表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/27

鯨と狩人

澪一行を撮り逃した白鯨は思いもよらぬ人物から奇襲を受ける—その人物とは?

 東京湾沿岸。午前二時四十七分。

 

 雨は止んでいた。しかし空は暗い。

 夜だからではない。裂けた空の向こうで脈打つ黒い海が、月明かりそのものを飲み込んでいるからだった。

 

 埠頭の外れ。使用停止になった貨物ヤード。

 

 白鯨の小規模観測部隊が展開していた。十名。

 

 全員が白い戦術装束を纏い、侵食観測装置を設置している。無人照明が青白く地面を照らし、仮設モニターの前では隊員たちが無言で数値を追っていた。


 誰も大きな声を出さない。東京湾沿岸では、声そのものが時々、海へ拾われるからだ。

 

 その中心には、白鯨所属の女、伊坂の姿があった。

 灰銀色の髪を夜風が揺らす。


 白い外套の襟元には、白鯨の紋章が小さく刻まれていた。冷たい横顔。切れ長の目。薄く結ばれた唇。その姿は、戦場に立つ指揮官というより、死者の数を静かに数える監査官のようだった。


 大型モニターへ映し出される位相データを眺めながら、伊坂は静かに報告を聞いていた。

 

「湾中央部の侵食深度が再上昇しています」

 

「予測値は?」

 

「四十八時間以内に第二段階へ移行する可能性があります」

 

 伊坂は僅かに目を細める。やはり、早い。

 

 九条澪が覚醒してから、明らかに侵食速度が変化している。エンデも動いている。


 青織も、おそらく東京湾へ向かう。

 

 そして管理局も、ようやく本気で網を張り始めるだろう。

 東京湾は、既に臨界点へ近づいていた。

 

「九条澪の追跡状況は」

 

「現在も不明です」

 

「渋谷駅周辺で痕跡が途切れています」

 

 伊坂は小さく息を吐いた。

 

 青織らしい。追跡を切ることに関しては、元々管理局でも一級品だった。


 正面戦闘よりも、撤退戦と隠密行動においてこそ、あの男は厄介になる。

 

 昔からそうだった。

 

 観測班が壊滅しかけた時も、灰域に取り残された研究員を連れて戻った時も、青織はいつも生還不能と判断された場所から戻ってきた。


 命令書に書かれていた撤退基準を破り、解析班の制止を聞かず、けれど最終的には誰かを連れて帰ってくる。

 

 伊坂は、そういう青織を昔から理解できなかった。

 理解できなかったからこそ、危険だと思っていた。

 

 人は助けられるものと、助けられないものを分けなければならない。境界に関わるなら、なおさらだ。


 分けられない人間から壊れていく。伊坂はそう学んだ。

 

「境界管理局の動きは」

 

「湾岸封鎖線を再構築中。民間監視網にも接続しています。ただし、青織零の捕捉には至っていません」

 

「白鯨側の偽装は?」

 

「現時点では維持されています」

 

「湾中央部の音響波形は?」

 

「依然として異常値を維持。通常の海鳴りとは別に、微弱な旋律状波形を検出しています」

 

「アオの処分記録と照合を」

 

「既に実行中です。一部に類似パターンあり。ただし完全一致ではありません」

 

 伊坂は、灰銀色の髪を指先で押さえた。

 

 アオ。

 

 その名前を聞くたび、管理局時代の空気を思い出す。湿った観測施設。


 強化ガラスの向こうで歌う青い髪の少女。処分室の前で立ち尽くしていた青織。見ないふりをしていた紫乃。


 あの日から、全員が少しずつ別の方向へ壊れていった。


 青織は守れなかったものに縛られ、紫乃は記録と本の中へ逃げた。そして伊坂は、漂流個体に名前を与えることをやめた。

 

 その時だった。


 不意に通信へノイズが走る。部隊員の一人が顔を上げた。

 

「通信異常」

 

「原因を」

 

 言い終わらないうちに、遠くで爆発が起きた。

 

 轟音の後、火柱が上がる。観測車両が一台吹き飛んだ。

 

「敵襲!!」

 

 白鯨部隊が即座に展開する。銃口が向く。

 侵食術式が起動する。だが敵影は見えない。

 

「どこだ!?」

 

 次の瞬間、別方向で爆発。今度は監視ドローンが空中で四散した。火花が夜空へ散る。


 通信網が途切れ、モニターが暗転する。


 

「電子戦!?」

 

「管理局か!?」

 

 伊坂だけは動かなかった。静かに周囲を見まわし、そして、小さく呟く。

 

「違いますね」

 

 嫌な予感がした。いや、予感ではない。これは経験だ。このやり方を、伊坂は知っている。

 

 最初に視界を奪い、次に通信を奪う。そして最後に、人間の判断力を奪う。

 

 昔、特殊観測班で共同任務を行った時もそうだった。侵食区域に閉じ込められた民間人を救出する任務で、あの男は勝手に照明系統を落とした。


 理由を問うと、彼は笑って言った。暗い方が本音が出る。

 伊坂は、その時点で彼を一度撃っておくべきだったと、今でも少しだけ思っている。

 

 次の瞬間。背後から拍手が聞こえた。

 

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 

「いやー」

 

 陽気な声。

 

「相変わらず反応いいな、白鯨」

 

 全員が振り返る。

 

 そこに立っていたのは、一人の男だった。碧色ベースのペイズリー柄のシャツに、色付き眼鏡。


 片手には黄色いラベルの甘いコーヒーボトルを持っている。

 

 彼を構成するすべての要素が、この場の緊張感にそぐわない。

 

 埠頭の夜。黒く脈打つ東京湾。


 白鯨の戦術装束。観測装置。破壊された車両。


 そのすべての中心に、彼だけがまるでコンビニ帰りのような軽さで立っていた。

 

 だが、誰も油断しない。伊坂だけが静かに言った。

 

「成海玲司」

 

「こんばんは〜」

 

 成海は笑った。

 

「仕事中?」

 

「見れば分かるでしょう」

 

「邪魔してごめんねー!」

 

「本当にそう思っていますか?」

 

「うぅん?全然」

 

 即答だった。

 

 部隊員たちが困惑している。

 

 だが伊坂は知っている。

 

 目の前の男は危険だ。

 

 管理局の危険人物リストにも載っている。


 白鯨内部でも警戒対象。そして何より、何を考えているのか誰にも分からない。

 

 成海玲司。管理局時代の元同僚。

 

 特殊観測班の中でも、特に扱いづらい男だった。

 能力は高い。


 観測、解析、術式改竄、電子戦、侵食制御の応用。どの分野でも基準を大きく超えていた。問題は、その才能の使い道だった。

 

 成海は、任務の達成より、任務の途中で人が何を選ぶかに興味を持つ。

 

 誰が助けを求めるのか。誰が見捨てるのか。誰が嘘をつくのか。誰が最後まで踏みとどまるのか。

 

 その反応を見るためなら、彼は現場の条件をほんの少しだけ歪める。

 

 それだけで、人は簡単に壊れる。かつて伊坂は、管理局時代の成海に言ったことがある。

 

 あなたは観測者ではなく、実験者です、と。

 成海は笑って答えた。

 

 違うよ、伊坂。

 実験者なら結果を決めたがる。俺はただ、予想外が見たいだけ。その時から伊坂は、彼を人間として信用していない。

 

 ただし、危険物としては非常に高く評価している。

 

「相変わらず趣味の悪い服ですね」

 

「お、開口一番それ? 久々の再会なのに冷たいなぁ」

 

「再会を喜ぶ関係でしたか、私たちは」

 

「少なくとも同じ釜の飯は食ったじゃん」

 

「食堂で同じトレーを使った程度です」

 

「伊坂、昔からそういうとこ硬いよね」

 

「あなたは昔から柔らかすぎます。倫理が」

 

 成海は楽しそうに笑った。

 

「出た。伊坂名物、倫理説教」

 

「管理局時代から、あなたには何度も言いました」

 

「覚えてる覚えてる。成海玲司、あなたは観測者ではなく実験者です」

 

 成海はわざと伊坂の口調を真似た。

 

 白鯨の隊員たちが、僅かにざわつく。二人が旧知であることは知っていても、その距離感までは知らないのだろう。

 

 伊坂は表情を変えない。

 

「私は今でもそう思っています」

 

「俺は今でも否定するね。俺は実験者じゃない。ただの観客だよ」


「観客は舞台装置を爆破しません」

 

「退屈な舞台ならするだろ」

 

「しません」

 

 短い沈黙が場を支配する。張り詰めた黒い帳に生ぬるい夜風が吹く。

 裂けた空の奥で、黒い海が脈打った。

 

「目的は」


 伊坂が聞く。成海は笑った。

 

「情報に決まってるじゃない」

 

「誰の」

 

「九条澪」

 一本指を立てる。

 

「エンデ」

 二本目。

 

「青織零」

 三本目。

 

「以上」

 

「帰ってください」

 

「やだねぇ」

 

「白鯨の観測部隊を襲撃して、ただで帰れると思っているんですか」

 

「帰れると思って来たこと、あんまりないなぁ」

 

「昔からそうでしたね」

 

 伊坂の声が、ほんの少しだけ低くなる。

 

「あなたはいつも、自分が死ぬ可能性を計算に入れない」

 

「入れてるよ」

 

「ではなぜ毎回、ああもふざけていられるのです」

 

 成海は少しだけ首を傾げた。

 

「死ぬかもしれないなら、なおさら楽しい方がよくない?」

 

 伊坂は返事をしなかった。

 その瞬間だった。

 

 部隊員の一人が発砲する。先手で決着をつけようとしたのだろう。伊坂は、指示にない行動に内心腹を立てた。

 

 まだ対話の余地があったかもしれないのに、よくもやってくれた。

 

 乾いた銃声が響く――しかし成海は避けない。避ける必要がないからだ。撃った隊員が突然悲鳴を上げる。

 

「なっ――!?」

 

 銃が爆発した。火花が隊員の手元でパッと散る。凄まじい力が人体を巻き込んで炸裂する。つんざく悲鳴。

 白鯨側が一斉に動揺する。


 伊坂だけが冷静だった。

 

「術式改竄」

 

「正解」

 

 成海が笑う。

 

「君らの通信網入ったついでに色々触っといた」

 

「最低ですね」

 

「褒めんな、褒めんなってぇ!」

 

「褒めていません」

 

「そういう真面目なところ、変わらないなぁ」

 

「あなたこそ、昔より悪化しています」

 

「成長って言ってほしいね」

 

「腐敗です」

 

 伊坂は手を上げ、隊員たちへ短く指示を出した。

 

「全員、術式系統を遮断。外部通信を切りなさい。彼に接続を与えないこと」

 

「了解!」

 

「遅いよ」

 

 成海が言った。その瞬間、地面から黒い紋様が広がった。白鯨側ではない。


 成海が仕込んでいた侵食術式だった。足元が崩れる。

 

「伏せろ!!」

 

 伊坂が叫ぶ。轟音と共に閃光が弾け、煙が巻き上がる。

 

 数秒後、現場は壊滅していた。車両は横転し、装備は破損していた。部隊員の一人が拘束されている。ワイヤーで逆さ吊りにされている。

 

「うわぁ」

 

 成海が眺める。

 

「綺麗に決まった」

 

 伊坂は煙の向こうへ飛び退いていた。無傷。だが状況は最悪だった。


 部下が捕縛された。成海は捕縛された隊員に近づく。

 

「こんばんは」

 

「……っ」

 

「リラ〜ックス。リラ〜ックス」

 

 成海は軽い調子で言った。

 

「伊坂さんが、あんたを助けてくれるか交渉してくれるってさ〜。上司の頑張りに期待だね?」

 

 部隊員は黙る。忠誠心は高い。成海は楽しそうに笑った。

 

「でもさあ」

 

「あんたは、損切りでいつ撤退しようか考えてるんだろーなー」

 

 伊坂は静かに答えた。

 

「話がよく分かるようで」

 

 成海のそばの隊員が息を呑むのが分かった。

 

「ひでえ上司だよなぁ……可哀想すぎるって」

 

「じゃあ解放してあげてください」

 

「無理♡」

 鯨を捉えた—

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ