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小さな安息

管理局から逃げ延びた澪と、エンデ。二人は更なる追手に追い詰められる。そこに現れたのはー?

 最初に聞こえたのは、波の音だった。


 寄せては返す、静かな水音と深い暗闇。どこまでも暗い海の底を、澪はゆっくり沈んでいた。

 

 身体が重いわけではない。苦しいわけでもない。ただ、自分が“薄く”なっていく感覚だけがあった。

 

 輪郭が溶けていく。名前も、記憶も、感情も。全部が深い海へ滲んでいく。ふと、遠くに光が見えた。

 

 青白い光。

 

 海底に、一つの扉が立っている。錆びた鉄の扉だった。地下鉄の非常扉に似ている。だが表面には、びっしりと文字が刻まれていた。知らない言語なのに読める。

 

 ——境界深度:第四層

 ——接続待機

 ——鍵を確認

 

 澪はぞっとした。扉の向こうから、何かが呼んでいる。あの“目”だ。確信する。

 星のない海の奥にいた存在。理解してはいけないもの。

 なのに、扉へ近づくほど、胸の奥が奇妙に懐かしく疼く。

 

 知っている。私はこれを知っている。そんなはずないのに。

 

 その時。不意に、別の声が聞こえた。

 

「——起きて」

 

 小さい子供の声。

 

「起きて、澪」

 

 扉が遠ざかる。海が揺れる。世界がひび割れるみたいに、暗闇へ白い線が走った。次の瞬間、澪は激しく咳き込んだ。

 

「っ、げほ……!」

 

 肺に冷たく湿った空気が流れ込む。目を開けると、古びた蛍光灯が明滅していた。知らない部屋だった。狭い。

 

 コンクリート打ちっぱなしの壁には裸電球が一つ。他には積み上がった観測機材と古いブラウン管モニター。

 そして、天井から吊られた大量のお守り。

 

 澪は息を呑む。侵食避けと呼ばれるものだろう。

 SNSで何度も見た都市伝説じみた呪具。塩。鈴。御札。古い駅の切符。それらが異様な量ぶら下がっている。

 

「……ここ」

 

「侵食の薄い灰域」

 

 視線を向けると、パイプ椅子に座ったエンデがいた。

 裸足のまま膝を抱えている。虹色の瞳が、疲れ切ったみたいに鈍く曇っていた。

 

「局の人、もういない」

 

「エンデの起こした境界侵食で空間を遮断した」

 

 澪は上半身を起こした。頭が痛く、脳の奥が軋む。

 記憶がまだ現実に追いついていない。

 

 渋谷第十三駅。

 灰域。

 境界。

 巨大な月に浮かぶ影

 月を一閃したエンデの光

 

 そして。

 

「……あれは一体なんだったの」

 

 エンデは少し目を丸くした。

 

「澪にも見えたの?」

 

「あれも……境界侵食の一つなの?」

 

 エンデは小さく首を横に振った。

 

「あれはエンデの世界のもの」

 

「澪が見てはいけないもの。本当はかなり危なかった」

 

「……」

 

「あと少しで、“向こう”に澪の名前を見つけられてた」

 

 澪は眉をひそめる。

 

「名前を見つけられるって、どういう意味」

 

 エンデは少し考え込んだ。

 

 言葉を探しているみたいに。

 

「人間は、自分を自分だと思ってるでしょ」

 

「……普通はそうでしょ」

 

「でも向こうは違う」

 

 エンデは静かに言った。

 

「向こうのものに“名前”を認識されると、境界が繋がる」

 

 澪の背筋が冷える。

 

「繋がる?」

 

「見つかる」

 

 エンデの声は妙に淡々としていた。

 

「エンデ、澪の名前最初から知ってた。澪を見た時から澪の名前。わかった」

 

「見つかった人は、少しずつ侵食される」

 

「……それって」

 

「最終的には、“向こう側”と共鳴して自分の輪郭なくなる」

 

 部屋の空気が急に冷えた気がした。澪は腕を抱く。

 

「じゃあ私、もう……」

 

「まだ大丈夫」

 

 エンデは即答した。

 

「途中で切ったから」

 

「切った?」

 

「向こうの境界との接続」

 

 そこで初めて、澪は気づく。

 

 エンデの右腕。そこに、ひび割れみたいな亀裂が走っていた。青白い光が漏れている。

 

「……それ」

 

 エンデは自分の腕を見下ろした。

 

「ああ」

 

 まるで他人事みたいな声。

 

「壊れた」

 

「壊れたって……!」

 

「大丈夫。漂流個体、これくらい平気」

 

 だが全然平気そうには見えない。亀裂はじわじわ広がっていた。その隙間から、星空みたいな光が零れている。まるで身体の中に宇宙が入っているみたいだった。


 澪は思わずエンデの腕を掴む。

 

「平気なわけないでしょ!」

 

 触れた瞬間。脳裏へ映像が流れ込んだ。深い海。暗い空。無数の“扉”。そして。

 

 一人ぼっちで、境界を彷徨い続けるエンデの姿。誰にも見つけてもらえず、誰にも名前を呼ばれず、長い長い時間を漂い続ける、小さな影。


 澪の胸が締め付けられる。痛い。これは身体の痛みじゃない。孤独だ。

 

 エンデは驚いたように目を見開いた。

 

「……なんで」

 

「え?」

 

「今、澪、少し見えた」

 

 澪は息を呑む。

 

「見えたって」

 

「普通の人間、触っても何も聞こえない」

 

 エンデはじっと澪を見る。

 その視線に、微かな期待と恐怖が混ざっていた。

 

「澪、“深度”が上がってる」

 

「深度……」

 

「境界に近づいてる。境界管理局の人たち共鳴核と言ってた」

 

 共鳴核――確かにそう呼ばれていた。

 

 私はもうただの一般人ではなくなってしまったのだろう……家や家族、何気ない通学路。全てがなんだか恋しくてたまらなかった。座り込んでいるのに宙に浮いているように落ち着くところが無い。寂しくて苦しい。

 

 その時だった。部屋の奥で、突然ノイズが鳴る。

 ブラウン管モニターが勝手に点灯した。ザーッという砂嵐。そして映像が映る。澪は凍りついた。ニュース番組だった。

 

『——昨夜未明、渋谷区において大規模な地下鉄設備事故が発生——』

 

 画面には封鎖された渋谷駅に大量のパトカー、境界管理局の黒い車両。立入禁止テープが物々しい。

 

 そして。

 

『現在、行方不明者一名の捜索が続いています』

 

 画面に映し出された写真。制服姿の少女。九条澪。

 澪の呼吸が止まる。

 

『なお、本人は精神的不安定状態にあった可能性も——』

 

「……嘘」

 

 画面下にはテロップが流れていた。

 

《自発的失踪の可能性》

 

 澪は呆然とモニターを見る。境界管理局が、もう始めている。

 

 “処理”を。

 

 社会から、九条澪という存在を消すために。

 モニターの砂嵐が、ざり、と不快なノイズを立てた。澪は言葉を失ったまま、画面に映る自分の顔写真を見つめる。

 

 そこに映っているのは、どこにでもいる普通の女子高生だった。少し疲れた目をした黒髪の少女。制服姿で、特別目立つところなど何もない。


 つい数時間前まで、模試の結果に落ち込みながら電車へ揺られていた自分だ。

 

 なのに、その少女は今、ニュースの中で“存在しない人間”にされようとしていた。

 

『近隣住民によると、以前から情緒不安定な様子が——』

 

 そこで突然、映像が途切れた。ぶつり、と無機質な音を立ててブラウン管が暗転する。

 

 エンデが、モニターの電源コードを引き抜いていた。

 

「見ない方がいい」

 

 静かな声だった。

 

 澪は唇を強く噛み締める。

 

「……私、生きてるのに」

 

 喉の奥が熱い。

 

「まだ、ここにいるのに」

 

 自分でも驚くほど掠れた声だった。エンデは何も言わない。ただその時、天井から吊り下げられていた大量の鈴が、風もないのに微かに揺れた。

 

 ちり、と細い音が響く。

 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 エンデの表情が硬くなる。

 

「……来た」

 

「え?」

 

 澪が聞き返した直後、部屋の奥にある鉄扉が叩かれ、鈍い音を立てて震えた。澪の肩がびくりと跳ねる。

 

 もう一度。

 二度。

 三度。

 

 それは誰かがノックしている音ではなかった。もっと重く、もっと湿っている。深海で潜水艦が水圧に軋む時のような、不吉な圧迫音だった。

 

 エンデがゆっくり立ち上がる。

 

「下がって」

 

「な、何……?」

 

「静かに」

 

 虹色の瞳が、じっと扉を見据えていた。

 

 次の瞬間、扉の隙間から黒い水がじわりと滲み出す。海水のように見えるのに、妙に粘ついた質感をしていた。床へ広がっていくそれを見て、澪は息を呑む。

 

 水の中に、目があった。

 

 小さな目玉が無数に浮かび、魚の群れみたいにゆらゆら漂っている。

 

「っ……!」

 

 澪が悲鳴を押し殺した瞬間、それらの目が一斉にこちらを向いた。

 

 ぞわり、と全身を悪寒が駆け抜ける。

 見られている。

 認識されている。

 

 そんな本能的な恐怖が、背骨を冷たく這い上がった。

 エンデは澪を庇うように一歩前へ出る。

 

「帰って」

 

 静かな声だった。しかしその直後、鉄扉そのものが内側へ大きく膨らんだ。

 

 まるで、向こう側から巨大な何かが身体を押しつけているみたいに。

 

 鉄板が悲鳴を上げるように軋む。

 澪の脳裏に、あの巨大な青い目が蘇った。

 

 ——やっと見つけた。

 

 耳鳴りがして。頭の奥がずきずき痛む。そして理解してしまう。“向こう”はまだ、自分を探しているのだと。

 エンデが低く呟いた。

 

「……早すぎる」

 

「え?」

 

「普通、もっと時間かかるのに」

 

 その声には、明らかな焦りが滲んでいた。

 

 やがて扉の隙間から、黒い指が一本、ゆっくりと伸びてくる。人間の指ではない。関節が異様に多く、濡れた骨みたいな質感をしていた。

 

 指先が床を掻くたび、嫌な音が響く。澪は反射的に後退った。

 

「なん、なの……」

 

 エンデは答えなかった。その代わり、彼の右腕に走っていた亀裂が、ぱきぱきと音を立てながら広がり始める。


 ひび割れた隙間からは、星空みたいな青白い光が漏れていた。部屋の空気そのものが歪み始める。


「エンデ?」

 

「逃げる準備して」

 

「逃げるって、どこに!?」

 

「もっと浅い場所」

 

 意味がわからない。

 

 だがエンデの顔色は明らかに悪かった。ひび割れは肩口まで広がり始めている。

 

 その時だった。

 

 部屋中のブラウン管モニターが、一斉に点灯した。

 ざあああ、と砂嵐が広がる。やがてノイズの向こうに映像が浮かび上がった瞬間、澪は凍りついた。

 

 そこに映っていたのは、自分の部屋だった。昨日まで過ごしていた場所だ。私の机、積み上がった参考書、模試の結果、海洋生物の図鑑。そして、

 

 母親。

 澪の母が、机に突っ伏して泣いていた。

 澪の喉が詰まる。

 

『……どこ行ったの、澪』

 

 掠れた声だった。

 

『お願いだから、生きてて』

 

 その瞬間、胸の奥で何かが強く脈打った。

 苦しい。痛い。帰りたい。帰らなきゃ。感情が溢れた、その直後だった。

 

 轟音と共に、鉄扉が内側から吹き飛んだ。黒い海水が雪崩みたいに流れ込んでくる。

 

 大量の目玉がぎょろぎょろと無数の腕を携えて、その中心には、“顔”があった。

 

 人間の顔に似ている。だが目も口も位置がおかしい。何人分もの顔が無理やり貼り合わせられ、一つの巨大な塊になっていた。それが、ゆっくり笑う。

 

 『ミツケタ』

 

 声が直接、脳へ響いて、澪の身体が硬直する。名前を呼ばれる。認識される。本能的な恐怖に引きずり込まれる。そんな感覚が、一気に全身へ広がった。

 

 エンデが澪を庇うように前へ飛び出す。

 

「だめだ!!」

 

 初めて聞く、大きな叫び声だった。

 

 次の瞬間、エンデの身体から虹色の光が爆発するように溢れ出す。水面の反射みたいな光が空間そのものを歪め、部屋全体を激しく震わせた。

 

 だが、それでも黒い海水は止まらない。“顔”はゆっくりと澪へ近づいてくる。

 

 『カエシテ』

 

 その時だった。乾いた銃声が響く。

 

 黒い顔の一部が吹き飛び、海水が悲鳴みたいな音を立てて波打った。

 

 澪とエンデが同時に振り返る。

 吹き飛んだ扉の向こう側、逆光の中に、一人の人影が立っていた。

 

 黒いコート。

 顔を覆うガスマスクのような仮面。

 だが一般的なガスマスクとも境界管理局のものとは違う。仮面には青い線、紋様がところどころ走っている。

 

 男だった。


 仮面に覆われて当て面相はわからない。

 片手に巨大な観測銃を構えている。

 

 彼は銃口を黒い海へ向けたまま、低い声で言った。

 

「——その子から離れろ、《深度存在》」

 

 深度存在とは、向こう側――襲ってきた化け物を指すのだろうか?呼応するように黒い海がざわめく。

 

 男は銃を下ろさないまま、ゆっくり澪を見る。

 仮面越しなのに、不思議と視線だけは真っ直ぐ伝わってきた。

 

「九条澪」

 

 低く落ち着いた声だった。

 

「生き残りたかったら、今すぐこちらへ来い」

 

 その名前を聞いた瞬間、エンデが小さく息を呑む。

 

「……青織(アオリ)

 

 空気が、さらに緊張した。

謎の男、青織—何者なのか?

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