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青織

青織(あおり)は2人を助けるが、さらに異界の侵食は強まる。

 空気が、凍りついたみたいに張り詰める。

 

 黒い海はなおも床を侵食し続けていたが、その動きは先ほどまでより明らかに鈍っていた。まるで突然現れた男を警戒しているようだった。

 

 澪は呆然と、その後ろ姿を見つめる。

 

 黒いコートの裾が、湿った風の中で静かに揺れていた。仮面に描かれた青い波紋模様。


 その線は微かに発光していて、見ていると水面を覗き込んでいるような錯覚を覚える。男は観測銃を構えたまま、一歩だけ前へ出た。

 

「後退しろ。《深度存在》」

 

 その声には威圧感というより、冷たい確信があった。

 黒い顔が、ぎち、と音を立てて歪む。無数の口が重なり合い、同時に笑う。

 

 『アオリ』

 

 澪の背筋に悪寒が走る。呼ばれた名前。

 

 それは人間同士の会話というより、深海生物が鳴き声を交わしているみたいな不気味さだった。

 

 青織アオリと呼ばれる男が向こうの存在に見つけられても正気でいられるのが澪は不思議だった。青織は微動だにしない。

 

「まだ“浅い”な。完全接続前で助かった」

 

 その言葉と同時に、彼は観測銃の側面へ指を滑らせた。ガシャン、と重い機械音が鳴る。銃身内部で青白い光が脈動し始めた。

 

 澪は息を呑む。

 

 境界管理局の装備とは違う。もっと古く、もっと異質だ。まるで兵器というより、儀式道具みたいだった。

 

 黒い海がざわめく。床に浮かぶ大量の目玉が、一斉に青織を見た。その瞬間だった。

 

 『ミツケタ』

 

 声と同時に、黒い海水が爆発的に膨れ上がる。無数の腕が伸び、槍みたいに青織へ襲いかかった。しかし彼は動じない。

 

「——境界固定」

 

 静かな詠唱。瞬間、銃口から青い輪が放たれた。空間そのものへ波紋が広がる。

 

 次の瞬間、伸びていた黒い腕が空中で停止した。凍ったみたいに。いや、違う。“意味”を固定されたのだ。澪は直感する。侵食現象は感情や言葉に影響される。

 

 なら、その逆もある。言葉で、侵食を縛ることも。

 

 黒い海が苦しげに軋む。青織は低く言った。

 

「今のうちに来い。長くは保たない」

 

 澪ははっとする。だが足が動かない。恐怖だけじゃない。

 

 エンデを置いていけない。

 

 澪は反射的に彼を見る。エンデは俯いていた。虹色の瞳が揺れている。

 

「……エンデ?」

 

 小さく呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。その表情を見た瞬間、澪の胸が締めつけられる。怯えていた。捨てられる子供みたいに。

 

 青織が短く告げる。

 

「その漂流個体から離れろ」

 

 エンデの肩がびくりと震えた。

 

「その子供は危険だ。近くにいるだけで境界深度が上昇する」

 

「でも——」

 

「聞け」

 

 青織の声が鋭くなる。

 

「そいつは“向こう側”だ」

 

 澪は息を呑む。エンデが視線を落とす。否定しない。部屋に沈黙が落ちた。

 

 黒い海だけが、ぐじゅぐじゅと不快な音を立てている。青織は銃を構えたまま続けた。

 

「漂流個体は、本来こちら側に存在し続けられない。境界へ穴を開けるからだ」

 

「穴……」

 

「お前が今、“聞こえ始めている”原因でもある」

 

 澪は言葉を失う。胸の奥がざわつく。確かに、自分は変わり始めている。


 あの海の声を聞いてから。エンデに触れてから。世界の輪郭が、少しずつ違って見え始めている。けれど、それでも。

 

「……だからって」

 

 澪は小さく呟く。

 

「だからって、消していい理由にならない」

 

 青織が黙る。エンデが目を見開く。澪は自分でも驚くほど真っ直ぐ、青織を見返していた。

 

「この子は、助けてくれた」

 

 喉が震える。

 

「怖かった時も、一人じゃないって言ってくれた」

 

 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。多分。自分が本当に救われたかったからだ。未来も、世界も、全部不安で。


 誰かに「大丈夫」と言ってほしかった。エンデはそれをした。たとえ人間じゃなくても。

 

 青織はしばらく沈黙していたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……面倒な共鳴を起こしたな」

 

「え?」

 

「通常、漂流個体とここまで感情が共鳴する例は少ない」

 

 その時。

 不意にエンデが苦しそうに膝をついた。

 

「っ……」

 

 亀裂がさらに広がる。ぱきぱき、と嫌な音が響いた。右腕だけじゃない。首元まで、青白いひびが走り始めている。


 そしてあの目を刺すような青の髪色が毛先から白ざめてゆく……澪の顔色が変わる。

 

「エンデ!?」

 

 彼は呼吸を荒げながら、小さく呟いた。

 

「……だめだ」

 

「何が!?」

 

「境界、引っ張られてる」

 

 部屋全体が揺れ始めた。吊るされていた鈴が激しく鳴り響く。ブラウン管が次々とノイズを吐く。

 

 映像が乱れる。

 

 そこに映ったものを見て、澪は息を呑んだ。渋谷だった。だが普通の渋谷ではない。


 スクランブル交差点の空が、裂けている。巨大な亀裂。その向こうには、星のない海が広がっていた。通行人たちが空を見上げ、悲鳴を上げながら逃げ惑っている。

 

 『現在、渋谷区全域に侵食警報レベル4が発令——』

 

 ニュースキャスターの声がノイズ混じりに流れる。

 

『原因不明の空間断裂を確認——』

 

 青織が舌打ちした。

 

「最悪だな」

 

「な、何が起きてるの……」

 

 彼女は短く答える。

 

「お前たちが繋がった」

 

 澪の心臓が跳ねた。

 

「共鳴核と呼ばれただろう――お前はその漂流個体との共鳴によって、“向こう側”から座標として認識され始めてる」

 

 意味が理解できない。だが直感だけは理解してしまう。このままだと“向こう側”が、こちらへ来る。

 

  部屋全体が低く唸っていた。地震とは違う。もっと生き物じみた揺れだった。


 巨大な何かが、世界の裏側からこちらを押している。そんな不気味な圧迫感が、空気そのものへ滲んでいる。

 

 ブラウン管モニターの映像は激しく乱れ続けていた渋谷駅前。スクランブル交差点。センター街。見慣れた東京の風景の上空に、巨大な亀裂が走っている。

 

 夜空を裂いた傷口の向こうには、星のない海が広がっていた。ゆっくり波打つ黒い水面。その奥で、何か巨大な影が蠢いている。

 

 人々が逃げ惑っていた。悲鳴が重なりクラクション。警報音。

 その全てがノイズ混じりに部屋へ流れ込む。

 

『渋谷区全域に退避命令——』

『境界管理局は直ちに——』

 

 ぶつり、と映像が途切れた。同時に、部屋の照明が明滅する。ちか、ちか、と不安定に揺れる光の中で、エンデが苦しげに息をしていた。澪は慌てて駆け寄る。

 

「エンデ!」

 

 彼の身体に走る亀裂は、さっきよりさらに広がっていた。青白いひびが首筋から頬へ達している。


 そこから漏れているのは血ではない。光だった。深海の底みたいな、静かな蒼い光。澪の胸が締めつけられる。

 

「どうしたらいいの……」

 

 思わず零れた声に、エンデは苦しそうに目を細めた。

 

「……離れて」

 

「嫌」

 

 即答だった。

 

 エンデが微かに目を見開く。

 

「澪」

 

「また一人になるの、嫌なんでしょ」

 

 自分でも驚くほど、言葉は自然に出た。エンデは何か言い返そうとして、でも言葉を失う。その沈黙が答えみたいだった。

 

 青織が二人を見下ろし、小さく舌打ちする。

 

「感情の共鳴が深すぎる」

 

「共鳴……?」

 

「互いの感情の境界が混ざり始めてる。このままいけば、お前まで完全に境界侵食されるぞ」

 

 澪は息を呑む。

 

 境界侵食――

 

 その単語の重みは知っている。人間ではなくなる。私の輪郭が崩れる。世界から消える。誰にも認識されなくなって、誰にも見つけてもらえなくなる。

 

 ニュースで何度も見てきた。それにここまでの連続の出来事で理解していた。

 

 けれど。

 

 澪は震える指で、エンデの手を握った。

 

「……それでも」

 

 怖い。本当はものすごく怖い。普通じゃなくなることも。未来を失うことも。世界の外側へ落ちていくことも。

 

 でも。

 

 目の前で怯えている存在を、一人にしたくなかった。エンデの虹色の瞳が揺れる。その瞬間だった。世界が、軋んだ。轟音。部屋の壁に亀裂が走る。

 

 コンクリートの裂け目から、黒い海水が滲み出した。青織が即座に銃を構える。

 

「伏せろ!!」

 

 次の瞬間、壁が内側から吹き飛んだ。濁流みたいに海水が雪崩れ込む。だがそこに混じっていたのは水だけではなかった。

 

 人影。無数の人影だった。黒く濡れた輪郭に顔のない人型で口だけが異様に裂けている。それらが一斉に澪を向く。

 

 『ミオ』

 声が重なる。

 『ミオ』

 『ミオ』

 『ミオ』

 

 名前を呼ばれるたび、胸の奥が引き裂かれるみたいに痛む。認識される。いや認識されてしまう。世界の外側から。怖い。

 

 青織が引き金を引いた。轟音。青白い閃光が部屋を貫き、人影の群れを吹き飛ばす。だがまだ全ての人影は消えない。海の中から次々と湧き出してくる。

 

「数が多すぎる……!」

 

 青織が低く吐き捨てる。澪はその時、異変に気づいた。耳鳴り?違う。これは、“声”だ。

 

 海の向こうから、何かが歌っている。低く、遠く、けれど異様に懐かしい旋律。

 

 澪の視界が揺らぐ。その瞬間、脳裏へ映像が流れ込んだ。暗い海底。巨大な門。そして、その前で幼い誰かが小さく丸まって眠っている――

 

 青い髪。——エンデだ。


 だが今よりずっと小さい。一人ぼっちで、眠り続けている。その向こう側から、無数の声が呼びかけていた。

 

 『ヒラク』

 『ツナグ』

 『カエレ』

 

 幼いエンデは、眠りながら苦しんでいた――

 

 澪には全てがわかったわけではない。けれどもエンデはきっと向こう側とこちら側を繋ぐための存在なのだろう。

 

 だから境界管理局は彼を恐れている。映像が途切れる。澪は息を呑んでエンデを見る。彼は俯いたまま、小さく呟いた。

 

「……見たんだ」

 

 澪は答えられない。エンデの肩が微かに震えている。

 

「澪、驚いた?」

 

 消え入りそうな声。

 

「エンデ、変」

 

「違う!」

 

 思わず叫んでいた。


 その瞬間、部屋中の海水が揺れる。

 黒い人影たちが一斉にこちらを向いた。

 澪は構わず続ける。

 

「違うよ……!」

 

 喉が震える。

 

「一人でそんなの抱えてたんでしょ……!?」

 

 エンデが目を見開く。青織まで息を止めていた。澪はもう止まれなかった。

 

「怖かったに決まってるじゃん……!」

 

 涙が溢れる。

 

「なんでずっと一人だったの……!」

 

 その瞬間だった。

 エンデの亀裂から、爆発みたいに光が溢れ出した。虹色の光。けれど今度は破壊じゃない。

 

 水面へ落ちた雫みたいに、静かな波紋が世界へ広がっていく。黒い海が止まった。人影たちが硬直する。

 

 そして。初めてだった。エンデが、泣きそうな顔をしたのは。

 

「……わからない」

 

 小さな声。

 

「気づいたら、ずっと一人だった」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 澪の胸の奥で、また“扉”が脈打った。

エンデとは何者なのか。次回、澪たちはこの渋谷で何を見る。

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