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暗闇を走る

エンデと出会い、境界管理局に見つかってしまった二人は、エンデが捕まらないようにどうにか逃避する……

 照明が落ちた瞬間、世界から色が消えた。

 

 澪は反射的に走っていた。エンデに手を引かれるまま、ホーム端の非常通路へ飛び込む。背後で怒号が響く。

 

「対象、移動開始」

 

「感情波形上昇。灰域拡大を確認」

 

「実体安定度、危険域——」

 

 白いライトが闇を切り裂く。

 境界管理局。黒い防護服の隊員たちは、まるで人間ではなく機械の群れのようだった。仮面越しの声には感情がない。

 

 澪は階段を駆け下りながら息を切らす。

 

「ちょ、ちょっと待って……! 何なの!? どういうこと!?」

 

「静かに」

 

 エンデは短く言った。

 

「言葉、聞かれる」

 

「は?」

 

「ここ、まだ薄いから」

 

 意味はわからない。でも彼の声には奇妙な切迫感があった。非常通路は、本来なら地下設備へ繋がるだけの狭いコンクリート通路のはずだった。だが途中から構造が変わっていた。

 

 壁一面に、駅の案内標識が埋まっている。

 渋谷。池袋。新宿。品川。存在しない文字列。存在しない駅名。

 

 それらが壁の内側で脈動していた。まるで生きているみたいに。

 

「……うそ」

 

 澪の声に反応するように、標識の一つがぐにゃりと歪む。

 

《逢隙駅》

 おうげきえき――こんな駅はない。文字が増殖する。ぞわり、と鳥肌が立った。

 

「喋らないで」

 

 エンデが澪の口元へ指を当てた。

 

「この場所、“意味”を食べる」

 

 背後から足音がする。近い、局員たちが迫っている。

 その瞬間、通路全体へ警報音が走った。

 

『第二侵食層へ移行』

『感情汚染指数、規定値超過』

『言語現実化を確認』

 

 壁から黒い手が生えてくる。悍ましさに澪は悲鳴を呑み込んだ。無数の人の手だった。

 それは助けを求めるように。あるいは引きずり込むように蠢いていた。

 

「行こう」

 

 エンデは躊躇なくその間を抜けていく。この得体の知れない少年は怖くはないのだろうか?

 

 澪も続くしかなかった。やがて通路の先に、古い改札口が現れる。だがそこは地下鉄駅ではなかった。

 

 夜空が広がっていた。巨大な月、上下逆さまの高層ビル、空を泳ぐ電車、そして——海。

 駅の向こう側に、静かな海が広がっていた。

 

 地下のはずなのに潮の匂いがする。どこか懐かしい気がする。でもきっとこの懐かしさに馴染んではいけない。澪の胸はつきりと少し痛んだ。

 

「……ここ、どこ」

 

「境界」

 

 エンデは海を見たまま答えた。

 

「世界と、向こうの間」

 

 波打ち際には、無数のガラクタが流れ着いていた。

 壊れたスマホ、学生鞄、駅員帽、古びたランドセル。そして、名札。どれも泥ではなく、薄い灰を被っている。澪は息を呑んだ。

 

「……これ、まさか」

 

「帰れなかった人たち」

 

 静かな声だった。

 

「灰域に呑まれると、“輪郭”から消える」

 

 灰域。それは境界と最も近い不安定な空間。

 澪の背筋が冷える。ニュースで何度も聞いた失踪者。

 年間一万人以上。侵食関連不明者。


 その一部が、ここに?

 

「境界管理局は?」

 

「回収する」

 

「助けるんじゃなくて?」

 

 エンデは少し黙った。

 

「……最初は、助けようとしてた」

 

 遠くで雷が鳴る。逆さの東京が白く照らされる。

 

「でも人間、“向こう”を長く見ると壊れる」

 

 エンデはゆっくり振り返った。虹色の瞳。その奥に、底知れない孤独が見えた。

 

「だから最近は、“消す”方が早い」

 

 澪は言葉を失った。その時だった。背後の改札が、爆発したように吹き飛ぶ。

 

 白い閃光。

 

「対象確認」

 

 局員たちが現れる。先頭の仮面には、黒い線で数字が刻まれていた。

 

 《観測局員 第一種》

 男はエンデを見る。

 

「漂流個体No.2——通称“切れ端”」

 

 澪は息を呑んだ。彼を「切れ端」などと歪な名前で最初に呼んだのは境界管理局なのかも知れない。実験動物みたいに彼を番号で呼ぶ。この少年は一体何者なのだろう。

 

「確保命令が出ている。抵抗するな」

 

 エンデが澪の後ろへ下がる。彼のこのような反応は初めてだった。

 

「……嫌」

 

 小さく呟く。

 

「嫌だ」

 

 その瞬間。

 

 空へ向かって海が揺れた。ざばん、と巨大な波が逆方向へ立ち上がる。局員たちが一斉に装置を構える。

 

『感情反応急上昇!』

『領域崩壊開始!』

 

 エンデの周囲で空間が軋む。澪は気づく。この子は侵食現象そのものと繋がっている。

 

 いや、もしかしたら侵食の“向こう側”そのものなのかもしれない。局員の銃口がエンデへ向く。

 

「対象を凍結する」

「待って!」

 

 澪は思わず叫んでいた。全員の視線が集まる。仮面の奥の無機質な目。怖い。

 

 でも、それ以上に――

 

 エンデが消される光景を想像した瞬間、胸の奥が耐えられなかった。

 

「この子は……!」

 

 澪は言葉に詰まる。何だというのだろう。人間じゃない。境界侵食――彼は多分それに付随する何者かなのだろう。そしてそれは危険存在であることは明白だ。

 

 だけど――私の心の声を探り出して、私を助けてくれた。

 それだけは確かだった。局員が一歩前へ出る。

 

「一般人は下がれ。記憶処理対象に指定する」

 

 澪の全身が冷える。その単語を知っていた。境界管理局の噂。

 侵食深度の高い遭遇者は、記憶を消される。最悪の場合、社会的に“存在を処理”される。

 

 エンデが澪の袖を掴む。震えていた。

 

「……嫌だ」

 

 小さな声。

 

「また、一人になるの」

 

 澪の胸が痛んだ。

 その瞬間。澪の中で何かが決壊した。

 

「——この子はモノじゃない!!」

 

 力いっぱいに叫ぶ。空気が止まった。海が、呼応する。

 轟音が響く。夜空いっぱいに、巨大な波紋が広がる。

 局員たちの装置が一斉にエラー音を吐いた。

 

『観測不能』

『感情共鳴値、測定限界突破』

『新規干渉者を確認——』

 

 澪の足元から、青白い水が溢れ出す。それは海だった。教室に現れた夕焼けの海と同じ色。懐かしいような、泣きたくなるような、どこか遠い始まりの海。

 エンデが呆然と澪を見る。

 

「……澪」

 

 虹色の瞳が揺れる。

 

「なんで、“扉”の音がするの」

 

 “扉”?澪自身にも意味はわからなかった。

 ただ、たしかに胸の奥で何かが開こうとしていた。心臓ではない。もっと深い場所。海の底みたいな、暗く静かな場所が、ゆっくり軋みながら裂けていく感覚。

 

 澪は息を呑んだ。視界の端で、空気そのものが揺らいでいる。音が遠い。局員たちの警告音も、逆巻く海も、まるで分厚い水の向こう側から聞こえてくるみたいだった。

 

『対象、異常共鳴』

『未登録波形を確認』

『識別コード照合——』

 

 局員の一人が突然苦しげに喉を押さえた。仮面に亀裂。バキ、と白い面が割れる。

 

「っ……!?」

 

 その隙間から、黒い水が溢れ出した。いや、水じゃない。文字だった。

 

 「苦しい」

 「助けて」

 「死にたい」

 

 無数の言葉が液体みたいに流れ落ちる。澪は凍りつく。

 境界侵食の一つ。《言語漏出》。

 強い感情を長期間浴びた人間が、精神汚染を起こす現象。

 

 だが、それだけじゃない。漏れ出した文字列が床へ落ちた瞬間、生き物みたいに蠢き始めた。

 

「下がれ!」

 

 別の局員が叫ぶ。黒い言葉の塊が、人の形を作る。

 顔のない影。空洞の口。それが、笑った。ぞわり、と駅全体へ悪寒が走る。

 

 影が澪へ向かって跳んだ。その瞬間。

 

 海が割れた。轟音と共に、水の壁が影を呑み込む。

 白い飛沫が弾け、そして静寂が訪れた。澪は呆然と自分の手を見た。

 

 右手の指先から、水滴が浮いている。重力を無視して。まるで生きているみたいに。

 

「……私?」

 

 エンデが澪を見る。その瞳に、初めて明確な驚きが浮かんでいた。

 

「澪が……意図的に人間が境界侵食起こした……」

 

「え?」

 

「澪、“向こう”の音が聞こえてる」

 

 次の瞬間。頭の奥へ、声が流れ込んだ。

 膨大な声。人間の声ではない。海流みたいな囁き。

 星の瞬きみたいな言語だった。理解できないはずなのに、なぜか意味だけが伝わる。

 

 ——見つけた。

 ——まだ壊れていない。

 ——境界に触れた。

 ——鍵。

 ——扉。

 

 澪は頭を押さえる。

 

「っ……!」

 

 視界が歪む。海が、空が、駅が、一瞬だけ別の姿へ変わる。世界中に走る巨大な亀裂。東京上空に浮かぶ黒い月。海底から伸びる光の樹。

 

 そして。その中心で眠る、“何か”。

 あまりにも巨大で、あまりにも古く、形ですら認識できない存在。瞬間、映像が途切れる。

 

 澪は膝をついた。荒い呼吸に肺が悲鳴をあげて血の味がするようだ。涙が勝手に滲む。

 

「……今の、何」

 

 エンデは答えなかった。

 代わりに、局員たちがざわめく。

 

「記録しろ」

 

「境界侵食の適合者だ」

 

「いや、これは——」

 

 先頭の仮面の男だけが沈黙していた。やがて低い声で言う。

 

「……共鳴核」

 

 空気が変わる。他の局員たちが一斉に息を呑んだ。

 その単語を、彼らは恐れていた。男は澪を見据える。

 

「一般人ではないな」

 

「……何、言って」

 

「侵食との共鳴性が高すぎる。通常、人間はこれほどの境界侵食に生身で触れて正気でいることはできない」

 澪は混乱する。

 

「知らない……そんなの」

 

「知らないまま発現する例が、一番危険だ」

 

 銃口が、今度は澪へ向けられた。心臓が止まりそうになる。

 

「保護対象を変更する」

 

 冷たい声。

 

「九条澪を第一級監視対象へ指定」

 

 澪の全身から血の気が引いた。

 

「待ってよ……私、何も——」

 

「君はもう、“普通”ではない」

 

 その言葉は、刃みたいだった。

 普通じゃない。

 その瞬間、胸の奥に痛みが走る。ずっと不安だった。

 進学も。未来も。侵食も。世界から取り残されていく感覚。

 

 でも。本当に怖かったのは。

 

 “普通でいられなくなること”だったのかもしれない。

 エンデが澪の前へ立つ。

 

「だめ」

 

 静かな声が張り詰めた空気を破いて震える。

 

「その子、連れていかないで」

 

 局員が装置を向ける。

 

「漂流個体は黙れ」

 

 その瞬間。

 エンデの虹色の瞳が、強く発光した。

 

 世界が軋む。海が逆巻く。空に巨大な亀裂が走る。そこから、“目”が覗いた。あまりにも巨大な、青い瞳。空そのものに浮かぶ眼球。局員たちが凍りつく。

 

『高位境界侵食体反応!!』

『観測値、崩壊!』

『撤退!!』

 

 サイレンが狂ったように鳴り響く。エンデは苦しそうに息をしていた。小さな身体が不安定に透け始めている。

 

「……だめ」

 

 声が掠れる。

 

「来る……」

 

 空の裂け目が広がり、その向こう側に……星のない海が広がっている。

 

 その奥で、“何か”が目を開けようとしていた。

 澪は本能的に理解した。あれは見てはいけない。認識してはいけない。あれは世界そのものを壊す。

 

 なのに。その巨大な存在は、確かに澪を見ていた。

 ——やっと見つけた。

 

 頭の奥へ直接声が響く。澪の呼吸が止まる。

 その時。エンデが、澪を抱き締めた。小さな身体。温かい。

 

「聞いちゃだめ」

 

 必死な声だった。

 

「名前を知られる」

 

 次の瞬間。

 エンデの身体から、膨大な光が溢れた。

 

虹色のスペクトラムが弾ける。水面みたいな光。それが爆発的に広がり、世界を白く塗り潰す。轟音と崩壊が一気に周囲を巻き込んで爆ぜてゆく。

 

 そして。澪の意識は、深い海へ沈んでいった。

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