抜け殻
白鯨の隊員が拉致された—成海は不気味さを増す。
結論から言うと、白鯨は情報を抜かれた。
追尾信号は生きていたし、バイタルも安定していた。
少なくとも肉体的には。
だが、問題はそこではなかった。
成海に連れ去られた隊員たちは、数日後に発見された。
渋谷の古いホテルだった。
侵食初期に営業を停止した建物。境界管理局が突入した時、生きている者がいた。
拉致された隊員だった。彼は椅子へ座ったまま、窓の外を見つめていた。出血、打撲などの外傷はない。
だが呼びかけにも、光にも、痛覚刺激にも彼は反応しなかった。まるで何かを見続けているみたいだった。
後の検査で脳波は正常と判定された。だが隊員は二度と現場へ戻れなかった。
「あそこへ帰りたい」
ただそれだけを。数万回も。数十万回も。
ホテルの部屋に残されていたものは少ない。
缶コーヒー。吸い殻。そしてテーブルの上のメモ。
成海の筆跡だった。
『彼はよく耐えた。俺ならもっと早く折れる。いい部下だね♡もう戻ってこれないけれど(;ω;)』
伊坂は無感情にそれを読んだ。そして部屋の奥を見る。
隊員は窓の外を見つめていた。窓の向こうには何もない。曇った東京の空だけだ。
それなのに。彼は微笑んでいた。ひどく穏やかな顔だった。
まるで。本当に帰りたい場所を見つけた人間みたいに。
伊坂は目を逸らさなかった。成海はいつもそうする。
人間が目を背けたいものを見せる。
伊坂は冷酷であろうと努めている。だがその時だけは、僅かに思った。
成海という男は、人を殺すよりも残酷なことができる。
まあ、尤も、その隊員を手放したのは、自分なのだが――
◇
夜明け前。
ホテルでの尋問を終えた後、成海は一人で桟橋を歩いていた。
背後では誰かが静かに息絶えている。
わざわざ振り返らない。
白鯨との交戦、隊員への尋問を嗅ぎつけた境界管理局の工作員だった。
まんまと釣られてくれてありがたい。欲しかったものはもう手に入った。
エンデ、澪、青織たちの所在。白鯨の東京湾展開計画。管理局の封鎖線再構築予定。
本当に今日は怖いほどツイている。海風が髪を揺らす。
「またこうして同期で集まるとはねえ」
東京湾の向こう。黒い海が脈打つ。その中心へ。
青織たちは向かっている。
管理局も。白鯨も。そして自分も。理由は皆違う。けれど行き先だけは同じだった。そして独り言みたいに呟いた。
「青織」
「今度は何を守る気だ?」
「お前みたいな奴が、守るべきものを守れないのを見るのは楽しいねえ」
成海は最初から世界とずれていた。
楽しいことだけ。
それを突き詰めていたら、ある時は魅了される者もいた。それとは逆に、自分を糾弾する者もいた。
しかし誰も、成海のそばに居続けることも、対立し続けることもできなかった。
彼は徹底的に周りの人間を巻き込んで貶める。人生を破綻させる。惑わせ、苦しめる。
成海は己に蔓延る悪徳を、いつしか楽しんでいた。
なんでもそつなくこなせて、退屈していたら、急に境界侵食なんて非日常を神様はプレゼントしてくれた。
非常識が現実になり、常識を塗り替えていく日常。その最前線に飛び込みたくて、気づけば境界管理局の中にいた。
青織も、紫乃も、伊坂も、成海のことを優秀だと認めていた。それと同じくらい、その悍ましい本性にも勘付いていた。
青織は嫌悪した。紫乃は警戒した。伊坂は断罪しようとした。
そのどれもが、成海にとっては退屈しのぎになった。だが管理局員の生活にもだんだん飽きてきた頃、今度はアオの件があった。
青織。
退屈な一人の男が、突如現れた存在に絆されて、最後には大きな喪失を抱えていく様子は、見ていてかなり良かった。
アオ。
処分室の向こうで歌っていた青い髪の少女。
紫乃が記録を保存するか、消すかで迷っていた横顔。伊坂が“必要な判断”という顔で処分手順を承認した瞬間。
青織が銃を向けながら、最後まで引き金を引けなかった姿。
全部覚えている。
成海は、そういう瞬間を忘れない。
人間が何かを選び損ねる瞬間。正しい判断をしながら、間違った傷を負う瞬間。
愛情とも後悔ともつかないものが、人生の中へ深く沈み込んでいく瞬間。
それらを見るために、自分はここにいるのかもしれないと、成海は時々思う。
人生は本当に楽しい。
生きていることを忘れるくらいに楽しめる人生は幸せだ。自分はいつだって、興味のあることを追求するという自己実現を突き詰めている。
人生はこうでなくちゃ。
なぜこの謎の男は澪や青織に成海は執着するのか—




