雨が逆流する駅
受験に疲れた高校生・九条澪は、《渋谷第十三駅》で“向こう側”から来た少年エンデと出会う。
電車が減速し、アナウンスが響く。
「次は――渋谷、渋谷――」
妙に暗い——電車に乗る高校三年生の九条澪はこの状況に違和感を感じていた。
渋谷に着いたはずなのに、ホーム照明が半分しか点いていない。
澪は眉を寄せた。
ドアが開く。
湿った冷気が扉から這入ってきて足元を冷やす。
誰も降りない。誰も乗ってこない。
……何かがおかしい。
澪はホームへ降りた。直後にドアが閉まる。
電車はただ音もなく闇へ滑っていった。
すぐさま駅名標を見る。
そこには、《渋谷第十三駅》と書かれていた。
澪の背筋がゆっくりと冷えていく。
存在しない駅。境界侵食。
現実と異世界の交わる境界、灰域。
ある日世界は一瞬にして非日常となった――
二〇二四年の八月一日、相模湾・相模トラフ北端付近に観測不明の異空間が突如発生し、その周辺にはおよそ地球ではみられぬ宇宙の星雲のような禍々しいとも神々しいともつかぬ景色が現れた。
人々はこれを最初冗談めかして「異世界侵食」と呼んだ。
皮肉なことにそれは本当に「異世界侵食」だった。
これらはのちにこう呼ばれることになる――
「境界侵食」
この境界侵食以降、東京のみならず、世界中で空間の異常現象、異常気象が広がり続けている。
SNSで見飽きるほど見た現象だ。
しかし実際に遭遇した人間の多くは、帰ってこない。
「……最悪」
ぽたり。
水滴が顎に当たった感触。澪は地面を見て、違和感を覚えた。水滴が地面から落ちた?
雨が降っていた。地下鉄構内なのに。
雨が“上に”降っている。床から天井へ。水滴が逆流していた。
澪は息を呑む。直後構内アナウンスが空気をさいた。
このアナウンスは本来の駅そのもののアナウンスではない――澪は直感した。
『——心象滲出にご注意ください』
『感情値上昇を検知——』
大きなノイズが走る。
何か大きな力によって弾けるような音のあと、照明が落ちて、暗闇が広がる。
澪の呼吸が浅くなる。スマホを取り出す。
圏外だ。時刻表示は18:23。時間が止まっている。
そんな――
今日の渋谷の境界侵食の出現率と危険度は低かったはず……何故……?
スマホのライトを点ける。
白い光が、ホームをなぞる。誰もいない。ただ、気配だけがある。
視線。
暗闇のどこかから、誰かがこちらを見ている。
澪は早足になる。改札へ向かう階段へ向かう。だが、上っても、また同じホームへ戻る。
二度。
三度。
四度。
階段が増えている。境界侵食の一つだ。
澪はあまり詳しくないが、危険度はそれなりに低かったはず――
《階段増殖》
不安が強い人間ほど、出口へ辿り着けなくなるという噂があるが真偽はわからない。
「……っ」
息が苦しい。鼓動が速い。
こんなの、 ただの都市怪談じゃなかったのか。
ふいにホーム奥から、小さな声がした。
「ねえ」
澪は振り向く。
そこには少年がいた。
十歳くらいだろうか――1番に澪の目を引いたのはその鮮やかな青い髪だった。
胆礬のような非生物的な青色、それだけではない。
その瞳の虹彩は複雑な構造色を持ち、何色とも形容しがたい。最も端的に説明するならば「虹色」と表現するしかないだろう。
明らかにも人間では見たことのない色彩を放っている。着ているのは明らかにオーバーサイズの白い無地のパーカー。足には何も履いていない。裸足だ。
とにかく一見して二度見するなとは言えない風体をしている。
彼は駅の非常灯の赤を受け、静かに立っている。
「……誰」
少年は、少し考えてから答えた。
「切れ端」
「……は?」
「私の名前」
子供にしては大人びた一人称だと澪は思った。
というよりも外国語を翻訳したときの独特なぎこちなさを感じる。それにしても妙な名前だ。だが少年は真剣だった。
「向こうの言葉、翻訳したらそうなった」
虹色の瞳が、逆流する雨を映して揺れる。
「本当はもっと長い意味」
少年は静かに言った。
「“大きなものから零れて、それでも残った大切な部分”が「切れ端」になった」
澪は呆れた。
「長すぎでしょ」
「翻訳機、途中で諦めた」
真顔だった。場違いなのに、少しだけ笑いそうになる。
しかし彼の名前は美しく、祝福されたものだと澪は思った。
彼を想う誰かが、彼に送った名前――いつか世界中の誰からも忘れられてしまうことがあったとしても、自分だけはずっと心の中に留めておきたいと思った。
澪はそのまま思いついて言う。
「……切れ端を意味するエンドをもじってエンデでいいじゃない」
咄嗟の思いつきで提案してしまったが、なんとなくそうしたほうがいいと思った。少年は目を瞬かせる。
「エンデ?」
「その方が呼びやすい」
少年は、その名前を小さく反芻した。
「エンデ」
それから少しだけ笑った。
澪はその笑顔を見て、最近ずっとみている夢を思い出した。
木製の古びた扉があって、腐食し、碧色の錆がついたブラスのドアノブが鈍い光を受けて暗い海の上に浮いている。
次に扉が開いて歌が聴こえてくる――そこでいつも夢は終わる。
ぼんやりと思い出していると、
突然エンデの表情が変わった。
「澪、泣いてる」
澪は眉をひそめた。何を突然言い出すのだろう?
それに何故私の名前を知っている?
「泣いてない」
「泣いてるよ」
即答だった。澪は苛立つ。
「何なの、君……」
エンデは不思議そうに首を傾げる。
「どうして人は苦しい時に違うこと言うの?」
胸の奥がざらつく、図星だった。澪は視線を逸らす。
自分の生きる道が見えなくて毎日が憂鬱だった。
第一志望だった茨城県にある紫峯大学の文学部キャンパスは、去年の境界侵食で閉鎖された。
その文学部には、ずっと憧れていた研究室があった。
“言葉と感情伝播”を専門に扱う、文学部・感性言語研究室。
歌詞や詩、神話、祈り、朗読――
人間が発した「言葉」が、どうやって他人の感情や記憶へ作用するのかを研究する分野だった。
澪がそこへ惹かれたきっかけは、小学生の頃に読んだ一冊の詩集だった。たった数行の文章。
止まることを知らずに広がり続けて澪の中でどこまでも広がっていく。
文字は澪をどこまでも連れて行ってくれた。
それまで単純だった澪の世界にたくさんの線が、色が、音が入り込んできた。
結果として澪はもっと偏差値の高い大学を目指すことにした。判定はまだ足りない。
模試の結果を見るたび、胃が痛くなる。でも諦めるのは、まだ怖かった。
「……別に苦しくない」
その瞬間。駅構内の照明が砕け散った。
乾いた破裂音が響いてガラス片が飛び散った。空気が震える。
エンデの周囲だけ、空間が水面みたいに歪んでいる。
まるで、感情に共鳴しているみたいに。エンデが静かに言った。
「嘘」
床が軋み、壁に亀裂が走り、澪の喉が凍る。
黒い裂け目が空間へ走った。
裂け目の向こうにみえるのは森だった。
青白い樹木。逆さに揺れる葉。異世界。
“向こう側”。
森に浮かんだ巨大な月の中から何かがこちらを覗いていた。人影。
いや、人ではない。心の声が形をなした——
黒い輪郭だけの群れ。ざわつきこだまする、無数の声。
「落ちる」
「何もできない」
「何も叶えられない」
澪のくぐもった心象が、境界を越えて実体化していた。
異界現象の報告されている侵食の一つだ。
言葉の現象化。
侵食後、強い感情と言葉は時々“物質化”する。黒い群体が、一斉に澪を向く。
逃げなきゃ。なのに足が動かない。
怖い。
怖い。
怖い。
その時。エンデが、澪の制服の袖を掴んだ。小さな手。
「言って」
「……え?」
「本当のこと」
黒い群体が迫る。駅が軋む。逆流する雨。エンデは真っ直ぐ澪を見た。
「澪は、本当はどうしたいの?」
月を背後に彼は言う。
澪の喉が震える。そんなの決まってる。
自分の人生に悲観ばかりして、自分のしたいことから逃げている――ずっと言えなかっただけだ。
親にも。
先生にも。
友達にも。
自分にも。
巨大な月が澪の人生の影に重なる。
涙が滲む。そして。壊れるみたいに、声が出た。
「……もっと……りたい……」
「澪、強く。言葉に出して」
エンデが請う。
「もっと!知りたい!世界を!」
「こんなところで終わりたくない!」
「私は生きて世界と繋がりたい」
その瞬間だった。
世界が止まる。逆流していた雨が静止する。
澪の言葉に呼応して眩い光が放たれる。
エンデの虹色の瞳が煌めき、その光が彼の力によるものだと澪は理解する。光は収束して矢のような光線になる。
共鳴。
光線が巨大な月を薙ぐ。
境界そのものが、反転する。黒い群体が悲鳴を上げ、霧みたいに崩壊していく。
風、森が消えてやがてゆっくりと裂け目が閉じていく。緩慢に瞳を閉じるときのような生々しさがあった。静寂が訪れる。
澪はその場へ崩れ落ちた。荒い呼吸に不思議と涙が止まらず、震える指で口元を押さえる。
押さえた手に自分のあたたかい息が籠る。その生温かさを感じ、「私はここに確かに生きている」と実感する。
エンデはしゃがみ込み、不思議そうに澪を見た。
「今の、いい言葉だった」
「……は?」
「世界が、澪の言葉を好きになった」
この子供は何をいっているのだろう?意味が分からなかった。
だがその時。遠くでサイレンが鳴る。
赤い警告灯が駅を広く長く照し、構内放送が流れる。
『侵食反応を検知』
『境界管理局が到着します』
エンデの顔色が変わった。初めて、はっきりした感情が浮かぶ。それは恐怖だった。エンデは澪を見る。
「逃げなきゃ」
「え?」
「エンデ、見つかると消される」
次の瞬間。駅構内奥で、重い足音が響いた。黒い防護服に白い仮面。銃のような観測装置。
澪も何度か見たことのある、まごうことなき境界管理局だった。
先頭の局員が、エンデを視認する。そして静かに告げた。
「——漂流個体を確認」
エンデが澪の手を握った。
「走って」
照明が、再び落ちた。




