないって、思っちゃった……」

 沙耶は言いながら、銃口の狙いを海斗に定める。

 「ごめんねっ……、私、ホントに酷い女だ……」

 言いながら沙耶は、震えた人差し指を再びトリガーに乗せる。

 「ハッカーさん……、一生のお願い……。このセカイのために、死んで――」

 その銃口が、真っ直ぐ海斗の胸へ向いた――その時だった。


 ――バンっ。


 「――えっ……」

 響いた銃声は沙耶のものではなかった。

 いつの間にか沙耶の手にあったはずの銃が消えている。どうやら発砲された弾は、沙耶の得物を跳ね飛ばしたらしい。

 「なんで……? 加奈、さん……?」

 沙耶が呆然と顔を上げる。その視線の先。加奈が、両手でリボルバーを構えていた。

 先ほどまで海斗へ差し出していたはずの銃。その銃口から、細い煙が風に流されていく。

 「ごめん……、ごめんね……? 沙耶ちゃん……」

 加奈の手は震えていた。頬には、いつの間にか涙が伝っている。

 「私はもう、戻れないの……」

 「そ……、そんなことっ――」

 沙耶が立ち上がろうとする。既に瀕死の沙耶は、それでも地面に落ちた銃を拾い上げる。

 「沙耶ちゃん……」

 「まだ……、だよ……」

 震える腕が持ち上がる。もう照準を合わせる力さえ残っていないはずなのに、その銃口は再び海斗の方へ向かおうとしていた。

 加奈が息を呑む。一度目とは違う今度は反射ではなかった。

 逃げる時間も、止める時間もあった。それでも加奈は、リボルバーを握った手を下ろさなかった。

 「沙耶ちゃん……、ありがとう。これで私も、ちゃんと覚悟決めれたよ……」

 沙耶の目が僅かに見開かれる。


 ――バンっ。


 二度目の銃声が響く。沙耶の身体から力が抜けていった。

 握っていた銃が指先を離れ、硬い地面へ転がる。その音から少し遅れて、沙耶自身もその場へ崩れ落ちた。

 「…………村上、さん……?」

 返事はない。朝の風が、倒れた沙耶の髪だけを揺らしていた。

 もう、沙耶は動かなかった。

 「か、加奈……?」

 海斗の声は、自分でも分かるほど震えていた。加奈は答えない。ただ、両手で握ったリボルバーを見つめている。

 細い銃口から立ち上っていた煙は、もうほとんど風に攫われていた。

 「…………二発も、撃っちゃった……」

 ぽつりと零れた声には、先ほどまでの覚悟など残っていなかった。

 加奈の視線が、倒れた沙耶へ向く。

 もう動かない。朝の光に照らされたその姿を見つめたまま、加奈の手が小さく震え始める。

 「カイ君……、私、殺ったよ? また大事なもの、一つ消しちゃった……」

 「…………」

 「だからもう……、諦めてよ……」

 懇願するような声だった。海斗を責めているわけでもない。許してほしいと願っているわけでもない。

 ただ、自分を諦めてほしい。そう言っているように聞こえた。

 「……私、もうこのセカイの綺麗な私じゃない……」

 その言葉を聞いた瞬間、海斗の胸の奥で何かが引っ掛かった。

 人を傷つけたから。取り返しのつかないことをしたから――だからもう戻れない。

 だから今さら、誰かと一緒に生きることなどできない。そんな考え方を、自分は知っている。他でもない。少し前まで、自分自身がそうだった。

 「……それでも」

 加奈が顔を上げる。

 「向こうのセカイとか、今のセカイとか、関係ないよ。僕がずっと好きだったのは、戸石加奈だから……」

 加奈の表情が歪んだ。向こうの加奈と、今ここにいる加奈。同じなのか、違うのか。

 この世界が夢なのか、記憶なのか、それとももっと別の何かなのか。

 結局、海斗には最後まで分からない。けれど、それでよかった。

 少なくとも今だけは、誰かに与えられた答えを選ぶ必要などなかった。

 「やっと、分かった気がする……。こんな終わり方しか選べない理由――」

 現実の自分が生きる世界で、何故加奈を失わなければいけないのかは分からない。

 だけど少なくとも海斗は、今のセカイと同じ――いや、それ以上に加奈を大切に思ってしまっていたらしい。自分の別の可能性のセカイに、彼女の記憶を持ち込むほどに。

 だから、海斗は決意する。

 「加奈……、僕はまだ、納得してない……」

 加奈は何も言わなかった。ただ、涙を零しながら海斗を見つめている。

 「だけど加奈の記憶を持ったまま、僕は生きていけるほど器用じゃない……」

 口にした瞬間、胸の奥が締め付けられた。

 忘れたくない。この世界で交わした言葉も。隣にいた時間も。ハンドルを握った自分の手に、加奈がそっと重ねてくれた手の温度も――全部、このまま持って帰りたい。

 けれど、それが叶わないことくらい、もう分かっていた。

 「だからッ――」

 海斗は加奈を真っ直ぐ見つめる。今度こそ、自分で決めるために。

 「絶対に、思い出す……、記憶が消えたって、絶対思い出して見せるッ……」

 加奈の目から、大粒の涙が零れ落ちた。

 「ホントに……、バカっ……」

 泣きながら、それでも少しだけ笑っていた。

 「ちゃんと、諦めたでしょ? でももう、次は離さない……、絶対、忘れさせなんかしない」

 今ここにいる加奈と別れることは、もう受け入れる。

 この世界が終わることも。この記憶を失うことも。けれど、その先まで誰かに決めさせるつもりはなかった。

 次に出会えたなら。何も覚えていなかったとしても――今度こそ、自分の意志で彼女を選ぶ。

 海斗は一度だけ、加奈から視線を外した。少し離れた場所に、沙耶が倒れている。

 この世界で出会い、笑って、怒って、最後には銃まで向けてきた少女。それでも彼女がここにいたことまで、無かったことにはしたくなかった。

 「ありがとう、村上さん……。君のことも絶対、思い出すから」

 返事はない。それでも、海斗は僅かに頭を下げた。

 再び加奈を見る。朝日はもう、二人の輪郭さえ白く滲ませるほど強くなっていた。

 加奈がリボルバーを握り直す。残された最後の一発。

 その銃口がどこへ向いたのか、海斗はもう確かめなかった。

 ただ目の前にいる幼馴染だけを、最後まで見つめ続ける。

 「うわぁああああああッ!」

 誰のものとも分からない叫びが、夜明けの山頂に響き渡った。


 ――バンッ。


 最後の銃声が鳴り響く。

 音は遠くの山々へ反響し、やがて朝の静けさへ溶けていった。

 東の空では、太陽が完全にその姿を現している。

 街も。山も。倒れた沙耶も。そして、目の前にいる加奈さえも。

 すべての輪郭が、白い光の中へ少しずつ溶けていく。

 それでも海斗は、最後まで目を逸らさなかった。

 やがて陽が完全に昇る頃――このセカイは、眩い光の中に埋もれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。