お粥とクリームパンと絆創膏
医療班の確認の後、カーテンが開く。紫乃は指に包帯を巻き、片手に紙袋を持っていた。
顔色はまだ悪いが、髪は結び直され、昨日よりは人間らしい姿になっている。
「澪ちゃん、声は?」
澪は端末に、まだ、と書いた。紫乃は澪の喉を見て、少し目を丸くした。
「……星とイルカ」
エンデがすぐに言った。
「エンデが貼った」
「うん。分かる」
「澪の歌、守ってる」
紫乃は、一瞬だけ言葉を失った。それから、笑うような、泣きそうな顔になった。
「そっか」
「だめ?」
「ううん」
紫乃は首を横に振った。
「すごくいいと思う」
エンデは少し安心したように、絆創膏の箱を抱え直した。
紫乃はベッドの横に椅子を引き寄せた。紙袋を膝の上に置く。その動きに、エンデがじっと視線を向ける。
「なに」
「あ、これ?」
紫乃は紙袋を持ち上げた。
「差し入れ。と言っても、医療区画の売店で買ったものだけど」
エンデの目が少しだけ大きくなる。
「ごはん?」
「ご飯もある」
紫乃は笑った。
「でも、まずは医療班の許可がいるって」
ちょうどその時、医療班の女性が入ってきた。
「九条さんは流動食からです。喉に負担の少ないもの。エンデさんは、少量ずつなら固形物も試せます」
医療班の女性は澪の喉の絆創膏を見て、少しだけ眉を上げた。
「これは」
エンデが、箱を抱えたまま言った。
「守ってる」
「……そうですか」
女性は澪の表情を見て、それから絆創膏を確認した。
「処置の邪魔にはなっていません。検査の時は一度外すかもしれませんが、その時は貼り直しましょう」
エンデは真剣に頷いた。
「貼り直す」
「はい。貼り直します」
それだけで、エンデは納得したようだった。
エンデが首を傾げる。
「こけいぶつ」
「噛む食べ物です」
「噛む」
エンデは真剣に頷く。
「エンデ、噛める」
「ゆっくりお願いします」
女性はそう言って、小さなトレーをベッド脇の台に置いた。澪の前には、薄い粥と水。エンデの前には、小さく切られた白いパンと、柔らかい卵焼きのようなもの、それから透明なスープが並んだ。
それは、戦いの後の食事としては、あまりにも普通だった。白い器に湯気がたつ。柔らかく煮えた米の匂い。
澪は、その匂いを嗅いだ瞬間、急に涙が出そうになった。ご飯だ!ただのご飯なのだけれど。
世界が壊れかけた後に、誰かが米を煮て、器に入れて、食べられる温度にしてくれた。それだけのことが、信じられないほど尊かった。
紫乃が澪の顔を見て、少しだけ表情を緩めた。
「食べられそう?」
澪は頷いた。スプーンを持とうとして、手が震える。紫乃が手を貸そうとしたが、澪は首を横に振った。自分で食べたかった。
世界を閉じたからではない。大げさな意味ではない。ただ、自分の手で、粥をすくって、口に運びたかった。
ひと口すくう。温かかった。喉に触れると少し痛い。けれど、米の甘さがじんわりと舌に残る。胃が驚いたように動き、身体の奥から、遅れて空腹が戻ってきた。
生きている。澪は、そう思った。
横では、エンデがパンをじっと見ていた。
まるで未知の生物を観察するような目だった。
「エンデ、パン食べたことあったよね?」
紫乃が聞く。
「たぶん」
「たぶん?」
「くりいむ?」
紫乃は一瞬黙った。くりいむ?クリームパン?
甘い物といえば青織だろう。東京湾に行く前、買い出しで好きな物を入れたんだな……と紫乃は即座に理解した。
エンデは小さく切られたパンを指でつまんだ。医療班の女性が「手で食べても構いません」と言う前に、彼は慎重に口へ運んだ。噛んで、止まる。また噛む。そして、飲み込む。そして、目を瞬かせた。
「くりいむ!」
紫乃が笑いを堪えた。
「そうだね。青織の大好物だよ」
「ふわふわ。白い。少し、甘い」
「うん。まあ、合ってる」
エンデはもう一切れ食べた。
今度は少しだけ早かった。
「エンデ。パン、すき。再度認識した」
澪は端末に書いた。ご飯もいいよ。エンデは澪の粥を見る。
「澪の、それ」
おかゆ。
「おかゆ」
食べる?エンデは医療班の女性を見る。女性は少し笑って、「ひと口だけなら」と言った。
澪は自分の粥を小さなスプーンですくい、エンデの方へ差し出そうとした。けれど腕が少し震えて、こぼれそうになる。紫乃が慌てて器を支える。
「ゆっくりでいいよ」
澪は頷き、なんとかスプーンを差し出した。エンデはそれを見て、少し迷った。
「澪の」
うん。
「いい?」
いい。
エンデは、澪の手から粥を食べた。それだけのことだった。けれど、澪は胸がいっぱいになった。
渋谷で空腹を訴えていたエンデ。渋谷で何も知らずに澪の手を握ったエンデ。扉の前で消えかけたエンデ。白鯨に奪われそうになったエンデ。
そのエンデが、今、自分の粥を食べている。
「どう?」
紫乃が聞いた。
エンデは真剣に考えた。
「やさしい」
澪は目を伏せた。紫乃も、少し黙った。粥の味を、やさしいと言う。それがエンデらしくて、痛いほどよかった。
「じゃあ、今度ちゃんとしたご飯も食べよう」
紫乃が言った。
「ちゃんとした?」
「おにぎりとか、味噌汁とか、卵焼きとか。あとは、澪ちゃんが元気になったら、外で食べるのもいいね」
外。
その言葉に、澪とエンデが同時に顔を上げた。紫乃は少しだけ苦笑した。
「まだ先だけどね。まずは検査。それから、お母さんとの面会。それから、管理局の面倒な話。それが終わってから」
澪は端末に書いた。外で、何を食べる?紫乃は腕を組んだ。
「エンデの初めての外食……ではないか。古書店でも食べたしね。でも、ちゃんと落ち着いて食べるなら、やっぱりおにぎりかな」
エンデが首を傾げる。
「おにぎり」
「ご飯を握ったやつ」
「手で?」
「うん」
「ご飯、手で持つ?」
「海苔で巻くと持てるよ」
「のり」
「黒い紙みたいな食べ物」
エンデは真剣に頷いた。
「黒い紙、食べる」
「言い方」
紫乃が笑う。澪は端末に書いた。雨の日も、晴れの日も、外で食べたい。
「欲張りだね」
澪は頷いた。欲張りでいいと思った。
扉を閉じた後に残った人生があるのなら、少しくらい欲張りでいい。エンデに普通の雨を見せたい。晴れた日の横断歩道を渡りたい。コンビニのおにぎりを選ばせたい。母に会わせたい。学校の帰り道に、くだらない話をしたい。
それから、青織に買ってもらったあのマジックテープのスニーカーを履いて、外を歩かせたい。
どれも、昨日までは考えられなかったことだった。
食事の途中で、澪は自分の指先に小さな傷があることに気づいた。中央観測槽で床に倒れた時か、白鯨の拘束装置からエンデを抱きしめた時に切ったのだろう。深い傷ではない。けれど、薄く赤くなっている。
医療班の女性がすぐに気づいた。
「そこも処置しましょう」
彼女は小さな箱から普通の肌色の絆創膏を取り出した。澪は喉に貼られた星とイルカの絆創膏に触れてから、少しだけその肌色の絆創膏を見た。
同じ絆創膏でも、役目が違う。指の絆創膏は、傷を守るもの。喉の絆創膏は、エンデが歌を守ると思って貼ったもの。
どちらも、今の澪には必要だった。医療班の女性は澪の指を消毒し、絆創膏を巻いた。
「これで大丈夫です」
澪は貼られた指を見た。世界を閉じた手に、絆創膏が貼られている。その不釣り合いさに、少し笑いそうになった。けれど同時に、救われた気もした。
大きな傷ばかりでは、人は暮らせない。小さな傷に絆創膏を貼ることも、たぶん必要なのだ。エンデが、その絆創膏をじっと見ている。
「指も、守る?」
紫乃が答えた。
「うん。小さい傷を守る」
「喉も、守る」
「うん」
紫乃は優しく言った。
「喉も、守ってる」
エンデは満足そうに頷いた。そして、自分の手を見た。その指先には、まだ少し透けている部分がある。傷というより、存在の端が薄い。絆創膏でどうにかなるものではない。それでも、エンデは言った。
「エンデも、貼る?」
医療班の女性が少し困った顔をした。
「怪我があるところには貼れます。でも、透けているところには、あまり意味がありません」
エンデは少し残念そうにした。
澪は端末に書いた。貼りたい?エンデは頷いた。
「澪と同じ」
その言葉に、澪は胸が詰まった。医療班の女性はしばらく考え、それから新しい絆創膏を一枚取り出した。
「では、怪我ではありませんが、目印として。かぶれたら外します」
彼女は、エンデの左手の人差し指に、そっと絆創膏を巻いた。
エンデはそれをじっと見た。澪の指にも絆創膏。エンデの指にも絆創膏。澪の喉には、星とイルカの絆創膏。
たったそれだけで、エンデは少し嬉しそうに見えた。
「同じ」
澪は頷いた。
同じ。怪我の意味は違う。貼られた理由も違う。人間と漂流個体の身体は、たぶん全然違う。それでも、同じように小さな指に絆創膏が巻かれている。
澪は、そっと自分の絆創膏の指をエンデの指に近づけた。触れる。肌色の絆創膏同士が、こつんと当たった。
エンデはそれを見て、小さく言った。
「これ、いい」
紫乃が顔を背けた。
「紫乃さん?」
医療班の女性が声をかける。
「いえ、なんでもないです」
紫乃は目元を指で押さえた。
「ちょっと、疲れてるだけ」
澪は、紫乃も泣きそうなのだと分かった。けれど、何も書かなかった。今は、それでよかった。
しばらく、三人と医療班の女性は黙っていた。食器の小さな音。点滴の落ちる音。遠くの足音。
エンデがパンを噛む音。澪が粥を飲み込む音。
そのどれもが、中央観測槽の轟音よりずっと小さい。けれど今の澪には、世界が戻ってくる音のように聞こえた。




