青織とスニーカー
その時、カーテンの外で足音が止まった。
「失礼します」
伊坂の声だった。紫乃が振り向く。
「あれ、青織さんは?」
カーテンが開き、伊坂だけが姿を見せた。腕には資料端末を抱えている。顔色はいつも通りに見えたが、目元には薄く疲労が残っていた。
「別室です」
「寝てるんですか?」
「いいえ」
伊坂は少しだけ間を置いた。
「食事をしています」
澪は端末を持つ手を止めた。エンデもパンをつまんだまま、伊坂を見る。
「青織、ごはん?」
「はい」
「おかゆ?」
「最初は」
伊坂の声は淡々としていた。
「医療班からは粥と消化のよい副菜を出されていました。ですが、三回おかわりを要求し、その後、隣の隊員用の食事にも手を伸ばそうとしたため、現在、監視下に置かれています」
紫乃が一瞬黙った。
「三回?」
「正確には、四回目です。三回目までは医療班が許可しました。四回目で止められました」
「青織さん、死にかけてませんでした?」
「本人いわく、死にかけたので腹が減った、とのことです」
紫乃は額に手を当てた。
「何なんですか、あの人……」
エンデは、真剣な顔で言った。
「青織、生きてる」
伊坂は少しだけ目を伏せた。
「ええ。かなり」
その言い方が妙におかしくて、紫乃が小さく笑った。
澪も笑いかけて、喉の痛みに顔をしかめる。けれど、その痛みもさっきより少しだけ柔らかかった。
青織が別室でお粥をおかわりしている。その事実は、中央観測槽でアオの残響を見ていた彼とはあまりにも結びつかなかった。壊れかけた腕で観測銃を構え、扉を固定し、血を流していた人間が、今は医療班に止められながら粥を食べている。
でも、それでいいのだと思った。それもまた、生き残った人間の姿だった。エンデは自分の皿のパンを見て、それから伊坂を見た。
「青織、パンも食べる?」
「食べようとしていました」
「食べた?」
「没収されました」
「かわいそう」
「かわいそうではありません。検査前です」
エンデは少し考えた。
「青織も、パン、いいって思う」
「おそらく、何でもいいと思っているでしょう」
紫乃がまた笑った。
「伊坂さん、青織さんに厳しくないですか」
「厳しくしないと、勝手に退院しようとします」
「それはしそう」
「します」
伊坂は断言した。
「すでに一度、点滴を外そうとしました」
「本当に何なんですか、あの人」
澪は端末に文字を書く。青織さんも、ご飯食べられてよかったです。
伊坂はその文字を見た。少しだけ、表情を和らげたように見えた。
「はい」
短い返事だった。
「食べられるうちは、大丈夫です」
その言葉に、澪は小さく頷いた。青織は別室でおかわりをしている。紫乃は呆れている。伊坂は見張っている。エンデはパンを食べている。澪は粥を少しずつ飲み込んでいる。
それだけのことが、ひどく不思議で、少しだけ嬉しかった。エンデは、ふと思い出したように伊坂を見た。
「伊坂」
「はい」
「スニーカー」
伊坂は少しだけ頷いた。
「その件で来ました」
エンデの背筋が伸びる。
「ある?」
「片方は回収されています。もう片方は、中央観測槽から搬送された荷物の確認中です」
エンデの顔が曇った。
「片方」
「見つけます」
伊坂は淡々と言った。
「青織零からも、同じ指示が出ています」
「青織が?」
「はい」
「ごはん食べながら?」
「食べながらです」
紫乃がまた吹き出しそうになった。
伊坂は資料端末を操作しながら続ける。
「青織零は、回収班に対し、青いマジックテープ式の子供用スニーカーを最優先で確認するよう伝えました。医療班から食事中は端末を置くよう注意されていましたが、聞きませんでした」
「何なんですか、本当に」
「現在は端末も没収されています」
エンデは少し考えた。
「スニーカーも没収?」
「いいえ。見つかり次第、洗浄と確認を行います。履ける状態なら、歩行検査で使えるようにします」
「破れてたら?」
「修理を依頼します」
「直せないなら?」
伊坂は一瞬だけ考えた。
「青織零が、同じものを探すと言っていました」
エンデは静かになった。澪は、エンデの横顔を見た。
エンデにとって、あのスニーカーはただの靴ではない。こちら側の地面を歩くために、青織が買ってくれたもの。
マジックテープをびりびり剥がす音。青織の不器用な気遣い。澪と並んで歩くための、最初の道具。エンデは、小さく言った。
「あの靴がいい」
伊坂は静かに頷いた。
「分かっています」
「青織、分かってる?」
「分かっていると思います」
「ごはん食べてても?」
「食べていても」
エンデは少し安心したように頷いた。
「じゃあ、待つ」
紫乃が紙袋を抱え直しながら、ぽつりと言った。
「青織さん、本当に不器用ですね」
「不器用というより、説明不足です」
伊坂が言った。
「あと、無茶です」
「それは全員知ってます」
「そして、食べすぎです」
「それは今知りました」
澪は端末に書いた。
青織さんらしいです。
伊坂は少しだけ眉を動かした。
「そうでしょうか」
澪は頷いた。
青織が別室でお粥をおかわりしながら、エンデのスニーカーを探せと指示している。その姿を想像すると、少しだけ笑えた。
アオの残響を見て、扉の前で血を流して、それでも戻ってきた人間が、今は腹を空かせて、医療班に叱られながら、エンデの靴のことを気にしている。
重い過去は消えない。失ったものは戻らない。でも、生きている人間は、お腹が空く。誰かの靴を心配する。
食べすぎて怒られる。それが、たぶん救いなのだ。
澪は、粥の残りを見た。もう冷めかけている。けれど、まだ食べられる。スプーンを持つ。
少しずつ食べる。エンデもパンを食べる。
紫乃が紙袋を片づける。伊坂が資料端末を抱えたまま立っている。医療班の女性が、困ったように、それでも少しだけ安心したように全員を見る。
それは、壊れた世界の、壊れた後の、ほんの小さな食卓だった。テーブルもはなく、家でもない。外にも出られないし、白鯨はまだ残っている。管理局の上層部も信用できない。母にもまだ会えていない。エンデのスニーカーも、まだ片方しか見つかっていない。
けれど、それでも澪は思った。日常は、一気には戻らない。
たぶん、こうやって戻る。ひと匙の粥。一切れのパン。小さな絆創膏。喉に貼られた、星とイルカの絆創膏。そんなものをひとつずつ拾い直しながら、少しずつこちら側へ戻ってくる。
澪は、端末に最後の文字を書いた。また、みんなで食べたいです。エンデがそれを読んだ。
「うん」
紫乃が頷いた。
「食べよう」
伊坂が静かに言った。
「そのためにも、今は休んでください」
エンデが言った。
「青織も?」
「青織零は、食後に強制的に休ませます」
「また食べる?」
「食べさせません」
「かわいそう」
「かわいそうではありません」
紫乃が笑った。
澪も、喉が痛まないように、ほんの少しだけ笑った。
その痛みの中に、ちゃんと自分の身体があった。
澪は、絆創膏を貼った指でスプーンを持ち直した。
エンデも、絆創膏を貼った指でパンをつまんだ。
同じ指。同じ小さな傷。違う世界から来た二人が、同じ医療区画の白い灯の下で、少し冷めたご飯を食べている。
そして澪の喉には、星とイルカが貼られている。
それは奇跡というには地味で、救済というには頼りなかった。
けれど澪には、今までのどんな歌よりも、確かなものに思えた。




