エピローグ 3
モニターに並んでいた最後の処理を終え、海斗は大きく背もたれへ身体を預けた。
誰もいない室内には、パソコンの駆動音と空調の音だけが響いている。斉藤を見送ってから、どれくらい経っただろう。
先ほどまで大量に並んでいたログもすっかり整理され、後は明日の朝に報告を上げればいいだけになっていた。
「やっと、終わった……」
凝り固まった身体をほぐすように、両腕を頭上へ伸ばす。
そのまま何気なくデスク脇のスマートフォンへ目をやると、表示された時刻はとっくに午前零時を過ぎていた。
「もう日付、回ってるじゃん……」
海斗は小さく欠伸を漏らしながら、机の上に広げていた資料をまとめていく。
「流石に僕も帰ろ……」
これ以上残っていたところで、仕事の効率が落ちるだけだ。
明日も仕事はある。帰って風呂に入って、そのまま寝よう。そう決めて鞄へ手を伸ばした――その時だった。
ふと、頭の中に別の考えが浮かぶ。
――コーヒーが飲みたい。
それも、自動販売機や職場で済ませるのではなく、どこかへ車を走らせて、一人でゆっくりと。
「…………これも何かのお達し、なのかな……」
自分でも、どうして今そんなことを思ったのか分からない。
特別コーヒーが好きだった覚えもない。むしろ退院してからは、進んで飲むこともほとんどなくなっていた。
それなのに今夜だけは、不思議とその苦味が恋しく思えた。
海斗はしばらく考えた末、鞄を肩に掛ける。理由なんて、別にどうでもよかった。
「久しぶりにコーヒー、飲みに行こっかな……」
誰に聞かせるでもなく呟いて、海斗は静かな職場を後にした。
海斗は一人で暮らすアパートとは反対の方へ、車を走らせた。
どうしてこちらへ向かおうと思ったのかは、自分でもよく分からない。ただ、真っ直ぐ家へ帰ってしまうのが、今夜だけは妙に惜しく思えた。
深夜の国道を走っている車は少ない。国道脇に設置された温度計は、マイナス一度を表示している。
道は所々凍り始め、前を走るトラックから吐き出される排気は、白い蒸気となって夜の闇へ溶けていく。
海斗は暖房の効いた車内でハンドルを握りながら、そんな道をひたすら北東へ向かった。
やがて、何気なく視界に入った青看板に、見覚えのある地名を見つける。
行き先を決めていたわけでもない。それなのに海斗はほとんど迷うことなく、その方角へ合わせてウインカーを左へ倒していた。
途中のコンビニへ立ち寄り、缶コーヒーを一つだけ買う。
それから再び車を走らせ、静まり返った住宅街を抜けた先――海斗が車を止めたのは、この地域でも有数の大きな潟がある公園だった。
エンジンを切った途端、それまで車内を満たしていた微かな振動が消える。途端に、辺りを包む冬の静けさが際立った。
車を降りると、刺すような冷気が頬を撫でる。
海斗はコートのポケットへ片手を突っ込みながら、水辺へ向かってゆっくりと歩いた。
正面には、暗い水面。そんな冷たい水の中で、白鳥と思しき鳥たちは時々鳴き声を漏らしながら羽を休めていた。
その向こうには、夜空を切り取るように二つの大きな山影が並んでいる。事故を起こしたのも、あの山のどこかだったらしい。
今となっては何度も聞かされた話なのに、相変わらずその時の記憶だけは戻ってこない。
「今思っても、よく生きてたなぁ……」
自嘲気味に笑いながら、缶コーヒーのプルタブを起こす。小さく鳴った金属音が、静かな水辺へやけに大きく響いた。
一口含む。久しぶりに感じる苦味は、思っていたよりもずっと懐かしかった。
海斗は木製の柵へ身体を預け、大きく息を吐く。白く染まった吐息が夜気へ消えていく。
冷たい空気をもう一度胸いっぱいに吸い込めば、手元から立つコーヒーの香りまで一緒に身体の奥へ入り込んできた。
静かだった。仕事も終わった。明日になれば、またいつも通り斉藤が騒がしく話しかけてくるのだろう。
そんな日常へ戻る前の、ほんの少しの寄り道――そのはずだった。
「…………あの子は、一体……」
ふと、今日見た夢が頭をよぎる。知らないはずなのに、知っているような気がする人たち。
目を覚ませばほとんど輪郭を失ってしまったのに、その感覚だけが今も胸の奥へ引っ掛かっている。特に――。
「すみません――」
背後から突然声を掛けられ、海斗は振り返った。
「突然ですけど、貴方、小高海斗さん?」
「……ッ⁉」
いつからそこにいたのだろう。少し離れた場所に、一人の女が立っていた。
冬の夜だというのに、その佇まいには妙なほど隙がない。
そして何より――その顔を見た瞬間、海斗の胸の奥に説明のできない違和感が走った。
綺麗に切りそろえられたショートヘアに、凛とした顔立ち。
病院で笹川先輩が見せてきた女性だと分かった。
少なくとも今の海斗には、それ以上の記憶はいない。
それなのに目を逸らしてはいけないような、奇妙な感覚だけが残る。
「き、君はっ……?」
「私のことは、どうでもいいんです。質問にだけ、答えてください」
女の声は冷たい。こちらの動揺など意に介さず、ただ事務的に確認を続ける。
「貴方は小高海斗、間違いありませんね?」
「う、うん……、そう、だけど……」
その答えを聞いた瞬間。女の表情が、ほんの僅かに変わった。
「そう…………、やっと見つけた」
何かが持ち上がる。海斗がそれを認識するより早く――。
――バンっ。
乾いた破裂音が、静まり返っていた水辺を引き裂いた。
「――――――――えっ」
身体が揺れる。手から滑り落ちた缶コーヒーが地面を転がり、中身を黒く撒き散らしていく。
同時に水鳥たちが一斉に羽を羽ばたかせた。一拍遅れて、焼けるような熱が身体の奥から広がる。膝から力が抜けていく。
「……うそ…………、でしょ……」
何が起きたのか、理解が追いつかない。
そのまま崩れ落ちそうになった海斗の耳へ、遠くから誰かの悲鳴が飛び込んできた。
「や、やぁああああああ!」
足音が近づいてくる。誰かが駆け寄ってきたのだろう。
女同士が何かを言い争っている。けれど言葉の一つ一つを拾う余裕なんて、今の海斗にはなかった。
意識が霞む。視界が揺れる。それでも――その声が零した名前だけが、不思議なくらい鮮明に耳へ残った。頭の奥で、何かが弾ける。
朝焼け。車のハンドル。黒いコーヒー。自分の手に重ねられた、小さな手。泣きながら笑っていた、一人の女の子。
ずっと失っていたはずの輪郭が、一瞬だけ形を取り戻す。海斗は目の前に立つ女を見上げた。
「か……な…………?」
「カイ君っ! しっかりしてッ! 今止血するからッ!」
別の女が海斗の傍へ膝をつき、傷口へ手を伸ばす。
――カイ君。
聞いた瞬間、胸の奥に残っていた最後の違和感まで、一つの形へ繋がった。
「どいてください、美玖先輩。始末つかないじゃないですか」
「美玖……先輩……?」
その名前にも、どこか覚えがある。
けれど今は、そんなことよりも。海斗はもう一度、銃を握る女へ目を向けた。
「あぁ……、かな……、かな、だよ……ね……?」
「……馴れ馴れしい…………」
女――加奈の瞳には、懐かしさも、喜びもない。
ただ冷たい目で、目の前の標的を見下ろしている。
――バンっ。
「ぐはぁ……」
二度目の衝撃が身体を貫く。今度こそ支えきれず、海斗の身体が地面へ倒れ込んだ。
「加奈ちゃんっ! もうやめてッ!」
美玖が加奈へ飛びつく。銃を持つ腕を必死に押さえ込み、海斗から逸らそうとする。
「美玖先輩、放してください。急所が狙えません」
その言葉を聞いて。海斗は、なぜか笑いそうになった。
「あぁ……、そういうこと……」
「え?」
加奈の眉が僅かに動く。覚えていない。加奈は、自分を覚えていない。
少なくとも今の彼女にとって、小高海斗は懐かしい幼馴染でも、失いたくない誰かでもない。
ただ、命令されたから殺す。それだけの標的なのだ。
彼女が何に巻き込まれているのか、今の海斗には知る由もない。だけどもう――それでよかった。
「ちゃんと……僕、思い出せた……」
海斗は霞んでいく視界の中で、加奈を見つめる。
全部ではない。何があったのかも。どうして忘れたのかも――あの夢が何だったのかも、まだ分からない。
それでも――この人だけは、もう分かる。
「もう、二度と……、忘れない…………」
――バンバンっ!
続けざまに響いた銃声に、海斗の身体が大きく揺れる。
「い、いやぁああああああ!」
美玖の悲鳴が、夜の水辺へ響き渡った。
海斗の鼓膜に、何度目かの悲鳴がこだまする。
音はもう遠い。
冷たかったはずの地面も、身体を焼いていた痛みも、少しずつ曖昧になっていく。
それでも海斗の心中は、不思議ととても穏やかだった。
痛みが無いと言えば嘘になる。
すべてを思い出したと言えば、嘘になる。
後悔が無いと言えば、嘘になる。
だけど、冷めた目で自分を狙い続ける加奈を見て、海斗は心の底から安堵していた。
彼女の目に、自分との思い出は映っていない。
自分を呼ぶ声にも。自分へ向ける銃口にも。
あの日、自分が見たはずの加奈の面影はどこにもない。
それなら――それでいい。
今の加奈にとって、自分はただの標的でしかないのだから。
――これでもう、彼女のセカイから僕は消える。
彼女に深い後悔を生ませることなく、消えることができる。
それが正しいのかなんて、もう分からない。
もしかしたら、また自分は間違えているのかもしれない。
それでも――薄れていく意識の中で、海斗が願ったことはただ一つだった。
せめて、最後に願うことを許されるのであれば――。
――もう少し、居たかった。
終わり




