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再会

 その時、カーテンの向こうから別の足音が聞こえた。


 医療班ではない。管理局の硬い靴音。足音はカーテンの前で止まり、短いノックがあった。


「九条澪さん」


 久我の声だった。


 医療班の女性がカーテンを開ける。久我は片腕を吊ったまま立っていた。


額の包帯は新しいものに替えられているが、顔色はかなり悪い。おそらく彼も休んでいない。澪は身体を起こそうとした。


「そのままでいい」


 久我はすぐに言った。


「声は」


 澪は首を横に振った。


「分かった。筆談でいい」


 久我は澪の喉を見た。星とイルカの絆創膏。彼の眉が一瞬だけ動いた。エンデがすぐに言った。


「守ってる」


 久我は数秒黙った。それから、低く答えた。


「そうか」


 その声には、笑いも否定もなかった。ただ受け取った、という響きだった。エンデはそれで納得したように、箱を抱え直した。久我は澪に視線を戻した。


「お母さんが来ている」


 澪は頷いた。


「会わせる。ただし、最初は五分だけだ。君の体調を見る」


 澪は端末に書いた。


 エンデも一緒に会えますか。


 久我はすぐには答えなかった。紫乃も、伊坂も、医療班の女性も黙る。久我はエンデを見た。エンデは彼を見返した。


小さな体。毛布。絆創膏の箱。裸足。少し透けた指先。澪の喉を守っていると本気で思っている目。久我は深く息を吐いた。


「最初の数分は、九条澪と母親だけだ」


 澪の胸が沈む。久我は続けた。


「その後、君が望むなら、エンデも会う」


 澪は顔を上げた。


「母親には、簡単に説明した。澪が一人ではなかったこと。澪を助けた子がいること。詳しいことは、澪の体調が戻ってからになること」


 澪の指が震えた。母は、それをどう受け止めただろう。久我は少しだけ表情を緩めた。


「かなり混乱していた。怒ってもいた。泣いてもいた」


 澪は目を伏せた。


「だが、こう言っていた」


 久我は、少し間を置いた。


「澪が会いたい子なら、その子にもお礼を言わなきゃいけない、と」


 澪の視界が滲んだ。喉が痛い。声が出ない。


 それでも、何かが胸の奥からこみ上げてきた。エンデはきょとんとしていた。


「お礼」


 久我が頷く。


「そうだ」


「エンデに?」


「おそらくな」


「なぜ?」


 久我は少し困ったような顔をした。


「澪のそばにいたからだろう」


 エンデは澪を見る。


「そばにいた」


 澪は頷いた。


 ずっと。


 そう書こうとして、手が震えた。エンデはその手に自分の手を重ねた。


「澪、書かなくていい」


 それから、久我に向き直った。


「エンデ、会う」


 久我は静かに頷いた。


「分かった。ただし、医療班が止めたら中断する。澪も、エンデも、無理はしない」


「無理、少しなら?」


「少しもだめだ」


「青織は無理した」


「だからあいつは今、別室で監視されている」


 紫乃が思わず笑った。久我は疲れた顔で続ける。


「食いすぎでも監視されている」


「かなり生きてる」


 エンデが言った。


「そうだな。かなり生きてる」


 久我の声にも、ほんの少しだけ笑いが混じった。


 そして、彼は医療班の女性へ合図した。


「準備を」


「はい」


 女性が澪の寝台の周囲を整え始める。点滴の位置を確認し、端末を澪の手の届くところへ置く。喉の絆創膏には触れなかった。ただ、端が剥がれていないかだけをそっと見た。


「大丈夫です」


 エンデに向かってそう言う。エンデは真剣に頷いた。


「守ってる」


「はい。守れています」


 その返事で、エンデはようやく毛布を少し緩めた。紫乃が立ち上がる。


「私は外に出てるね」


 澪は紫乃を見た。


「大丈夫。近くにいる」


 紫乃はそう言って、澪の指の絆創膏を軽く見た。


「お母さんに会ったら、たぶん泣いちゃうと思うけど」


 澪は頷いた。


「泣いていいよ」


 紫乃は優しく言った。


「それは歌じゃなくていいから」


 その言葉に、澪はまた泣きそうになった。泣くことまで、歌にしなくていい。ただ泣いていい。


 それも、戻りゆく日常のひとつなのだと思った。伊坂も一歩下がった。


「私は廊下にいます。何かあれば呼んでください」


 澪は端末に書いた。ありがとうございます。伊坂はそれを見て、短く頷いた。


「礼には及びません」


 そして少し間を置いて、付け足した。


「ですが、受け取っておきます」


 紫乃が「伊坂さんも少し変わりましたね」と小さく言うと、伊坂は何も聞かなかったふりをした。カーテンの向こうへ、紫乃と伊坂が出ていく。


 残ったのは、澪とエンデ、医療班の女性、そして久我だけだった。久我はカーテンの前に立つ。


「連れてくる」


 澪は頷いた。


 エンデが、澪の手を握った。


「澪」


 澪はエンデを見る。


「大丈夫じゃない?」


 澪は少し迷ってから、頷いた。大丈夫ではない。


 胸が苦しい。怖い。会いたい。会うのが怖い。母に泣かれたら、自分も崩れてしまいそうだった。


 エンデは、澪の喉の絆創膏を見た。


「でも、守ってる」


 澪は頷いた。エンデは自分の指の絆創膏も見せた。


「同じ」


 澪はまた頷いた。


 同じ。


 違う傷を持っていても、同じように守るものを貼っている。エンデは少し考えてから、澪の手を握り直した。


「お母さん、来る。エンデ、あとでおはよう言う」


 澪は端末に、うん、と書いた。


 カーテンの向こうで、足音がした。ひとつは久我の硬い足音。もうひとつは、それよりずっと軽く、けれどどこか急いている足音だった。


 澪は息を止めた。喉の星とイルカが、呼吸に合わせて小さく動いた。カーテンが開く。


 そこに、母が立っていた。何度も見たはずの顔だった。朝、キッチンで弁当箱を洗っていた顔。模試の結果を見て、言葉を選んでいた顔。スマートフォンに短い確認メッセージを送ってきた顔。受験の話になると少し硬くなり、それでも夜遅く帰ると起きて待っていてくれた顔。


 その顔が、今はひどく青ざめていた。


 目元は赤く、髪は乱れ、上着の前もきちんと閉じられていない。急いで来たのだと分かった。途中で何度も泣いたのだろう。化粧は少し崩れていた。母は、澪を見た。寝台に横たわる澪。点滴。端末。喉の星とイルカの絆創膏。指の絆創膏。隣にいるエンデ。


 そのすべてを一度に見て、母の表情が崩れた。


「澪」


 声が震えていた。澪は口を開いた。声は出なかった。


 母の目が、さらに大きく揺れた。


「声……」


 澪は端末を持った。


 手が震えて、文字がうまく打てない。それでも、どうしても最初に書きたい言葉があった。


 ごめんなさい。


 画面に出たその文字を見た瞬間、母は首を横に振った。


「違う」


 母は寝台のそばへ近づいた。


「違うでしょ、澪」


 澪の目から涙がこぼれた。母は、震える手で澪の頬に触れた。壊れ物に触れるような手だった。触れて、そこに温度があることを確かめるように、指先が頬をなぞった。


「謝るのは、あとでいい」


 母は言った。


「今は、生きててくれてよかったって、先に言わせて」


 澪は泣いた。


 喉が痛くて、息が詰まる。それでも涙は止まらなかった。母の手が頬にあり、エンデの手が指にある。喉には星とイルカの絆創膏がある。何も説明できない。


 でも、生きている。


 それだけが、今はすべてだった。母は澪の額に額を寄せた。


「よかった」


 何度も言った。


「よかった、澪。よかった」


 澪は声のない泣き方で、ただ泣いた。エンデは、その様子をじっと見ていた。


 そして、自分の絆創膏を貼った指を見た。母が澪から少しだけ顔を離した時、エンデは小さく口を開いた。


「おはよう」


 母が、ゆっくりエンデを見た。エンデは、緊張したように背筋を伸ばした。


「澪のお母さん」


 部屋が静かになった。


 母はしばらく、エンデを見つめていた。青い髪。虹色の瞳。小さな身体。毛布。絆創膏の箱。裸足。そして、澪の手を握っている手。


 母の表情に、戸惑いが浮かんだ。当然だった。けれど、その戸惑いの底に、拒絶はなかった。母は、ゆっくり息を吸った。


「あなたが」


 声が少し震えている。


「澪と、一緒にいてくれた子?」


 エンデは澪を見た。澪は頷いた。エンデは母に向き直る。


「うん」


 それから、少し考えた。


「エンデ」


 母は、その名前を聞いた。


「エンデちゃん」


 エンデは目を瞬かせた。


「ちゃん」


 母は涙を拭いながら、少しだけ笑った。


「嫌だった?」


「分からない」


「じゃあ、あとで考えて」


「うん」


 エンデは頷いた。それから、澪の喉を指さした。


「澪の歌、守ってる」


 母の視線が、澪の喉へ移る。星とイルカの絆創膏。母は、それを見た。そして、泣きそうに笑った。


「そう」


 母はそっと、澪の喉の絆創膏に触れないように、その少し下へ手を添えた。


「守ってくれてるの」


 エンデは真剣に頷いた。


「うん」


「ありがとう」


 エンデは固まった。


 まるで、予想していなかった言葉を受け取ったように。


「ありがとう?」


「うん」


 母はエンデを見た。


「澪のそばにいてくれて。澪の歌を守ってくれて。ありがとう」


 エンデは、少し困った顔をした。それから、澪を見た。


「澪」


 澪は涙で滲む視界の中、端末にゆっくり書いた。受け取っていい。エンデはその文字を読んだ。そして、母に向き直った。


「うん」


 小さく言った。


「受け取る」


 母は、また泣いた。泣きながら笑った。その顔を見て、澪は思った。全部が元通りになるわけではない。


 母に話さなければならないことは山ほどある。扉のこと。歌のこと。エンデのこと。青織のこと。アオのこと。白鯨のこと。管理局のこと。自分がもう以前の自分と同じではないこと。


 それでも、今この瞬間、母はエンデにありがとうと言った。エンデは、それを受け取った。


 それだけで、何かがひとつ、こちら側に戻ってきた気がした。面会の時間は短かった。医療班の女性が、申し訳なさそうに告げる。


「そろそろ、九条さんを休ませます」


 母は頷いた。まだ離れたくないのが、澪にも分かった。母の手は澪の手を握ったまま、なかなか離れなかった。


「また来るから」


 母は言った。


「すぐ来る。ちゃんと説明も聞く。怒るのも、泣くのも、たぶんこれからいっぱいするけど」


 澪は涙のまま、少しだけ笑った。


「でも、今日は」


 母は澪の指の絆創膏を見た。


「今日は、生きててくれてよかっただけにする」


 澪は頷いた。


 母はエンデを見た。


「エンデちゃん」


「うん」


「澪をお願い、って言うのは違うわね」


 母は少し考えた。


「澪と一緒にいてくれて、ありがとう。また会ってくれる?」


 エンデは澪を見る。澪は頷いた。エンデは母に向き直った。


「また、おはよう言う」


 母は笑った。


「うん。また言って」


 それから母は、もう一度だけ澪の頬に触れ、カーテンの向こうへ出ていった。足音が遠ざかる。澪はしばらく、何もできなかった。


 胸がいっぱいで、痛くて、苦しくて、それでも温かかった。エンデがそっと言った。


「澪のお母さん、泣いた」


 澪は頷いた。


「でも、怒ってなかった」


 澪は少し考え、端末に書いた。これから怒ると思う。エンデは真剣に頷いた。


「澪、覚悟」


 澪は声を出せないまま、笑った。喉が痛い。でも、その痛みの上に星とイルカがある。指には絆創膏がある。隣にはエンデがいる。母はまた来ると言った。


 世界はまだ、少しも簡単ではない。けれど澪は、初めて思った。戻りたい。あの壊れかけた世界にではなく。


 受験に追われ、母のメッセージに返事をしそびれ、雨の匂いにうんざりしながら、それでも朝になれば靴を履いて外へ出る、あの日常に。


 完全には戻れないかもしれない。それでも、戻りたい。


 エンデと一緒に。


 澪は、端末にゆっくり書いた。


 エンデ、スニーカー見つかったら、歩く練習しよう。


 エンデはその文字を読んだ。目が少しだけ明るくなる。


「マジックテープ」


 澪は頷いた。


 びりびり。


 エンデは少し笑った。


「びりびりして、歩く」


 澪は端末に書いた。


 そして、おにぎり食べる。


「黒い紙」


 海苔。


「のり」


 澪は頷いた。


 エンデは、澪の喉の絆創膏をもう一度見た。


「喉、治ったら?」


 澪は少し考えた。歌う、とは書かなかった。まだ、それは怖かった。


 かわりに、こう書いた。


 話す。


 エンデは瞬きした。


「何を?」


 澪は端末を見つめた。話したいことはたくさんある。


 母に。


 エンデに。


 青織に。


 紫乃に。


 伊坂に。


 そして、もういないアオに。


 澪は、少し迷ってから書いた。


 ただいま、って。


 エンデは、その文字を長く見ていた。


「ただいま」


 小さく繰り返す。そして、首を傾げた。


「帰る時の言葉?」


 澪は頷いた。


「じゃあ、エンデも言う」


 澪は見る。


 エンデは、絆創膏の貼られた指を澪の指にこつんと当てた。


「澪が言ったら、エンデも言う」


 澪は目を閉じた。その約束は、扉を閉じる歌よりもずっと小さかった。けれど今の澪には、その小ささが何よりも大切だった。


 ただいま。


 いつか声が戻ったら。


 星とイルカの絆創膏を剥がしても大丈夫になったら。


 マジックテープのスニーカーを履いたエンデと一緒に、母のいる場所へ帰って。


 その時、言うのだ。


 ただいま、と。


 澪はエンデの手を握ったまま、もう一度眠りに落ちていった。


 今度の眠りは、海の底へ沈むものではなかった。


 遠くで波の音はしていた。けれど、それはもう澪を呼んでいない。


 ただ、眠る前の部屋の隅で、かすかに寄せては返すだけだった。

 

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