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奇襲

青織の過去のアオ。深まる謎。そして3人は思わぬ刺客を迎え撃つことになる—


 ◇

 

その日は雨だった。

 

 まだ侵食が今ほど日常に染み込む前。

 東京湾沿岸の旧観測施設。窓の外では、黒い海が静かに波打っていた。

 

 青織は観測室の椅子に座ったまま、仮眠も取らず報告書を書いていた。三日目だった。

 

 コーヒーは冷え切り、灰皿には吸い殻が積もっている。

 

 その時。

 

 後ろから歌声が聞こえた。澄んだ、静かな旋律。

 振り返ると、青い髪の少女が窓辺に座っていた。裸足のまま、膝を抱えて、暗い海を見ている。

 

「……また眠ってない」

 

 アオだった。

 

 青織は端末から目を逸らさない。

 

「寝ている暇はない」

 

「嘘。怖いから寝たくないだけ」

 

 痛いところをつかれた。彼女は容赦なく青織の本音を曝け出してくる。


 青織は自分の気持ちや考えを人に伝える性分ではなかったために、含みを持たせて放った言葉をすぐにひっぺがえされて単純な本音にされることに最初は当惑した。

 

 侵食区域へ入る人間は、皆悪夢を見る。海の夢。沈む夢。知らない声に呼ばれる夢。青織も例外ではなかったた。

 

 アオは窓枠から飛び降り、彼の隣へ来る。

 

「歌う?」

 

「いらん」

 

「でも青織、今日ずっと手震えてる」

 

 青織はそこで初めて、自分の右手が小刻みに震えていることに気づいた。

 

 アオは小さく笑った。

 

「だいじょうぶ。青織は、ちゃんと()()()()()にいるよ」

 

 その声だけで、少しだけ呼吸が楽になった。

 青織は、その感覚を今でも忘れられない。


 ◇


 渋谷の夜風が、黒いコートを揺らしていた。

 

 スクランブル交差点。巨大ビジョン。雑踏。警報。

 それでも東京は動き続けている。澪は、黙ったまま青織を見ていた。

 

 その横顔は静かだった。けれどその静けさの下に、ずっと消えない傷があることがわかる。

 

 エンデもまた、何も言わなかった。

 

 巨大な月にはエンデと澪がつけた大きな亀裂ができていた。まさか現実の月にも影響が出ていたなんて――

 

 空の裂け目の向こうで、黒い海がゆっくり脈打っている。その時だった。不意にぞくり、と澪の背筋を冷たいものが撫でた。視線が刺さる。誰かに見られている。


 青織も同時に反応した。

 

「……隠れろ」

 

 低い声。

 

「え?」

 

「早く」

 

 次の瞬間だった。

 

 乾いた銃声。

 澪のいた場所のアスファルトが爆ぜる。

 

「っ!?」

 

 青織が澪の腕を掴み、強引に引き倒した。

すぐ横の信号機へ黒い杭みたいなものが突き刺さる。

 

高温で物が蒸発するような異音。信号機が侵食されたみたいに崩れ落ちた。

 

 エンデが目を見開く。

 

「……境界弾」

 

 ビルの上。そこに人影が立っていた。


 白い戦術装束。顔を覆う白い布背中には奇妙な箱型装置。

 三人。いや、五人。全員がこちらを見下ろしている。

 青織の声が低くなる。

 

「……《白鯨》か」

 

「知ってるの?」

 

 澪が息を呑む。

 青織は観測銃を抜いたまま答えた。

 

「境界管理局とは別の連中だ」

 

「侵食技術を売買してる灰色組織。漂流個体を回収してる」

 

 その瞬間。

 

 ビル上の一人が、機械越しにくぐもった声を発した。

 

「対象確認」

 

「漂流個体一体」

 

「共鳴核一名」

 

 澪の胸が冷える。共鳴核。それはきっと、自分のことだ。

 

 「捕獲を開始します」

 

 直後。五人が一斉に飛び降りた。人間離れした動きだった。

 

 着地と同時にアスファルトへ黒い紋様が広がる。侵食制御式。青織が舌打ちする。

 

 「管理局より趣味が悪いな」

 

 一人が澪へ一直線に突っ込んでくる。

 

 澪は反射的に後退した。だが速い。次の瞬間には目前に間を詰められる。

 

 白い布の奥から、冷たい声。

 

「抵抗しないでください」

 

「あなたは非常に高価です」

 

 何を言っているのか即座に理解できなかった。肉や魚に根付けをするように、私も値踏みされた。こんなこと人生で一度もない。寒気がした。

 

 その瞬間。轟音。青白い閃光が横殴りに走った。青織の観測銃。白面の男が吹き飛び、ガードレールへ激突する。

 

 青織は澪の前へ立った。

 

「商品扱いは気に入らん」

 

 低いで唸る。その空気が変わる。さっきまでの静かな男ではなかった。侵食最前線を生き延びてきた観測者の目だった。

 

 白鯨の一人が呟く。

 

「元・特殊観測班。《青織》」

 

「危険度、修正」

 

「今さらか」

 

 青織が銃口を向ける。だがその瞬間。別方向から黒いワイヤーが射出された。

 

「っ!」

 

 エンデの足へ絡みつく。エンデが小さく息を呑む。

ワイヤーは侵食素材だった。黒い海みたいに脈打っている。

 

「エンデ!」

 

 澪が駆け寄ろうとした瞬間。白鯨の女が笑った。

 

「その漂流個体、“門”級ですね?」

 

「久しぶりの当たりだ」

 

 エンデの虹色の瞳が揺れる。その言葉に、青織の殺気が変わった。本気だった。

 

 「……そいつに触るな」

 

 静かすぎる声。次の瞬間。青織の周囲に青い波紋が広がった。

 

 「――境界固定」

 

 空気が、凍る。ワイヤーが途中で停止した。いや、“存在”そのものを固定された。白鯨の面の奥で動揺が走る。

 

 「固定速度が異常――」

 

 最後まで言わせなかった。青織が一歩踏み込む。乾いた音が轟く。至近距離の射撃。青白い衝撃が白鯨の男を吹き飛ばし、交差点の標識ごと粉砕した。


 人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。空では黒い海が脈打っている。

 エンデは拘束を振りほどきながら、小さく呟いた。

 

「……青織、怒ってる」

 

 澪にもわかった。

 今の青織は、

 エンデを見ているようで、きっと別の誰かを重ねている。

  

 守れなかった少女。

 

 歌をうたう、青い髪の漂流個体。アオを。

 

 その瞬間だった。渋谷上空に走っていた裂け目が、不意に脈を打つように広がった。

 

 びきり、と硬質な音が夜空を裂く。ガラスが割れる音にも似ていたが、それはもっと巨大で、現実そのものに亀裂が入るような響きだった。

 

 スクランブル交差点のネオンが一斉に明滅する。


 大型ビジョンには砂嵐が走り、映っていた広告映像が次々と黒い海の映像へ塗り替わっていった。深海。ゆらめく魚影。どこまでも沈み続ける暗い水底。

 

 信号機が逆再生みたいに点滅し始める。

 

 赤、青、黄。


 意味を失った色彩が狂った順番で瞬き、その足元ではアスファルトの隙間から黒い海水がじわじわと滲み出していた。

 

 周囲の人々も異変に気づき始めている。スマホを落とす者。悲鳴を上げる者。呆然と空を見上げる者。


 それでも誰も、“本当に何が起きているのか”までは理解できていない。

 

 理解できないまま、東京だけが静かに侵食されていく。澪は胸を押さえていた。心臓ではない。もっと奥。


 身体の深部で、“扉”が脈打っている。

 

 脈動のたびに、頭の奥へ冷たい水が流れ込んでくるみたいだった。

 

「っ……」

 

 視界が揺れる。耳鳴り。吐き気。その奥から、無数の声が染み出してくる。

 

 『ひらけ』

 『こちらへ』

 『かえして』

 『みお』

 

 澪は思わず膝をついた。呼ばれている。どこか遠い深海から。何か巨大なものが、自分を見つけてしまったみたいに。

 

「澪!」

 

 エンデが慌てて駆け寄る。その瞬間――

 白鯨の装備が一斉に警告音を鳴らし始める。

 

「共鳴反応急上昇!」

「対象内部に高次位相反応を確認!」

「核形成段階へ移行――」

 

「今なら回収できます」

 

 白い布越しの機械音声。まるで人間ではなく、希少資源の数値変動を報告しているみたいだった。

 

「黙れ」

 

 低い声が、それを遮った。

 

 青織だった。雨に濡れた黒髪が額へ張りつき、鋭い眼差しが真正面から白鯨を射抜いている。


 精悍な顔立ちは本来なら人目を引くほど整っているはずなのに、今はその疲れ切った目だけが妙に印象的だった。

 

 青織は澪を庇うように前へ出る。その姿を見て、白鯨の女が小さく笑った。

 

「……変わりませんね、あなたは」

 

 青織の眉が僅かに動く。

 

 女は顔を覆う白布をゆっくり外した。

 

 現れたのは、長い灰銀色の髪。切れ長の目。口元には薄い笑みが浮かんでいる女。

 

 澪は気づく。二人の間には、初対面特有の探り合いがない。もっと古い。もっと嫌な沈黙だった。

 

 青織が低く呟く。

 

「……まだ生きてたのか。伊坂」

 

 女――伊坂は肩をすくめた。

 

「そちらこそ。管理局を捨てた人間は、大抵もっと早く死ぬと思っていました」

 

「お前ら白鯨がしつこいせいでな」

 

「それは光栄です」

 

 淡々とした会話。なのに、その空気は刃物みたいに鋭かった。

 

 澪は戸惑いながら二人を見る。

 

「知り合い……?」

 

 青織は答えない。代わりに伊坂が笑った。

 

「元同僚ですよ。境界管理局以前、《特殊空間災害対策室》時代の」

 

 澪が息を呑む。伊坂は続けた。

 

「もっとも、思想が合わなかった」

 

「私は最初から、“漂流個体”を人類の敵だと思っていましたから」

 

 その視線がエンデへ向く。エンデは無言で澪の前へ立った。虹色の瞳が静かに揺れている。

 

「でも青織だけは違った」

 

 伊坂の声は穏やかだった。

 

「あなた、あの青い子を本気で守ろうとしていたでしょう?」

 

 その瞬間。青織の空気が変わった。静かに、極限まで冷え切って全てが止まるかのような、その一方で何か大きな奔流が一息に流れ出るような危うい感覚。

 

 伊坂は構わず続ける。

 

「覚えていますか?」

 

「東京湾侵食の日」

 

「あなた、処分室の前で銃を向けましたよね」

 

 澪の呼吸が止まる。青織は何も言わない。だが、その沈黙だけで十分だった。

 

「結局、撃てなかった」

 

 伊坂は静かに笑う。

 

「あなたは昔から、肝心なところで甘い」

 

「だから守れなかった」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 澪の中で、何かが切れた。

 

「……ふざけないで」

 

 自分でも驚くほど低い声だった。伊坂の視線が澪へ向く。

 

 怖かった。

 

 身体は震えている。頭痛も酷い。それでも胸の奥の“扉”だけは、熱を持って脈打ち続けていた。

 

「エンデはモノじゃない」

 

 息が切れる。空間が揺れる。

 

「青織も……」

 

 鼓動が早まる。

 

「そんなふうに言うな……!」

 

 その瞬間。世界の音が遠ざかった。

 交差点の喧騒。車の音。人々の悲鳴。全部が水の底へ沈んでいく。

 

 代わりに響き始めたのは、夜の波の音だった。

 ざぶり。ざぶり。深く暗い、灯りのない夜のような黒い海が、澪の足元から静かに溢れ出していく。

 

「っ!?」

 

 白鯨が一斉に後退した。アスファルトが水面みたいに波打ち始める。交差点そのものが、深海へ沈み始めたみたいだった。

 

 空の裂け目が共鳴する。ひび割れはフラクタル状にさらに大きく広がっていく。エンデが目を見開いた。

 

「……澪、エンデと共鳴しただけじゃない」

 

「澪は何者?」

 

 エンデは独りごちた。彼女のことはただ、異世界侵食に巻き込まれて強い感情に当てられて仮初の"扉"の力が芽生えたのだと思っていた。


 だが、ここまでの共鳴は想定にない。何か因果があるはず……

 

 澪の瞳の奥で、淡い青白い光が揺れている。

 

 彼女には見えていた。黒い海の底。巨大な扉。その向こう側で蠢く、無数の影。何かがこちらを見ている。そして。歓迎している。

 

 白鯨の装置が激しく警告音を鳴らした。

 

『位相崩壊』

『侵食深度急上昇』

『観測限界突破』

 

「まずい……!」

 

 伊坂の顔から、初めて余裕が消える。

 

「総員下がれ!共鳴核による境界侵食が起きる!」

 

 だがもう遅かった。澪の足元から広がった黒い波紋が、白鯨の侵食制御式へ触れる。その瞬間。術式が反転した。

 

「な――」

 

 黒い紋様が暴走する。制御されていた侵食が逆流し、白鯨の装備へ噛みつくみたいに食い込んだ。

 

 箱型装置が火花を散らし、空間が激しく軋む。

 歪むような不快な音がして白鯨の一人の腕が突然半透明になった。

 

「位相固定が崩れる!?」

 

「撤退!!」

 

 伊坂が叫ぶ。直後、白い煙幕弾が炸裂した。轟音。閃光。視界が真っ白に染まる。

 

 同時に澪の意識も深海へ引きずり込まれていく。

 

 『みお』『こちらへ』『扉を』『ひらいて』

 

「や……っ」

 

 沈む。意識が呑まれる。

 

 その時。

 

 強い力で肩を掴まれた。

 

「澪!!」

 

 青織だった。低く、鋭い声。

 

「戻れ!」

 

 その声だけで、澪の意識が引き戻される。

 視界が戻った時には、白鯨の姿はもう消えていた。

 

 残されたのは、侵食で波打つ交差点と、壊れた信号機だけ。

 

 雨が静かに降り始めている。澪は荒い呼吸を繰り返した。

 エンデが不安そうに顔を覗き込む。

 

「……澪、大丈夫?」

 

「わかんない……」

 

 震える声だけが響いた――

白鯨を退けたものの、澪の力は不安定である、これから一体どうなる!

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