面会前
食事が終わるころには、医療区画の照明が少しだけ明るくなっていた。
朝なのか昼なのか、澪にはまだ分からない。けれど、遠くの通路を行き来する足音の数が増え、カーテンの向こうで機材を動かす音がしている。人が起きて、働き始める時間なのだと思った。
世界はまだ壊れている。でも、誰かはシーツを替え、誰かは粥を運び、誰かは倒れた隊員の記録を取り、誰かは失くしたスニーカーを探している。
それが不思議だった。扉を閉じた夜のあとでも、朝の仕事はやってくる。
「九条さん、少し横になりましょう」
医療班の女性が言った。
澪は頷いた。食べただけで身体が重い。指先に貼られた絆創膏を見ながら、ゆっくり寝台に背を預ける。喉の星とイルカの絆創膏が、首の動きに合わせて少しだけ引きつった。
エンデがすぐに身を乗り出す。
「痛い?」
澪は首を横に振った。痛いけれど、だめな痛みではない。そう端末に書こうとしたが、手に力が入らなかった。かわりに、喉の絆創膏を軽く指で押さえて、エンデを見る。エンデは真剣に頷いた。
「守ってる」
澪も頷いた。守られている。それは、治療とは少し違う。誰かが、自分の痛みを大事なものとして見てくれている。そのことが、澪にはいま一番必要だった。
紫乃が紙袋を片づけながら、医療班の女性に尋ねた。
「このあと、澪ちゃんは検査ですか?」
「はい。ただ、その前に短い面会の予定があります」
澪の指が止まった。面会。その言葉だけで、胸の奥が大きく跳ねた。紫乃も気づいたように、すぐ澪を見る。
「もしかして」
医療班の女性は頷いた。
「九条さんのお母様が、こちらに到着されています」
世界の音が、一瞬遠のいた。
おかあさん――
その一文字が、澪の身体の中で重く響いた。母に会える。
そう思った瞬間、嬉しさより先に恐怖が来た。どう説明すればいいのか分からない。自分がどんな顔をしているのかも分からない。声も出ない。喉には星とイルカの絆創膏が貼られている。隣にはエンデがいる。母は、何を見るのだろう。
娘が生きていることに安心するのか。それとも、知らない子供と手を繋いでいることに戸惑うのか。
管理局の医療区画に寝かされ、端末でしか話せなくなっている自分を見て、泣くだろうか。怒るだろうか。抱きしめてくれるだろうか。
澪は端末を手に取ろうとした。うまく掴めない。
エンデがそれに気づき、端末を澪の手元へ寄せた。
「澪、書く?」
澪は頷いた。指先が震えた。画面に、少し歪んだ文字が出る。
今ですか。
医療班の女性は画面を見て、穏やかに答えた。
「すぐではありません。久我指揮代理と話した後、こちらへ案内されます。九条さんの体調を見て、十分から十五分ほどになると思います」
十五分。母に会える時間が、たった十五分。
けれど、会えないよりはずっといい。澪は次の文字を書いた。
エンデは。
エンデがその文字を覗き込んだ。
医療班の女性は少しだけ返答に迷った。紫乃も、伊坂も黙っている。
やがて、女性は正直に言った。
「最初は、九条さんとお母様だけでの面会が予定されています」
エンデの手が、わずかに止まった。澪はすぐに端末へ書いた。
エンデも一緒がいいです。文字は震えていた。
医療班の女性は困ったように眉を下げる。
「気持ちは分かります。ただ、お母様にはまだ、エンデさんのことを詳しく説明できていません。突然会わせると、混乱される可能性があります」
澪は唇を噛んだ。
混乱。当然だと思った。
自分だって、最初は何も分からなかった。渋谷第十三駅で出会った青い髪の子供を、どう説明すればいいのか分からなかった。ただ、放っておけなかっただけだ。
母に、それを分かってもらえるだろうか。
澪は書いた。
でも、隠したくないです。
医療班の女性は、少しだけ目を伏せた。伊坂が静かに口を開いた。
「九条澪さんの意思として、久我指揮代理へ伝えます」
澪は伊坂を見た。
「ただし、判断は面会直前になるでしょう。お母様の状態もあります」
澪は頷くしかなかった。エンデは、じっと澪を見ていた。
「澪の母」
その言い方が少し不思議で、澪は胸が詰まった。
エンデにとって、母という言葉はどれくらい分かるのだろう。親。家族。帰る場所。心配してくれる人。怒る人。抱きしめてくれる人。そういうものを、エンデはまだ知らないのかもしれない。
澪は端末に書いた。
おかあさん。
エンデは画面を見た。
「おかあさん」
紫乃が静かに補足した。
「澪ちゃんを育てた人。澪ちゃんを、ずっと心配していた人」
「心配」
エンデは小さく繰り返す。
「澪、いなくなったから?」
「そう」
紫乃は頷いた。
「すごく心配したと思う」
エンデは少し黙った。
そして、自分の膝の上の絆創膏の箱を見た。
「澪の喉、見たら、心配増える?」
誰もすぐには答えられなかった。
増えるだろう。きっと。
母は、喉に貼られた星とイルカの絆創膏を見て、まず驚くはずだ。それから、どうして声が出ないのかを知りたがる。澪が何を歌ったのか。どこにいたのか。なぜこんな場所にいるのか。なぜ管理局が関わっているのか。
全部を一度に説明することはできない。
それでも、澪はその絆創膏を剥がしたくなかった。エンデが貼ったものだから。澪の歌を守っているものだから。母に会う時にも、これを貼っていたかった。
澪は端末に書いた。このまま会いたい。医療班の女性が、静かに頷いた。
「分かりました。処置上は問題ありません」
エンデはほっとしたように息を吐いた。
紫乃が少し笑う。
「お母さん、驚くかもしれないけどね」
澪は端末に書いた。
たぶん、昔も絆創膏を貼ってくれました。
書いてから、自分でも驚いた。忘れていた記憶だった。
小学生の時、校庭で転んで膝を擦りむいた。泣きながら家に帰ると、母は「大げさ」と言いながらも、ちゃんと消毒して、キャラクター柄の絆創膏を貼ってくれた。その時の自分は、絆創膏が可愛いだけで少し強くなった気がした。澪は、そのことを思い出した。
星とイルカ。柄のある絆創膏は、子供っぽいものだと思っていた。けれど今、その子供っぽさに救われている。紫乃がその文字を読んで、ふっと表情を緩めた。
「じゃあ、きっと分かるよ」
澪は頷いた。分かってほしい。全部でなくてもいい。ただ、この絆創膏を剥がさないでほしい。エンデが、恐る恐る尋ねた。
「エンデ、会わない?」
澪はエンデを見る。エンデの虹色の瞳が揺れていた。会いたい、と言っているようにも見える。怖い、と言っているようにも見える。澪は端末に書いた。
会ってほしい。エンデは画面を見た。それから、小さく言った。
「エンデ、何を言う?」
澪は少し考えた。
母に会った時、エンデは何を言えばいいのか。
こんにちは。
私はエンデです。
澪と一緒にいました。
澪の歌を守っています。
どれも正しいようで、どれも足りない。澪は文字を書いた。
おはよう、でいいと思う。
エンデは瞬きした。
「おはよう?」
澪は頷いた。朝か分からなくても?エンデが先に言った。澪は少し笑った。
そう。
エンデは、真剣に考え込んだ。
「じゃあ、おはよう、澪の母」
紫乃が小さく笑った。
「いきなりそれだと、ちょっと固いかも」
「固い」
「おかあさん、でいいんじゃない?」
エンデは目を丸くした。
「エンデが?」
「あ、いや、いきなりそれは早いかな」
紫乃が自分で言って慌てる。
伊坂が淡々と助け舟を出した。
「九条さんのお母様、と呼べばよいと思います」
「長い」
「では、澪のお母さん」
エンデは頷いた。
「おはよう、澪のお母さん」
澪は端末に書いた。それでいい。エンデは少しだけ安心したようだった。




