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8/25

扉と門

境界管理局、白鯨の追跡を掻い潜りながら、3人はひとときの休息を得る。

そして、青織の協力者を訪ねる—

 雨は、いつの間にか本降りになっていた。

 

 渋谷のネオンは滲み、侵食で波打った道路へ色を溶かしている。


 スクランブル交差点の中央では、さっきまで白鯨が展開していた侵食制御式の残骸が、焼け焦げた紋様となってアスファルトへ刻み込まれていた。

 

 澪はまだ呼吸を整えきれずにいた。

 

 胸の奥が熱い。

 

 “扉”が、完全には閉じていない。

 

 深海の水圧みたいな感覚が、ずっと身体の奥に残っている。

 

 エンデが心配そうに顔を覗き込む。

 

「……ほんとに平気?」

 

「平気じゃないけど……死ぬほどではない、たぶん」

 

 澪は苦く笑おうとしたが、うまくできなかった。

 

「澪、エンデと共鳴して境界侵食起こせるようになった。でも侵食できる大きさはエンデほどじゃない」

 

「だからエンデが門。澪はまだ扉」

 

「扉……」

 

 エンデの説明はあまりにも簡単だった。理屈だけなら。エンデに引きづられる形で、澪は扉を開いた――

 

 先の見えない不安は積もるが、今はこれで納得するしかないのだろう。

 

 青織は少し離れた場所で周囲を警戒していた。雨に濡れた黒髪が額へ張り付き、鋭い横顔をより険しく見せている。


 マスクを外した彼は、前よりずっと人間らしく見えた。疲れていて。傷だらけで。ずっと眠れていない人間の顔だった。

 

 やがて彼は壊れた信号機の傍へしゃがみ込み、白鯨の残した装置の破片を拾い上げた。焼けた金属片。


 内部では、まだ黒い液体みたいなものが脈打っている。

 

「……やっぱりか」

 

「何かわかったの?」

 

 澪が聞くと、青織は装置を指先で弄びながら答えた。

 

「白鯨は、“向こう側”の技術を模倣してる」

 

「模倣?」

 

「侵食現象を人工的に制御する技術だ。本来、人間側が扱えるものじゃない」

 

 エンデが小さく呟く。

 

「……海の骨」

 

 青織が視線を向ける。

 

「知ってるのか」

 

 エンデは頷いた。

 

「向こうの世界のもの。深い場所から採れる」

 

「生きてる境界」

 

 澪は顔をしかめた。

 

「生きてるって……素材なの、それ」

 

「素材でもあるし、たぶん違う」

 

 エンデは困ったように首を傾げる。

 

「うまく言えない。向こうでは、境界は生き物みたいだから」

 

 雨音が強くなる。遠くでサイレンが鳴っていた。

 侵食警報だろう。けれどこの街の人間は、もう完全には逃げない。

 

 空に裂け目があることに慣れてしまっている。異常が、日常へ沈殿している。青織はゆっくり立ち上がった。

 

「場所を変える」

 

「また追ってくるの?」

 

 澪の問いに、青織は短く答える。

 

「確実に来る。管理局も白鯨も、お前を放置しない」

 

 その言葉に、澪は胸の奥が冷えるのを感じた。

 

 自分は、もう普通には戻れない。

 

 白鯨の伊坂という女が言っていた。

 

 “共鳴核”。

 

 そして青織は、それを否定した。

 

 ――あれは、“扉”だ。

 

 その言葉の意味を、澪はまだ理解しきれていなかった。青織は澪を見た。

 

「お前、自分で意識して扉を“開いた”わけじゃないな」

 

「……うん」

 

「なら、まだ制御不能段階だ」

 

「制御って、あれを?」

 

 澪は思わず声を上げた。

 

「無理でしょ、あんなの!」

 

 空間が海になる。人の身体が侵食される。頭の中へ知らない声が流れ込む。あれを“制御”と呼ぶこと自体、狂っている。

 

 だが青織は真顔だった。

 

「制御できなければ、そのうちお前自身が境界を壊す」

 

 澪の呼吸が止まる。青織は淡々と続けた。

 

「今の現象はまだ浅い。だが共鳴が進めば、“向こう側”はお前を通ってこちらへ流れ込む」

 

「最悪の場合、東京全域が灰域化する」

 

 雨の音だけが響いた。

 

 澪は言葉を失う。

 エンデがそっと澪の袖を掴む。

 

「……だから、分けないといけない」

 

「分ける?」

 

 エンデは空の裂け目を見上げた。

 虹色の瞳に、黒い海が映っている。

 

「向こうと、こっち」

 

「今は混ざり始めてる」

 

 その声は静かだった。けれど決意があった。

 

「このままだと、どっちも壊れる」

 

 青織が腕を組む。

 

「侵食は“接続”だ」

 

「二つの世界の境界が曖昧になることで発生している」

 

「本来なら交わらないものが、重なり始めてる」

 

 澪はゆっくり理解し始める。

 

「……だから空が裂けてるの?」

 

「ああ」

 

 青織は頷いた。

 

「そしてお前の“扉”は、その接続点だ」

 

 澪は反射的に胸元を押さえた。まだ熱い。鼓動みたいに脈打っている。

 

 エンデがぽつりと言う。

 

「澪が開くと、“向こう側”が近くなる」

 

「でも、閉じれば離せる」

 

「たぶん」

 

「たぶん!?」

 

 澪が叫ぶ。

 エンデは少ししょんぼりした。

 

「……エンデ、うまく言語化できない。力不足」

 

 青織が小さく溜息をついた。

 

「こいつも全部わかってるわけじゃない」

 

「漂流個体は“向こう側”に近すぎる。そのせいで感覚的に理解してる部分が多い」

 

 エンデは静かに頷く。

 

「エンデ、“共鳴核”はわかる」

 

「境界が泣いてる音も」

 

「でも、人間の言葉にするの苦手」

 

 澪は少し黙り込んだあと、ぽつりと聞いた。

 

「……エンデは、帰りたいの」

 

 エンデは瞬きをした。

 

 雨粒が青い髪を濡らしている。

 

「帰りたい、は少し違う」

 

「向こうは、もう壊れかけてるから」

 

 澪の胸がざわつく。

 

「壊れてる?」

 

「うん」

 

 エンデは裂け目を見上げたまま続けた。

 

「だから向こうは、こっちへ滲んできた」

 

「沈まないために」

 

 その言葉に、青織の目が細くなる。

 

「世界そのものが生存本能で侵食を?」

 

「……たぶん」

 

 エンデは頷いた。

 

「でも、このまま混ざると、たぶん両方沈む」

 

 澪は息を呑んだ。

 

 東京だけじゃない。

 世界そのものの話だ。

 

「だからエンデ、分けたい」

 

 小さな声。

 けれどその言葉は、驚くほど強かった。

 

「澪の“扉”を使って」

 

「境界を閉じる」

 

 青織が低く呟く。

 

「理論上は可能だ」

 

「ただし」

 

 澪が嫌な予感を覚える。

 

「……ただし?」

 

 青織は少し黙った。

 

 雨音の向こうで、黒い海鳴りが響いている。

 

「境界の閉鎖には、“向こう側”へ接触する必要がある」

 

「侵食深度の中心へ行く」

 

「中心?」

 

「東京湾深部」

 

 その瞬間。澪は気づく。青織の顔色が、わずかに変わったことに。そこはきっと。アオが処分された場所だ。

 

 青織は視線を逸らしたまま続ける。

 

「今、最深部で最も境界が薄い場所だ」

 

「おそらく侵食の核もある」

 

 エンデが静かに言った。

 

「……海の底の扉」

 

 その呼び方に、青織の眉が微かに動く。

 

「知ってるのか」

 

「夢で見た」

 

 エンデは胸元を押さえる。

 

「ずっと呼ばれてる」

 

 澪は思わずエンデを見る。

 青い髪。虹色の瞳。どこか儚い輪郭。アオと重なる。

 

 青織も同じことを考えたのか、一瞬だけ目を伏せた。

 だが次の瞬間。彼は観測銃を背負い直す。

 

「……行くぞ」

 

「え」

 

「白鯨は次は本気で来る。管理局も動く」

 

 青織は澪を見る。

 

 渋谷上空に現れた探照灯じみた光は、紛れもなく澪とエンデを捜索していた。

 三人は雑居ビルの陰へ身を潜める。

 

 白い光は雨粒を切り裂きながら、街をゆっくり舐めるように走査していく。スクランブル交差点。駅前広告。ビルの窓。人混みの隙間。

 

 数秒後。

 

 光は雲の奥へ沈むように消えていった。

 だが、安心できる気配はどこにもない。

 

「時間がない」

 

 青織が低く言った。

 雨に濡れた黒髪をかき上げながら、周囲を鋭く見回す。探照灯が消えたからといって、安全になったわけではない。

 

 むしろ逆だった。

 

 境界管理局はもう、澪たちの位置をかなり正確に掴み始めている。

 

 青織は短く舌打ちした。

 

「移動する」

 

「今すぐ?」

 

 澪は思わず周囲を見回した。

 交差点には、まだ人がいる。

 

 侵食現象を背景に自撮りをする若者。

 スマホで空の裂け目を配信している男。

 何事もない顔でコンビニへ入っていく会社員。

 

 この世界の人間は、少しずつ壊れた日常へ適応してしまっていた。

 

「管理局の索敵網が本格化する前に離れる」

 

 青織はコートの内側から小型端末を取り出す。

 灰色の地図上に、赤い点がいくつも点滅していた。


「地下鉄網は半分侵食済み。監視ドローンも増えてるな……」

 

 その時。

 

 エンデが、そっと澪の袖を引いた。

 

「……澪」

 

「ん?」

 

「エンデ、空腹」

 

 澪は数秒固まった。

 

「この状況で?」

 

「空腹」

 

 真顔だった。

 

 青織が疲れたように額を押さえる。

 

「お前、さっきまで崩壊しかけてただろ」

 

「崩壊すると、空腹になる」

 

「初耳だ」

 

「エンデも、初めて崩壊したから」

 

 「え!? 腕やばかった時、これぐらい平気って言ってたよね!?」

 「あれ強がりだったの!?」

 

「エンデ、会話をいちいち記憶しない」

 

 エンデはぎこちなく目を逸らした。あまりにも淡々としているせいで、澪は思わず吹き出しそうになる。

 

 さっきまで命を狙われていた。空には巨大な裂け目が開いている。


 それなのに、その合間へ“空腹”が割り込んでくる。変なの、と澪は思った。でも少しだけ、その変さに救われてもいた。

 

 ◇

 

 十分後。

 

 三人はセンター街外れの古びたラーメン屋へ入っていた。油で黄ばんだ壁。曇ったガラス。年季の入った換気扇。店内テレビには侵食警報の速報テロップが流れている。

 

『湾岸部にて局所灰域化——』

 

 だが店主は慣れた様子で麺を茹でていた。

 客たちも誰一人避難しようとしていない。

 澪は呆然と呟く。

 

「……なんで普通に営業してるの」

 

「侵食レベル2までは営業補償が出ないからな」

 

 青織は水を飲みながら答えた。

 

「東京の人間は慣れてる」

 

「慣れたくないよ、こんなの」

 

 青織は少しだけ口元を緩めた。

 

「最初は皆そう言う」

 

「お母さんに警報出たら外出しないよう言われてたから、知らなかった……」

 

 エンデは運ばれてきたラーメンを、じっと見つめていた。

 

「……きれい」

 

「そこ?」

 

 どこに美しさを見出したのか分からない。スープは確かに淡麗系ではあるが……エンデが真剣な顔をしているから澪はつい笑ってしまう。

 

 エンデは恐る恐る箸を持った。かなり危なっかしい。というより、明らかに使い慣れていない。青織が隣から淡々と言う。

 

「逆だ」

 

「……?」

 

「持ち方」

 

「こう?」

 

「違う」

 

 数秒後には結局、青織がエンデへ箸の持ち方を教えていた。澪は思わずまじまじと見る。

 

「青織って、そういうことするんだ……」

 

「どういう意味だ」

 

「もっとこう、冷たくて怖い人かと思ってた」

 

「怖い」

 

 エンデが即答した。

 

「おい」

 

 だがエンデは続ける。

 

「でも、やさしい」

 

 青織が黙る。その顔が少しだけ困ったみたいで、澪はまた笑いそうになった。褒められ慣れていない人だ。

 

「というか……」

 

 青織のテーブルを澪とエンデは唖然としてみる。

 

 大盛りのラーメン。炒飯。餃子。天津飯。青菜炒め。

 卵のトマト炒め――宴会かと言うほど頼んでいる。

 

「なんだ?食べたいなら頼め。俺の分はやらんぞ」

 

「いや食べないけど!?」

 

 澪は即座に食いかかった。

 

「栄養摂取にしては素材に卵――タンパク質が多くみえる」

 

 エンデ……いやもう疲れた。澪は考えることをやめてラーメンを啜った。

 

 ◇

 

 店を出る頃には、雨は少し弱まっていた。青織は人通りの少ない裏路地を選んで進んでいく。

 

 途中、侵食警戒用の青いドローンが低空を横切った。

 三人は即座に軒下へ身を隠す。ドローンは電子音を鳴らしながら通過していった。

 

 澪が小声で聞く。

 

「これ、いつまで逃げるの」

 

「東京湾へ向かうまで」

 

「いや、その前に」

 

 青織は少し間を置いてから答えた。

 

「協力者に会う」

 

「協力者?」

 

「ああ。昔の知り合いだ」

 

 ◇

 

 渋谷区を出て新宿区外れ。

 

 古びた雑居ビルの三階。掠れた看板には、《雨燕古書店》と書かれていた。半分ほど文字が侵食で滲んでいる。

 

「……営業してるの、ここ」

「してる」

 

 青織は迷わず扉を開けた。

 中には、本が山みたいに積まれていた。紙の匂い。埃。古いランプの灯り。

 

 壁際には侵食関連の古書や観測記録が無造作に詰め込まれている。そして。

 

「……うわ。本当に来た」

 

 気怠げな女の声。

 

 本の山の向こうから現れたのは、青織と同年代くらいの女性だった。

 

 長い黒髪を後ろで緩く束ね、切れ長の目に黒曜石のような瞳が輝いて印象的だ。

 

 白いシャツにカーディガンという地味な格好だが、不思議と目を引く雰囲気があった。

 

 古書店員らしい落ち着いた空気。

 

 だが、その奥に観察者めいた鋭さがある。

 彼女は青織を見るなり、片眉を上げた。

 

「お前、自分から連絡寄越すことあったんだ」

 

「緊急事態だ」

 

「世界、終わる?」

 

「終わりかけてる」

 

「知ってる」

 

 女は肩を竦めて笑った。

 だが、その視線がエンデへ向いた瞬間、空気が変わる。

 

「……は」

 

 今度は澪を見る。

 

 数秒の沈黙。

 

「なるほど」

 

「厄介なの抱え込んだね、青織」

 

 青織は壁へ寄りかかった。

 

「泊めろ」

 

「命令?」

 

「頼んでる」

 

 女がわざとらしく目を丸くする。

 

「青織が?」

 

「今日、槍でも降る?」

 

「降ってるのは海だ」

 

「わかった。わかった。でも食費は持たないからね!古破産しちゃう。」

 

 彼女は吹き出した。

 澪は二人を交互に見る。

 

「知り合い……?」

 

「元・境界管理局解析班」

 

 青織が答える。

 

時任ときとう 紫乃しの

 

 紫乃は軽く手を振った。

 

「今は古書店店主兼、非合法情報屋兼、侵食現象研究者」

 

「つまり胡散臭い奴だ」

 

「青織は相変わらず愛想がないな♡」

 

 軽口。

 だが澪には分かった。

 

 青織はこの人の前だと、少しだけ空気が柔らかい。

 きっと長い付き合いなのだろう。

 

 紫乃はエンデを見つめたまま、静かに言う。

 

「……漂流個体か」

 

「しかも“門”級寄り」

 

 エンデが首を傾げる。

 

「こんばんは」

 

「礼儀正しいな」

 

「エンデ、言葉の努力してる」

 

 紫乃は少し笑った。それから不意に、青織へ視線を戻す。

 

「……青織、まさかとは思うけど」

 

 空気が止まる。

 澪はすぐ理解した。彼女はアオとエンデを重ねたのだろう――そして青織を案じているのかもしれない。

 

 青織は数秒沈黙したあと、低く返す。

 

「違う」

 

「ふうん」

 

 紫乃はそれ以上追及しなかった。

 代わりに、本の山から古い地図を引っ張り出してテーブルへ広げる。

 

 東京湾侵食分布図。

 黒い染みみたいな侵食域が、湾岸部へ集中していた。

 

「状況は最悪に近い」

 

 紫乃の声音が変わる。研究者の声だった。

 

「ここ数日で侵食深度が急激に上昇してる」

 

「特に湾中央部」

 

 彼女は地図の一点を指差した。

 

「旧・海上観測基底区画」

 

 青織の目がわずかに細くなる。

 そこは、アオが最後にいた場所に近い。

 

 紫乃は静かに続けた。

 

「管理局も白鯨も、たぶんそこを目指してる」

 

「“向こう側”が本格的に開き始めてる」

 

 エンデがぽつりと呟く。

 

「……海の底、起きる」

 

 澪は息を呑んだ。

 紫乃は今度は澪を見る。

 

「で、君」

 

「本当に行くの?」

 

 澪は少し黙った。

 

 怖い。

 

 本当は普通に戻りたい。学校へ行って、友達と喋って、こんな空を見ないまま生きたかった。

 

 けれど。

 

 エンデが消されるのは嫌だった。あんなふうに、“資源”として扱われるのは。澪はゆっくり拳を握る。

 

「……行く」

 

 エンデが静かに澪を見る。

 青織は何も言わなかった。

 

 ただ、その目だけがやほんの少しだけ、柔らかくなっていた。

 雨燕古書店は暖かく三人を迎える。

東京湾で起こっていること、澪とエンデがしなくてはならないこととは—

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