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海の向こうに

澪、エンデ、青織の3人は進む。そこには激変した渋谷が広がっていた——

 澪の胸の奥でまた“扉”が脈打つ。

 

 どくん、と鈍い振動が身体の深い場所へ広がった。それは心臓の鼓動ではない。


 もっと静かで、もっと巨大なものだった。まるで深海の底で眠る何かが、ゆっくり目を覚まし始めているみたいだった。

 

 同時に、部屋の空気が変わる。

 

 止まっていた黒い海が、ざわり、と怯えたように波打った。顔のない人影たちが後退する。裂けた口から漏れていた笑い声も、いつの間にか消えていた。

 

 青織が鋭く目を細める。

 

「……共鳴率がまた上がった?」

 

 低く呟いた瞬間だった。

 

 エンデの身体がぐらりと傾ぐ。

 

「っ……」

 

「エンデ!」

 

 澪は慌ててその身体を支えた。軽い。驚くほど軽かった。体温はあるのに、どこか輪郭が曖昧で、触れている部分だけ水面みたいに揺れている。

 

 青白い亀裂は、さらに広がっていた。

 

 右腕から肩口へ。細い硝子細工みたいなひびが、ぱきぱきと嫌な音を立てて走っている。


 その隙間から、淡い光が零れていた。血ではない。もっと透明で、静かなもの。澪の顔が青ざめる。

 

「これ、どうしたら……」

 

 青織が短く舌打ちした。

 

「こいつは“向こう側”からきた。無理やりこちら側へ留まり続けてる反動が来てる」

 

 エンデは苦しそうに俯いている。

 

「……平気」

 

 掠れた声。

 

 だが全然平気そうではなかった。右腕はもう肘の辺りまで半透明になり始めている。髪の青色が白く退色してきている。澪は思わず叫ぶ。

 

「どこが平気なの!?」

 

 エンデが少しだけ目を丸くする。その反応が、逆に痛々しかった。多分この子は、こういうふうに怒られたことがないのだ。

 

 心配されることにも慣れていない。青織が二人へ近づいてくる。

 

「貸せ」

 

 澪が反射的に身構える。

 

「何するの」

 

「治療だ。今消えられると困る」

 

 相変わらず言い方は冷たい。

 

 彼はマスクを外した。今の先頭には必要ないと判断したのだろう。精悍な顔つきの青年の顔が顕になる。

 

 仮面をつけていた男の素性が知れて2人は心なしか安堵していた。

 

 青織は腰のポーチから細長い金属筒を取り出していた。それは注射器にも見えたが、内部には液体ではなく青白い粒子が浮遊していた。


 エンデがぴくりと肩を震わせる。

 

「……やだ」

 

「我慢しろ」

 

 青織は容赦なくエンデの腕を掴んだ。

 瞬間。

 エンデがびくりと身体を強張らせる。

 

「っ……!」

 

 澪は思わず前へ出た。

 

「ちょ、ちょっと優しくしてよ!」

 

「こいつ、人間用の処置じゃ間に合わない」

 

 青織は淡々と言い返す。そのまま彼女はエンデの右腕へ手をかざした。

 

「——境界縫合」

 

 静かな声。

 

 次の瞬間、金属筒の中の光が糸みたいに伸びた。細い青白い線がエンデの亀裂へゆっくり入り込んでいく。

 

 ぱき、と鳴っていたひび割れが、一瞬だけ静止した。

 エンデが息を呑む。

 

「……冷たい」

 

「固定剤だ。向こう側の位相を一時的に縫い留めてる」

 

 青織の指先が、慣れた動きで亀裂をなぞる。その手つきは意外なほど丁寧だった。澪は少し驚く。もっと乱暴な人だと思っていた。

 

 だが青織の動きには、奇妙な慎重さがあった。壊れ物を扱うみたいに。エンデは黙ったまま青織を見ている。やがて、小さく呟いた。

 

「……青織、慣れてる」

 

 青織の手が、一瞬だけ止まる。

 

「昔、何度もやった」

 

「……誰に?」

 

 その問いに、部屋が静かになる。青織は数秒黙り込んだ。やがて低く答える。

 

「漂流個体に」

 

 澪が息を呑む。

 エンデの虹色の瞳が揺れた。

 

「他にも、いたの」

 

「いた」

 

 短い返事。

 青織は視線を落としたまま続ける。

 

「だが長くは保たなかった」

 

 その声には、微かに疲れが滲んでいた。澪は気づく。

 この人もまた、“向こう側”に関わり続けてきた人間なのだ。だからこんな目をしている。

 

 海の底みたいな、静かな孤独を抱えた目。

 エンデはしばらく黙っていたが、不意にぽつりと呟いた。

 

「……じゃあ青織、一人残ったんだ」

 

 青織の指先が、また止まる。

 

 その瞬間だけ、部屋の空気が微かに軋んだ気がした。

 澪は息を詰める。青織はゆっくりエンデを見た。

 

 エンデにはその眼差しに、一瞬の寂寥とした影がよぎった気がした。

 しかしすぐに元の無表情に戻っていた。

 やがて青織は小さく息を吐き、再び処置を続けた。

 

「……お前は喋りすぎだ」

 

「エンデ、静かな方」

 

「十分うるさい」

 

 淡々としたやり取り。なのに不思議とさっきまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいでいる。

 

 エンデの亀裂は、徐々に塞がり始めていた。青白い光の糸がひびを縫い合わせ、崩れかけていた輪郭を固定していく。


 やがて、ぱきぱきという不穏な音が止んだ。髪の色も最初ほどではないが青さを取り戻してきている。

 

 エンデが小さく息を吐く。

 

「……あったかい」

 

「固定剤が馴染んだだけだ」

 

 青織はぶっきらぼうに言う。だがその手は、最後だけ少し優しかった。

 

 まるで本当に壊れてしまわないように。エンデは治療された右腕を見つめ、それからぽつりと呟く。

 

「……ありがとう」

 

 青織は答えない。ただ金属筒をポーチへ戻し、短く言った。

 

「礼はいい。まだ終わってない」

 

 その瞬間だった。

 

 部屋の奥で、黒い海が再びざわめく。止まっていたはずの波が、大きく脈打った。ざぶり、と音が響く。

 

 海面の奥。暗い水底で、巨大な“何か”がゆっくり目を開ける。

 

 同時に。澪の胸の奥の“扉”が、再び激しく脈動した。

 澪の胸の奥で、“扉”が激しく脈打つ。

 

 深海の底から響いてくるみたいな振動が身体の芯を揺らしていた。


 同時に、部屋の奥で蠢いていた黒い海が大きく波打つ。暗い水面の下で、巨大な“何か”が身じろぎした。

 

 瞬間、吊るされていた鈴が一斉に鳴り始める。

 

 りん、

 りん、

 りんりんりんりん——。

 

 不吉なほど甲高い音だった。

 青織が即座に立ち上がる。

 

「……追いついたか」

 

 低い呟き。

 澪は反射的に振り返る。

 

「え?」

 

 答える代わりに、青織は壁際のブラウン管モニターを叩いた。ノイズ混じりの映像が切り替わる。

 

 渋谷。スクランブル交差点。けれどそこに映っていたのは、もう“普通の街”ではなかった。

 

 道路の上を、黒い海水が薄く流れている。

 

 信号機は上下逆さまにぶら下がり、ビルの窓ガラスには魚みたいな影が泳いでいた。

 

 そして空。

 夜空を裂く巨大な亀裂。

 

 その向こう側には、星のない海が広がっている。青織が舌打ちした。胸あたりに接続された観測器が鳴る。

 

「侵食深度、第六層目前……早すぎる」

 

 エンデが小さく息を呑む。

 

「……呼んでる」

 

 虹色の瞳が不安げに揺れていた。

 青織は素早く観測銃を背負い直す。

 

「ここはもう持たない。移動するぞ」

 

「移動って、どこに」

 

 澪が聞くと、青織は短く答える。

 

「地上だ」

 

 その瞬間。

 壁に新しい亀裂が走った。

 ばきん、と嫌な音。

 

 黒い海水が隙間から吹き出す。

 その奥で、無数の人影が蠢いていた。

 

 『ミオ』

 『ヒラク』

 『カエセ』

 

 澪は思わず耳を塞ぐ。

 

 だが声は頭の中へ直接響いていた。青織が鋭く叫ぶ。

 

「走れ!!」

 

 次の瞬間、部屋の壁が内側から吹き飛んだ。濁流みたいな黒い海が雪崩れ込む。澪はエンデの手を掴み、反射的に駆け出した。

 

 ◇

 

 狭い通路を、三人は全力で走っていた。

 

 コンクリートの壁はところどころ侵食され、脈打つ臓器みたいに揺れている。天井からは逆流する水滴が浮かび、壁には大量の駅名標が埋め込まれていた。

 

《黄昏二番街》

《海鳴宿》

《宵待草駅》

《未明零番線》

 

 存在しない駅名たちが、微かに呼吸するみたいに明滅している。

 

 澪は息を切らしながら叫ぶ。

 

「これ、どこに繋がってるの!?」

 

「旧観測路」

 

 青織は前を走ったまま答える。

 

「侵食初期に作られた避難経路だ」

 

「初期って……」

 

「境界管理局が、まだ今ほど腐ってなかった頃だ」

 

 その声には微かな棘が混じっていた。

 エンデが澪の隣を走っている。

 

 さっきまで崩れかけていた右腕は、青織の処置でどうにか安定していた。青白い糸みたいな光が、今も腕の表面をゆっくり流れている。

 

 澪はちらりと彼を見る。

 

「……もう痛くない?」

 

 エンデは少し考えてから答えた。

 

「ちょっと痛い」

 

「ちょっとなんだ……」

 

「でも、前よりは平気」

 

 そう言って小さく笑う。

 その顔を見て、澪は少しだけ安心した。

 

 だが次の瞬間。

 背後から轟音が響く。

 

 黒い海が通路を呑み込みながら迫ってきていた。

 水面の中で、巨大な目玉がいくつも瞬いている。

 

 青織が振り返りざま観測銃を構える。

 

「伏せろ!!」

 

 青白い閃光が空間を切り裂く。轟音と共に通路の一部が崩落し、瓦礫が海の進路を塞ぐ。

 

 だが止まらない。黒い海は生き物みたいに瓦礫を飲み込みながら進んでくる。


 エンデが小さく呟いた。

 

「……怒ってる」

 

「何が?」

 

「向こう」

 

 虹色の瞳が暗く揺れる。

 

「向こう側が澪を見つけたのに、エンデが切り離したから」

 

 澪の背筋が冷える。その時だった。前方に微かな光が見えた。青織が短く言う。

 

「出口だ」

 

 三人は最後の階段を駆け上がる。重い鉄扉を開ける。

 青織が端末を叩きつけるように操作すると、ロックが解除された。

 

 ぎぃ、と軋む音を立てて扉が開く。

 

 瞬間。

 

 湿った夜風が吹き込んだ。澪は思わず目を見開く。

 東京だった。夜の渋谷のネオンが煌々と光っている。

車も走っている。人もいる。

 

 澪は久々の開けた空間に安堵する。しかしすぐ気づいた。空が、おかしい。

 

 巨大な月にはエンデと澪のつけた亀裂が入っていた。渋谷上空には巨大な裂け目が走り、その向こう側で黒い海が揺れていた。


 まるで空そのものが海になってしまったみたいだった。


 ビルのガラスには時折、魚影みたいなものが映り込む。信号機はノイズ混じりに点滅し、スクランブル交差点の一部では道路が水面みたいに波打っている。


 人々は怯えた顔で空を見上げながら、それでもスマホを片手に歩いていた。

 侵食が、日常へ染み込みすぎている。澪は呆然と呟く。

 

「……東京、こんなことに」

 

「今日はまだ静かな方だ」

 

 青織は淡々と言った。

 

「感情気象が暴走した日は、池袋で雨が逆流したまま三日止まらなかった。あの月は、お前らの仕業だな?」

 

 エンデが空を見上げる。巨大な裂け目の奥で、何かがゆっくり動いた。

 

 その瞬間。

 

 澪の胸の奥の“扉”が、また反応する。どくん。頭痛。耳鳴り。そして遠くから、歌声が聞こえた。


 澪は顔を上げる。誰かが歌っている。悲しいような、優しいような旋律。エンデもその方向を見ていた。

 

「……歌」

 

 小さな呟き。

 

 その瞬間だった。青織の表情が、初めてはっきり変わる。鋭い目に緊張が走る。


 空気が強張った。彼は立ち止まり、渋谷駅方面を見つめている。澪は戸惑う。

 

「青織?」

 

 返事はない。

 代わりに彼は、小さく呟いた。

 

「……似ている」

 

「え?」

 

 青織の視線の先。大型ビジョンのノイズ混じりの反射の中に、一瞬だけ青い髪が映り込んでいた。


 エンデだった。けれど青織は、その姿を見たまま動かない。

 

 握った観測銃が、微かに震えている。長い沈黙のあと、彼は低く言った。

 

「昔、いた」

 

 澪は息を呑む。青織は空を見上げたまま続ける。

 

「お前と同じ漂流個体だ」

 

 エンデが静かに瞬きをする。

 

「……名前は」

 

「アオ」

 

 その名前が落ちた瞬間、夜風が強く吹いた。

 青織の声は驚くほど静かだった。

 

「青い髪で、よく歌ってた」

 

 澪は何も言えない。青織は淡々としていた。だが、その静かさが逆に痛々しかった。

 

「境界管理局が“処分”を決めた時、俺は止められなかった」

 

 渋谷の雑踏が遠く聞こえる。車の音。警報。誰かの悲鳴。なのにその瞬間だけ、世界が妙に静かだった。

 

 エンデが小さく尋ねる。

 

「……青織、悔やんでいる」

 

 青織は答えない。ただ、少しだけ目を伏せた。

 それだけで十分だった。

 

 澪の胸が締めつけられる。この人もまた、置いていかれた側なのだ。守れなかったのだろう。

 

 消えていくのを見てしまった。だから今も、“向こう側”を憎みきれない。エンデはそっと呟く。

 

「アオ、きっと青織のこと好きだった」

 

 青織がぴくりと反応する。

 

「……何がわかる」

 

「なんとなく」

 

 エンデは空を見上げた。

 

 裂けた夜空の向こうで、黒い海がゆっくり揺れている。

 

「エンデたち、寂しい人のこと、少しわかるから」

 

 青織は何も言わなかった。

 

 ただ。一瞬だけ視線が揺れた。

青織の「漂流個体」—アオ—

彼女は何者なのか?彼らはさらに渋谷の街を進む。

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