雨燕古書店
古書店での安らかなひととき、だが着実に澪とエンデの運命は回り始めている—
雨燕古書店の窓辺には、簡易的ではあるが読書のためのソファがあった。
普段あまり客は入らないのだろうが、入る客は長居することが多いから、きっと紫乃の計らいだろう。
階段を降りると、空気が少しひんやりしている。
古い紙とインクの匂い。湿気。木製の棚。ランプ色の灯りが、本の背表紙をぼんやり照らしていた。
外では雨が降っている。渋谷上空の裂け目はここから見えない。それだけで少し安心した。
「適当に座っていいよ」
紫乃がマグカップを片手に言う。今日は黒いタートルネックにカーディガンという、妙に普通の格好だった。
髪も後ろで雑に束ねている。侵食現象の研究者というより、大学の図書館司書みたいだった。
澪はソファへ腰を下ろし、ようやく深く息を吐く。
「……疲れた」
「そりゃあんだけ追われればね」
紫乃は棚の間を歩きながら答える。
「白鯨に目を付けられるだけでも最悪なのに、管理局まで動いてるし」
青織もマグカップを持ち、窓際へ立ったまま、外の様子を警戒していた。
彼は先ほど書店の簡易のキッチンで悍ましい量の砂糖を入れていた。一体どこでそのカロリーを消費しているのか。
私もそんな体質になりたいと、澪は心から思うのであった。
「監視ドローンが増えてる」
「渋谷封鎖まで行く?」
「まだだな。澪たちを生け捕りしたい段階だ」
「嫌な言い方……」
澪が顔をしかめる。その横で、エンデは本棚をじっと見ていた。視線がきょろきょろ動いている。
「……多い」
「古書店だからね」
「全部、本?」
「たぶん二万冊くらいあるよ」
エンデが目を丸くする。
「二万……」
「紫乃は本を選り好みしないタイプだから、この本屋は専門性に欠けている」
青織がぼそりと言った。
「いーの! その分、客層も広まるからね!」
「広まってるのか?」
「たまに」
「たまにか」
「古書店は、たまにで成立してるの」
紫乃は笑いながら棚から何冊か引き抜いた。
古びた地図。侵食初期の新聞。海洋観測記録。それらをテーブルへ並べていく。
「東京湾周辺の情報、今整理してる。侵食深度の変化が異常なんだよね」
澪も自然と身を乗り出した。
「東京湾って、そんなに危険なの?」
紫乃は古い海図を広げる。
そこには湾岸部へ広がる黒い染みみたいな印が描かれていた。
「危険っていうか、始まりに近い場所だからね」
「始まり……?」
「二〇二四年八月一日。相模湾の北の方に、最初の異空間が開いた。最初はみんな、動画の加工とか、SNSの悪ふざけだと思ってた。海の上に星雲みたいなものが出たとか、月が大きく見えるとか、存在しない魚が浜に打ち上がったとか」
紫乃は古い新聞の切り抜きを指先で叩いた。
「でも、三日後には漁船が消えた。GPSは狂うし、海面はありえない動きをするし、夜の海から知らない歌が聞こえる。そこまで来て、ようやく政府も“普通の災害じゃない”って認めざるを得なくなった」
澪は渋谷第十三駅で見た逆流する雨を思い出した。
「それが、境界侵食……」
「そう。世界と“向こう側”が混ざる現象。最初は海だけだった。でもすぐに東京にも広がった。存在しない駅に繋がる地下鉄、夜だけ生える森、建物の中だけ時間が止まる部屋、あと――」
「雨が上に降る駅」
青織が低く付け加えた。
澪は思わず黙る。
それは、ついさっき自分が通ってきた場所だった。
「境界管理局は、その後にできたんだよ」
紫乃が言った。
「最初の名前は《特殊空間災害対策室》。もっと小さな組織だった。海保とか、気象庁とか、自衛隊とか、大学の研究者とか、いろんなところから人を集めた寄せ集め」
「境界管理局って、最初からあんな感じだったんですか?」
澪が尋ねると、紫乃は少しだけ目を伏せた。
「違うよ。最初は本当に助けようとしてた。灰域に迷い込んだ人を探して、侵食された場所を封鎖して、漂流個体もできるだけ保護しようとしてた」
「漂流個体……エンデみたいな?」
「うん。こちら側へ流れ着いた“向こう側”の存在。姿は人間に近いこともあるし、そうじゃないこともある」
エンデは黙って聞いていた。
青織が窓の外を見たまま言う。
「だが、長くは続かなかった」
その声には、苦いものが混じっていた。
「保護した漂流個体の周りで境界深度が上がる。職員が壊れる。施設ごと灰域化する。そういうことが何度も起きた」
「だから、助けるより、閉じ込める方が早いって考えるようになった」
紫乃が静かに続ける。
「回収して、観測して、利用価値を測って、危険なら処分する。今の管理局は、そういう組織に近い」
澪の手が膝の上で強張る。
エンデが小さく俯いた。
「……エンデ、回収される?」
「されるだろうな」
青織は否定しなかった。
「見つかれば、保護という名で連れていかれる。その先に自由はない」
部屋に重い沈黙が落ちる。
紫乃はそれを少しだけ和らげるように、わざと軽い調子で肩をすくめた。
「で、私と青織は、その管理局の前身組織にいたってわけ」
澪は二人を交互に見た。
「元同僚、なんですよね」
「そう。私は解析班。こいつは現場」
「現場?」
「侵食区域に入って、人を助けたり、異常を止めたりする係。要するに一番死にやすい仕事」
「言い方が悪い」
青織がぼそりと言った。
「事実でしょ。私は安全圏で数字を見る係。青織はその数字を無視して突っ込む係」
「無視はしていない」
「読んでないだけ?」
「読む時間がなかった」
「それを無視って言うんだよ」
紫乃は呆れたように笑った。
そのやり取りには妙な遠慮のなさがあった。親しいというより、互いの失敗も弱さも知りすぎて、今さら取り繕う必要がないような関係だった。
その間に湿度は感じられなかった。
もっと乾いていて、もっと根が深い――何度も死にかける現場を挟んで、それでも互いに生き残ってしまった者同士の、腐れ縁に近いもの。
「最初は嫌いだったよ、青織のこと」
紫乃はあっさり言った。
「解析結果を無視するし、上の命令にも従わないし、報告書は短すぎるし」
「必要なことは書いていた」
「“対象沈黙。帰還。”のどこが報告書なの」
「必要なことだ」
「ほら、こういうところ」
紫乃は澪へ向かって指差した。
澪は思わず苦笑する。
「でも、組んでたんですよね?」
「組まされたの。私は青織の無茶を止める係。青織は私の机上論を現場で壊す係」
「ろくな係じゃない」
青織が言う。
「ほんとにね」
紫乃はそう言って笑ったが、すぐに少しだけ表情を改めた。
「でも、役には立った。私は現場の怖さを知ったし、青織は数字や記録が命を救うこともあるって覚えた。たぶん」
「たぶん、か」
「断言すると嘘になるからね」
紫乃は資料をめくり、東京湾のページで手を止めた。
「その頃、アオが来た」
空気が変わった。
青織の横顔が、ほんのわずかに硬くなる。
「侵食発生から半年後くらい。東京湾で“歌”の観測記録が増えた。湾中央部にて正体不明の旋律。観測員複数が幻聴を訴える。深夜帯に海面が反転する。そういう記録が残ってる」
紫乃は古い資料を開いた。
『湾中央部にて正体不明の旋律を確認』
『観測員複数が幻聴を訴える』
『深夜帯に海面反転現象』
澪の背筋が冷える。
どれも今、エンデたちの周囲で起きている現象と似ていた。
「これ、アオがいた頃なんですね」
澪が言うと、青織は静かに頷いた。
「あいつは、歌っていた」
短い言葉だった。
それだけなのに、部屋の空気が少し沈む。
エンデがぽつりと尋ねた。
「……アオ、歌う子?」
「そうだ」
「やさしい?」
少し間が空いた。
それから青織は、窓の外を見たまま答えた。
「……ああ」
短い返事だった。
けれど、それだけでどんな存在だったのか少し伝わった。
エンデは小さく頷いた。
「エンデ、たぶんわかる」
「歌うと、境界に影響出る」
澪は思わずエンデを見る。
「境界って、そんなに簡単に影響されるの?」
「境界をより開くことも、閉じることも可能」
エンデはぽつりと言った。
「でも、“向こう側”は孤独が嫌い」
「寂しい人の感情に共鳴して、いっぱい来る」
青織の目が一瞬だけ伏せられる。
紫乃も黙った。
澪は、ようやく落ち着いた今だからこそ、ずっと気になっていたことを口にした。
「そういえば青織は、どうしてあの時、渋谷駅にいたの?」
青織はすぐには答えなかった。
代わりに紫乃が、ほんの少しだけ視線を落とす。
「最初、漂流個体――エンデを、管理局に見つかる前に自分の手で始末しようと思っていた」
「え」
澪の身体が強張る。エンデも俯いた。
「アオの時と同じ轍を踏みたくなかったんだよ、こいつはさ。管理局に捕まれば、保護という名で観測されて、利用されて、最後は処分される。だったらその前に、って」
紫乃はため息混じりに言った。
「だからって、エンデを消そうとしたことが帳消しになるわけじゃないけどね」
「エンデ、不安定な存在。エンデ自身がよくわかってる」
エンデが俯きながら言う。
「エンデ……」
澪は青織にも、エンデにも何と声をかければいいのかわからなかった。
青織の後悔。
エンデの孤独。
紫乃の諦めに似た理解。
様々な感情が交錯して、言葉が出てこない。
青織は静かにカップを置いた。
「今は間違いだったと思っている」
その声は低かった。
「九条、あの時止めてくれなかったら、俺は過ちを犯していた」
澪は何も言えない。
青織はエンデを見た。
「だから、礼を言っておく。それに、エンデ。お前を殺そうとしたことを謝る。悪かった」
しん、と場が静まった。
エンデはしばらく青織を見ていた。虹色の瞳は、怒っているようでも、怖がっているようでもなかった。ただ、一生懸命その言葉を理解しようとしているようだった。
「謝る、受け取る」
やがてエンデは小さく言った。
「でも、まだ少し怖い」
「それでいい」
青織は答えた。
「すぐ信用するな」
「青織、怖い。でも、たぶんやさしい」
紫乃が口元を押さえた。
「言われてるよ、青織」
「黙れ」
少し気持ちが落ち着かないのか、エンデが置かれていたコップを持ち上げて飲んだ。
澪はその瞬間、気づく。あれ? それって青織の――
「ごぼっ!!」
エンデが盛大に吹き出した。
やはり小さい子にも甘すぎたようだ。
澪は慌ててティッシュを出し、口の端からこぼれたコーヒーを拭ってあげる。
「甘い……攻撃」
「飲む前に確認しろ」
青織が言う。
「青織、味覚、変」
「お前に言われたくない」
紫乃は堪えきれずに笑い出した。重かった空気が、少しだけ緩む。
それを見計らったように、紫乃は本棚から別の本を取り出し、澪の膝へ放った。
「はい、澪ちゃん」
「え?」
受け取ったのは、分厚い古書だった。
革張りの表紙には、金箔の掠れた文字でこう書かれている。
『世界詩歌神話体系』
「うわ」
澪の目が、一瞬で輝いた。青織が怪訝そうに眉を寄せる。
「……好きそうな顔したな」
「いや、これ絶版本だよ!? 大学図書館とか専門研究室じゃないと置いてないやつ!」
澪は勢いよくページを捲り始めた。
「うわ、初版……紙質すご……え、注釈付き!? しかも旧版訳!」
完全にテンションが変わっていた。紫乃が呆れたように笑う。
「ほんとに本好きなんだ」
「好きっていうか、もう病気かも」
「自覚あるんだ」
澪は夢中になってページを追っていく。エンデが隣からそっと覗き込んだ。
「何、書いてる」
「世界中の“歌”とか“詩”の神話」
澪は自然に説明を始める。
「昔の人って、言葉とか旋律には“向こう側”へ触れる力があるって考えてたんだよ。例えば、歌で死者の国へ行く話とか、詩で神様を呼ぶ話とか」
ページを捲りながら続ける。
「北欧神話だと、“詩蜜酒”っていう、飲むと詩人になれる神様のお酒があるし、日本でも“言霊”って考え方がある。あとケルト神話には、“妖精の国へ連れていく歌”とか」
エンデは真剣な顔で聞いていた。
「歌、いっぱいある」
「うん。昔から人間って、“言葉”がただの音じゃないって思ってたんだと思う」
澪はページを捲る。
その途中で、不意に手が止まった。
「……これ」
古い挿絵だ。黒い海の上で、白い服の誰かが歌っている。その声に呼応するように、海面へ巨大な“門”が浮かび上がっていた。周囲には、無数の文字列みたいな波紋が広がっている。
エンデが静かに呟く。
「……知ってる」
その瞬間。
澪の胸の奥で、“扉”が小さく脈打った。
紫乃と青織が、同時に表情を変える。挿絵の横には、掠れた古い文字でこう書かれていた。
『門は歌によって開かれる』
『境界を渡る者は、海の旋律を聴く』
『二つの世界が重なる時、詠う者が鍵となる』
部屋の空気が静まり返る。
遠くで、雨音だけが静かに響いていた。
歌とは—まだ知らぬ境界の物語が動き出す—




