扉と門
境界管理局、白鯨の追跡を掻い潜りながら、3人はひとときの休息を得る。
そして、青織の協力者を訪ねる—
雨は、いつの間にか本降りになっていた。
渋谷のネオンは滲み、侵食で波打った道路へ色を溶かしている。
スクランブル交差点の中央では、さっきまで白鯨が展開していた侵食制御式の残骸が、焼け焦げた紋様となってアスファルトへ刻み込まれていた。
澪はまだ呼吸を整えきれずにいた。
胸の奥が熱い。
“扉”が、完全には閉じていない。
深海の水圧みたいな感覚が、ずっと身体の奥に残っている。
エンデが心配そうに顔を覗き込む。
「……ほんとに平気?」
「平気じゃないけど……死ぬほどではない、たぶん」
澪は苦く笑おうとしたが、うまくできなかった。
「澪、エンデと共鳴して境界侵食起こせるようになった。でも侵食できる大きさはエンデほどじゃない」
「だからエンデが門。澪はまだ扉」
「扉……」
エンデの説明はあまりにも簡単だった。理屈だけなら。エンデに引きづられる形で、澪は扉を開いた――
先の見えない不安は積もるが、今はこれで納得するしかないのだろう。
青織は少し離れた場所で周囲を警戒していた。雨に濡れた黒髪が額へ張り付き、鋭い横顔をより険しく見せている。
マスクを外した彼は、前よりずっと人間らしく見えた。疲れていて。傷だらけで。ずっと眠れていない人間の顔だった。
やがて彼は壊れた信号機の傍へしゃがみ込み、白鯨の残した装置の破片を拾い上げた。焼けた金属片。
内部では、まだ黒い液体みたいなものが脈打っている。
「……やっぱりか」
「何かわかったの?」
澪が聞くと、青織は装置を指先で弄びながら答えた。
「白鯨は、“向こう側”の技術を模倣してる」
「模倣?」
「侵食現象を人工的に制御する技術だ。本来、人間側が扱えるものじゃない」
エンデが小さく呟く。
「……海の骨」
青織が視線を向ける。
「知ってるのか」
エンデは頷いた。
「向こうの世界のもの。深い場所から採れる」
「生きてる境界」
澪は顔をしかめた。
「生きてるって……素材なの、それ」
「素材でもあるし、たぶん違う」
エンデは困ったように首を傾げる。
「うまく言えない。向こうでは、境界は生き物みたいだから」
雨音が強くなる。遠くでサイレンが鳴っていた。
侵食警報だろう。けれどこの街の人間は、もう完全には逃げない。
空に裂け目があることに慣れてしまっている。異常が、日常へ沈殿している。青織はゆっくり立ち上がった。
「場所を変える」
「また追ってくるの?」
澪の問いに、青織は短く答える。
「確実に来る。管理局も白鯨も、お前を放置しない」
その言葉に、澪は胸の奥が冷えるのを感じた。
自分は、もう普通には戻れない。
白鯨の伊坂という女が言っていた。
“共鳴核”。
そして青織は、それを否定した。
――あれは、“扉”だ。
その言葉の意味を、澪はまだ理解しきれていなかった。青織は澪を見た。
「お前、自分で意識して扉を“開いた”わけじゃないな」
「……うん」
「なら、まだ制御不能段階だ」
「制御って、あれを?」
澪は思わず声を上げた。
「無理でしょ、あんなの!」
空間が海になる。人の身体が侵食される。頭の中へ知らない声が流れ込む。あれを“制御”と呼ぶこと自体、狂っている。
だが青織は真顔だった。
「制御できなければ、そのうちお前自身が境界を壊す」
澪の呼吸が止まる。青織は淡々と続けた。
「今の現象はまだ浅い。だが共鳴が進めば、“向こう側”はお前を通ってこちらへ流れ込む」
「最悪の場合、東京全域が灰域化する」
雨の音だけが響いた。
澪は言葉を失う。
エンデがそっと澪の袖を掴む。
「……だから、分けないといけない」
「分ける?」
エンデは空の裂け目を見上げた。
虹色の瞳に、黒い海が映っている。
「向こうと、こっち」
「今は混ざり始めてる」
その声は静かだった。けれど決意があった。
「このままだと、どっちも壊れる」
青織が腕を組む。
「侵食は“接続”だ」
「二つの世界の境界が曖昧になることで発生している」
「本来なら交わらないものが、重なり始めてる」
澪はゆっくり理解し始める。
「……だから空が裂けてるの?」
「ああ」
青織は頷いた。
「そしてお前の“扉”は、その接続点だ」
澪は反射的に胸元を押さえた。まだ熱い。鼓動みたいに脈打っている。
エンデがぽつりと言う。
「澪が開くと、“向こう側”が近くなる」
「でも、閉じれば離せる」
「たぶん」
「たぶん!?」
澪が叫ぶ。
エンデは少ししょんぼりした。
「……エンデ、うまく言語化できない。力不足」
青織が小さく溜息をついた。
「こいつも全部わかってるわけじゃない」
「漂流個体は“向こう側”に近すぎる。そのせいで感覚的に理解してる部分が多い」
エンデは静かに頷く。
「エンデ、“共鳴核”はわかる」
「境界が泣いてる音も」
「でも、人間の言葉にするの苦手」
澪は少し黙り込んだあと、ぽつりと聞いた。
「……エンデは、帰りたいの」
エンデは瞬きをした。
雨粒が青い髪を濡らしている。
「帰りたい、は少し違う」
「向こうは、もう壊れかけてるから」
澪の胸がざわつく。
「壊れてる?」
「うん」
エンデは裂け目を見上げたまま続けた。
「だから向こうは、こっちへ滲んできた」
「沈まないために」
その言葉に、青織の目が細くなる。
「世界そのものが生存本能で侵食を?」
「……たぶん」
エンデは頷いた。
「でも、このまま混ざると、たぶん両方沈む」
澪は息を呑んだ。
東京だけじゃない。
世界そのものの話だ。
「だからエンデ、分けたい」
小さな声。
けれどその言葉は、驚くほど強かった。
「澪の“扉”を使って」
「境界を閉じる」
青織が低く呟く。
「理論上は可能だ」
「ただし」
澪が嫌な予感を覚える。
「……ただし?」
青織は少し黙った。
雨音の向こうで、黒い海鳴りが響いている。
「境界の閉鎖には、“向こう側”へ接触する必要がある」
「侵食深度の中心へ行く」
「中心?」
「東京湾深部」
その瞬間。澪は気づく。青織の顔色が、わずかに変わったことに。そこはきっと。アオが処分された場所だ。
青織は視線を逸らしたまま続ける。
「今、最深部で最も境界が薄い場所だ」
「おそらく侵食の核もある」
エンデが静かに言った。
「……海の底の扉」
その呼び方に、青織の眉が微かに動く。
「知ってるのか」
「夢で見た」
エンデは胸元を押さえる。
「ずっと呼ばれてる」
澪は思わずエンデを見る。
青い髪。虹色の瞳。どこか儚い輪郭。アオと重なる。
青織も同じことを考えたのか、一瞬だけ目を伏せた。
だが次の瞬間。彼は観測銃を背負い直す。
「……行くぞ」
「え」
「白鯨は次は本気で来る。管理局も動く」
青織は澪を見る。
渋谷上空に現れた探照灯じみた光は、紛れもなく澪とエンデを捜索していた。
三人は雑居ビルの陰へ身を潜める。
白い光は雨粒を切り裂きながら、街をゆっくり舐めるように走査していく。スクランブル交差点。駅前広告。ビルの窓。人混みの隙間。
数秒後。
光は雲の奥へ沈むように消えていった。
だが、安心できる気配はどこにもない。
「時間がない」
青織が低く言った。
雨に濡れた黒髪をかき上げながら、周囲を鋭く見回す。探照灯が消えたからといって、安全になったわけではない。
むしろ逆だった。
境界管理局はもう、澪たちの位置をかなり正確に掴み始めている。
青織は短く舌打ちした。
「移動する」
「今すぐ?」
澪は思わず周囲を見回した。
交差点には、まだ人がいる。
侵食現象を背景に自撮りをする若者。
スマホで空の裂け目を配信している男。
何事もない顔でコンビニへ入っていく会社員。
この世界の人間は、少しずつ壊れた日常へ適応してしまっていた。
「管理局の索敵網が本格化する前に離れる」
青織はコートの内側から小型端末を取り出す。
灰色の地図上に、赤い点がいくつも点滅していた。
「地下鉄網は半分侵食済み。監視ドローンも増えてるな……」
その時。
エンデが、そっと澪の袖を引いた。
「……澪」
「ん?」
「エンデ、空腹」
澪は数秒固まった。
「この状況で?」
「空腹」
真顔だった。
青織が疲れたように額を押さえる。
「お前、さっきまで崩壊しかけてただろ」
「崩壊すると、空腹になる」
「初耳だ」
「エンデも、初めて崩壊したから」
「え!? 腕やばかった時、これぐらい平気って言ってたよね!?」
「あれ強がりだったの!?」
「エンデ、会話をいちいち記憶しない」
エンデはぎこちなく目を逸らした。あまりにも淡々としているせいで、澪は思わず吹き出しそうになる。
さっきまで命を狙われていた。空には巨大な裂け目が開いている。
それなのに、その合間へ“空腹”が割り込んでくる。変なの、と澪は思った。でも少しだけ、その変さに救われてもいた。
◇
十分後。
三人はセンター街外れの古びたラーメン屋へ入っていた。油で黄ばんだ壁。曇ったガラス。年季の入った換気扇。店内テレビには侵食警報の速報テロップが流れている。
『湾岸部にて局所灰域化——』
だが店主は慣れた様子で麺を茹でていた。
客たちも誰一人避難しようとしていない。
澪は呆然と呟く。
「……なんで普通に営業してるの」
「侵食レベル2までは営業補償が出ないからな」
青織は水を飲みながら答えた。
「東京の人間は慣れてる」
「慣れたくないよ、こんなの」
青織は少しだけ口元を緩めた。
「最初は皆そう言う」
「お母さんに警報出たら外出しないよう言われてたから、知らなかった……」
エンデは運ばれてきたラーメンを、じっと見つめていた。
「……きれい」
「そこ?」
どこに美しさを見出したのか分からない。スープは確かに淡麗系ではあるが……エンデが真剣な顔をしているから澪はつい笑ってしまう。
エンデは恐る恐る箸を持った。かなり危なっかしい。というより、明らかに使い慣れていない。青織が隣から淡々と言う。
「逆だ」
「……?」
「持ち方」
「こう?」
「違う」
数秒後には結局、青織がエンデへ箸の持ち方を教えていた。澪は思わずまじまじと見る。
「青織って、そういうことするんだ……」
「どういう意味だ」
「もっとこう、冷たくて怖い人かと思ってた」
「怖い」
エンデが即答した。
「おい」
だがエンデは続ける。
「でも、やさしい」
青織が黙る。その顔が少しだけ困ったみたいで、澪はまた笑いそうになった。褒められ慣れていない人だ。
「というか……」
青織のテーブルを澪とエンデは唖然としてみる。
大盛りのラーメン。炒飯。餃子。天津飯。青菜炒め。
卵のトマト炒め――宴会かと言うほど頼んでいる。
「なんだ?食べたいなら頼め。俺の分はやらんぞ」
「いや食べないけど!?」
澪は即座に食いかかった。
「栄養摂取にしては素材に卵――タンパク質が多くみえる」
エンデ……いやもう疲れた。澪は考えることをやめてラーメンを啜った。
◇
店を出る頃には、雨は少し弱まっていた。青織は人通りの少ない裏路地を選んで進んでいく。
途中、侵食警戒用の青いドローンが低空を横切った。
三人は即座に軒下へ身を隠す。ドローンは電子音を鳴らしながら通過していった。
澪が小声で聞く。
「これ、いつまで逃げるの」
「東京湾へ向かうまで」
「いや、その前に」
青織は少し間を置いてから答えた。
「協力者に会う」
「協力者?」
「ああ。昔の知り合いだ」
◇
渋谷区を出て新宿区外れ。
古びた雑居ビルの三階。掠れた看板には、《雨燕古書店》と書かれていた。半分ほど文字が侵食で滲んでいる。
「……営業してるの、ここ」
「してる」
青織は迷わず扉を開けた。
中には、本が山みたいに積まれていた。紙の匂い。埃。古いランプの灯り。
壁際には侵食関連の古書や観測記録が無造作に詰め込まれている。そして。
「……うわ。本当に来た」
気怠げな女の声。
本の山の向こうから現れたのは、青織と同年代くらいの女性だった。
長い黒髪を後ろで緩く束ね、切れ長の目に黒曜石のような瞳が輝いて印象的だ。
白いシャツにカーディガンという地味な格好だが、不思議と目を引く雰囲気があった。
古書店員らしい落ち着いた空気。
だが、その奥に観察者めいた鋭さがある。
彼女は青織を見るなり、片眉を上げた。
「お前、自分から連絡寄越すことあったんだ」
「緊急事態だ」
「世界、終わる?」
「終わりかけてる」
「知ってる」
女は肩を竦めて笑った。
だが、その視線がエンデへ向いた瞬間、空気が変わる。
「……は」
今度は澪を見る。
数秒の沈黙。
「なるほど」
「厄介なの抱え込んだね、青織」
青織は壁へ寄りかかった。
「泊めろ」
「命令?」
「頼んでる」
女がわざとらしく目を丸くする。
「青織が?」
「今日、槍でも降る?」
「降ってるのは海だ」
「わかった。わかった。でも食費は持たないからね!古破産しちゃう。」
彼女は吹き出した。
澪は二人を交互に見る。
「知り合い……?」
「元・境界管理局解析班」
青織が答える。
「時任 紫乃」
紫乃は軽く手を振った。
「今は古書店店主兼、非合法情報屋兼、侵食現象研究者」
「つまり胡散臭い奴だ」
「青織は相変わらず愛想がないな♡」
軽口。
だが澪には分かった。
青織はこの人の前だと、少しだけ空気が柔らかい。
きっと長い付き合いなのだろう。
紫乃はエンデを見つめたまま、静かに言う。
「……漂流個体か」
「しかも“門”級寄り」
エンデが首を傾げる。
「こんばんは」
「礼儀正しいな」
「エンデ、言葉の努力してる」
紫乃は少し笑った。それから不意に、青織へ視線を戻す。
「……青織、まさかとは思うけど」
空気が止まる。
澪はすぐ理解した。彼女はアオとエンデを重ねたのだろう――そして青織を案じているのかもしれない。
青織は数秒沈黙したあと、低く返す。
「違う」
「ふうん」
紫乃はそれ以上追及しなかった。
代わりに、本の山から古い地図を引っ張り出してテーブルへ広げる。
東京湾侵食分布図。
黒い染みみたいな侵食域が、湾岸部へ集中していた。
「状況は最悪に近い」
紫乃の声音が変わる。研究者の声だった。
「ここ数日で侵食深度が急激に上昇してる」
「特に湾中央部」
彼女は地図の一点を指差した。
「旧・海上観測基底区画」
青織の目がわずかに細くなる。
そこは、アオが最後にいた場所に近い。
紫乃は静かに続けた。
「管理局も白鯨も、たぶんそこを目指してる」
「“向こう側”が本格的に開き始めてる」
エンデがぽつりと呟く。
「……海の底、起きる」
澪は息を呑んだ。
紫乃は今度は澪を見る。
「で、君」
「本当に行くの?」
澪は少し黙った。
怖い。
本当は普通に戻りたい。学校へ行って、友達と喋って、こんな空を見ないまま生きたかった。
けれど。
エンデが消されるのは嫌だった。あんなふうに、“資源”として扱われるのは。澪はゆっくり拳を握る。
「……行く」
エンデが静かに澪を見る。
青織は何も言わなかった。
ただ、その目だけがやほんの少しだけ、柔らかくなっていた。
雨燕古書店は暖かく三人を迎える。
東京湾で起こっていること、澪とエンデがしなくてはならないこととは—




