鯨と狩人
澪一行を撮り逃した白鯨は思いもよらぬ人物から奇襲を受ける—その人物とは?
東京湾沿岸。午前二時四十七分。
雨は止んでいた。しかし空は暗い。
夜だからではない。裂けた空の向こうで脈打つ黒い海が、月明かりそのものを飲み込んでいるからだった。
埠頭の外れ。使用停止になった貨物ヤード。
白鯨の小規模観測部隊が展開していた。十名。
全員が白い戦術装束を纏い、侵食観測装置を設置している。無人照明が青白く地面を照らし、仮設モニターの前では隊員たちが無言で数値を追っていた。
誰も大きな声を出さない。東京湾沿岸では、声そのものが時々、海へ拾われるからだ。
その中心には、白鯨所属の女、伊坂の姿があった。
灰銀色の髪を夜風が揺らす。
白い外套の襟元には、白鯨の紋章が小さく刻まれていた。冷たい横顔。切れ長の目。薄く結ばれた唇。その姿は、戦場に立つ指揮官というより、死者の数を静かに数える監査官のようだった。
大型モニターへ映し出される位相データを眺めながら、伊坂は静かに報告を聞いていた。
「湾中央部の侵食深度が再上昇しています」
「予測値は?」
「四十八時間以内に第二段階へ移行する可能性があります」
伊坂は僅かに目を細める。やはり、早い。
九条澪が覚醒してから、明らかに侵食速度が変化している。エンデも動いている。
青織も、おそらく東京湾へ向かう。
そして管理局も、ようやく本気で網を張り始めるだろう。
東京湾は、既に臨界点へ近づいていた。
「九条澪の追跡状況は」
「現在も不明です」
「渋谷駅周辺で痕跡が途切れています」
伊坂は小さく息を吐いた。
青織らしい。追跡を切ることに関しては、元々管理局でも一級品だった。
正面戦闘よりも、撤退戦と隠密行動においてこそ、あの男は厄介になる。
昔からそうだった。
観測班が壊滅しかけた時も、灰域に取り残された研究員を連れて戻った時も、青織はいつも生還不能と判断された場所から戻ってきた。
命令書に書かれていた撤退基準を破り、解析班の制止を聞かず、けれど最終的には誰かを連れて帰ってくる。
伊坂は、そういう青織を昔から理解できなかった。
理解できなかったからこそ、危険だと思っていた。
人は助けられるものと、助けられないものを分けなければならない。境界に関わるなら、なおさらだ。
分けられない人間から壊れていく。伊坂はそう学んだ。
「境界管理局の動きは」
「湾岸封鎖線を再構築中。民間監視網にも接続しています。ただし、青織零の捕捉には至っていません」
「白鯨側の偽装は?」
「現時点では維持されています」
「湾中央部の音響波形は?」
「依然として異常値を維持。通常の海鳴りとは別に、微弱な旋律状波形を検出しています」
「アオの処分記録と照合を」
「既に実行中です。一部に類似パターンあり。ただし完全一致ではありません」
伊坂は、灰銀色の髪を指先で押さえた。
アオ。
その名前を聞くたび、管理局時代の空気を思い出す。湿った観測施設。
強化ガラスの向こうで歌う青い髪の少女。処分室の前で立ち尽くしていた青織。見ないふりをしていた紫乃。
あの日から、全員が少しずつ別の方向へ壊れていった。
青織は守れなかったものに縛られ、紫乃は記録と本の中へ逃げた。そして伊坂は、漂流個体に名前を与えることをやめた。
その時だった。
不意に通信へノイズが走る。部隊員の一人が顔を上げた。
「通信異常」
「原因を」
言い終わらないうちに、遠くで爆発が起きた。
轟音の後、火柱が上がる。観測車両が一台吹き飛んだ。
「敵襲!!」
白鯨部隊が即座に展開する。銃口が向く。
侵食術式が起動する。だが敵影は見えない。
「どこだ!?」
次の瞬間、別方向で爆発。今度は監視ドローンが空中で四散した。火花が夜空へ散る。
通信網が途切れ、モニターが暗転する。
「電子戦!?」
「管理局か!?」
伊坂だけは動かなかった。静かに周囲を見まわし、そして、小さく呟く。
「違いますね」
嫌な予感がした。いや、予感ではない。これは経験だ。このやり方を、伊坂は知っている。
最初に視界を奪い、次に通信を奪う。そして最後に、人間の判断力を奪う。
昔、特殊観測班で共同任務を行った時もそうだった。侵食区域に閉じ込められた民間人を救出する任務で、あの男は勝手に照明系統を落とした。
理由を問うと、彼は笑って言った。暗い方が本音が出る。
伊坂は、その時点で彼を一度撃っておくべきだったと、今でも少しだけ思っている。
次の瞬間。背後から拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
「いやー」
陽気な声。
「相変わらず反応いいな、白鯨」
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。碧色ベースのペイズリー柄のシャツに、色付き眼鏡。
片手には黄色いラベルの甘いコーヒーボトルを持っている。
彼を構成するすべての要素が、この場の緊張感にそぐわない。
埠頭の夜。黒く脈打つ東京湾。
白鯨の戦術装束。観測装置。破壊された車両。
そのすべての中心に、彼だけがまるでコンビニ帰りのような軽さで立っていた。
だが、誰も油断しない。伊坂だけが静かに言った。
「成海玲司」
「こんばんは〜」
成海は笑った。
「仕事中?」
「見れば分かるでしょう」
「邪魔してごめんねー!」
「本当にそう思っていますか?」
「うぅん?全然」
即答だった。
部隊員たちが困惑している。
だが伊坂は知っている。
目の前の男は危険だ。
管理局の危険人物リストにも載っている。
白鯨内部でも警戒対象。そして何より、何を考えているのか誰にも分からない。
成海玲司。管理局時代の元同僚。
特殊観測班の中でも、特に扱いづらい男だった。
能力は高い。
観測、解析、術式改竄、電子戦、侵食制御の応用。どの分野でも基準を大きく超えていた。問題は、その才能の使い道だった。
成海は、任務の達成より、任務の途中で人が何を選ぶかに興味を持つ。
誰が助けを求めるのか。誰が見捨てるのか。誰が嘘をつくのか。誰が最後まで踏みとどまるのか。
その反応を見るためなら、彼は現場の条件をほんの少しだけ歪める。
それだけで、人は簡単に壊れる。かつて伊坂は、管理局時代の成海に言ったことがある。
あなたは観測者ではなく、実験者です、と。
成海は笑って答えた。
違うよ、伊坂。
実験者なら結果を決めたがる。俺はただ、予想外が見たいだけ。その時から伊坂は、彼を人間として信用していない。
ただし、危険物としては非常に高く評価している。
「相変わらず趣味の悪い服ですね」
「お、開口一番それ? 久々の再会なのに冷たいなぁ」
「再会を喜ぶ関係でしたか、私たちは」
「少なくとも同じ釜の飯は食ったじゃん」
「食堂で同じトレーを使った程度です」
「伊坂、昔からそういうとこ硬いよね」
「あなたは昔から柔らかすぎます。倫理が」
成海は楽しそうに笑った。
「出た。伊坂名物、倫理説教」
「管理局時代から、あなたには何度も言いました」
「覚えてる覚えてる。成海玲司、あなたは観測者ではなく実験者です」
成海はわざと伊坂の口調を真似た。
白鯨の隊員たちが、僅かにざわつく。二人が旧知であることは知っていても、その距離感までは知らないのだろう。
伊坂は表情を変えない。
「私は今でもそう思っています」
「俺は今でも否定するね。俺は実験者じゃない。ただの観客だよ」
「観客は舞台装置を爆破しません」
「退屈な舞台ならするだろ」
「しません」
短い沈黙が場を支配する。張り詰めた黒い帳に生ぬるい夜風が吹く。
裂けた空の奥で、黒い海が脈打った。
「目的は」
伊坂が聞く。成海は笑った。
「情報に決まってるじゃない」
「誰の」
「九条澪」
一本指を立てる。
「エンデ」
二本目。
「青織零」
三本目。
「以上」
「帰ってください」
「やだねぇ」
「白鯨の観測部隊を襲撃して、ただで帰れると思っているんですか」
「帰れると思って来たこと、あんまりないなぁ」
「昔からそうでしたね」
伊坂の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「あなたはいつも、自分が死ぬ可能性を計算に入れない」
「入れてるよ」
「ではなぜ毎回、ああもふざけていられるのです」
成海は少しだけ首を傾げた。
「死ぬかもしれないなら、なおさら楽しい方がよくない?」
伊坂は返事をしなかった。
その瞬間だった。
部隊員の一人が発砲する。先手で決着をつけようとしたのだろう。伊坂は、指示にない行動に内心腹を立てた。
まだ対話の余地があったかもしれないのに、よくもやってくれた。
乾いた銃声が響く――しかし成海は避けない。避ける必要がないからだ。撃った隊員が突然悲鳴を上げる。
「なっ――!?」
銃が爆発した。火花が隊員の手元でパッと散る。凄まじい力が人体を巻き込んで炸裂する。つんざく悲鳴。
白鯨側が一斉に動揺する。
伊坂だけが冷静だった。
「術式改竄」
「正解」
成海が笑う。
「君らの通信網入ったついでに色々触っといた」
「最低ですね」
「褒めんな、褒めんなってぇ!」
「褒めていません」
「そういう真面目なところ、変わらないなぁ」
「あなたこそ、昔より悪化しています」
「成長って言ってほしいね」
「腐敗です」
伊坂は手を上げ、隊員たちへ短く指示を出した。
「全員、術式系統を遮断。外部通信を切りなさい。彼に接続を与えないこと」
「了解!」
「遅いよ」
成海が言った。その瞬間、地面から黒い紋様が広がった。白鯨側ではない。
成海が仕込んでいた侵食術式だった。足元が崩れる。
「伏せろ!!」
伊坂が叫ぶ。轟音と共に閃光が弾け、煙が巻き上がる。
数秒後、現場は壊滅していた。車両は横転し、装備は破損していた。部隊員の一人が拘束されている。ワイヤーで逆さ吊りにされている。
「うわぁ」
成海が眺める。
「綺麗に決まった」
伊坂は煙の向こうへ飛び退いていた。無傷。だが状況は最悪だった。
部下が捕縛された。成海は捕縛された隊員に近づく。
「こんばんは」
「……っ」
「リラ〜ックス。リラ〜ックス」
成海は軽い調子で言った。
「伊坂さんが、あんたを助けてくれるか交渉してくれるってさ〜。上司の頑張りに期待だね?」
部隊員は黙る。忠誠心は高い。成海は楽しそうに笑った。
「でもさあ」
「あんたは、損切りでいつ撤退しようか考えてるんだろーなー」
伊坂は静かに答えた。
「話がよく分かるようで」
成海のそばの隊員が息を呑むのが分かった。
「ひでえ上司だよなぁ……可哀想すぎるって」
「じゃあ解放してあげてください」
「無理♡」
鯨を捉えた—




