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イルカと星

 澪が次に目を覚ました時、最初に気づいたのは、喉の痛みではなかった。

 

 喉に、何かが貼られている。薄い布のような、紙のような、小さな感触。呼吸をすると、皮膚の上でそれがかすかに動いた。


 澪はぼんやりとした意識のまま、指先を持ち上げる。点滴の管が少し引っ張られ、腕に鈍い重さが走った。


 そっと喉に触れる。そこには、絆創膏が貼られていた。普通の肌色のものではない。

 

 小さな星と、イルカの柄が散った絆創膏だった。

 澪はしばらく、それが何なのか分からなかった。

 星。イルカ。淡い水色の台紙に、小さな黄色い星と、跳ねるイルカ。


 前に、エンデのスニーカーと絆創膏を探した時に見たものだ。子供用の、少しだけ派手で、けれど妙に可愛い絆創膏。エンデがじっと見つめて、星とイルカの形を指でなぞっていた。

 

 あの時、エンデは言った。星は、暗いところにある。

 イルカは、海にいる。だから、これはエンデと澪の間に貼るものだ、と。澪はその時、少し笑った。

 

 絆創膏は傷に貼るものだよ、と教えた。エンデは納得したような、していないような顔で頷いた。けれどたぶん、エンデの中では、それだけでは終わっていなかったのだ。

 

 澪はゆっくり横を向いた。エンデはベッドの脇の椅子に座って、澪を見ていた。毛布を肩からかぶり、青い髪を少し乱したまま、両手を膝の上に置いている。


 足元には管理局の白い室内履きがあったが、まだ履いていない。裸足の指が床の冷たさを確かめるように、少しだけ丸まっていた。

 

「澪」

 

 エンデが言った。

 澪は口を開こうとして、喉の奥に鋭い痛みが走った。声は出ない。乾いた息だけが漏れる。エンデはすぐに首を横に振った。

 

「声、まだだめ」

 

 澪は瞬きした。エンデは、自分の喉を指さした。

 

「歌ったところ、痛い」

 

 そして、澪の喉に貼られた絆創膏を見た。

 

「だから、貼った」

 

 澪はもう一度、絆創膏に触れた。喉の傷を治すには、意味がないかもしれない。医療班が貼るようなものではない。


たぶん、実際の処置は別に済んでいるのだろう。これはその上から、あるいは少し横に、エンデがそっと貼ったものだった。

 

 澪は枕元の端末へ手を伸ばした。指先がまだうまく動かない。それでも、ゆっくり文字を書く。

 

 エンデが貼ったの?

 

 エンデは頷いた。

 

「うん」

 

 どうして?

 

 エンデは、その文字をしばらく見ていた。答えを探しているようだった。

 

「澪の歌、ここから出た」

 

 エンデは澪の喉を指さした。

 

「扉、閉じた。アオの歌、聞いた。エンデの名前、呼んだ。白鯨に取られなかった」

 

 言葉は短い。けれど、そのひとつひとつが、エンデの中で大事に置かれていることが分かった。

 

「だから、ここ、大事」


 澪は息を止めた。エンデは、真剣な顔で続けた。

 

「傷、見えない。でも、ある。声、出ない。だから、守る」

 

 絆創膏を貼れば治る。たぶん、エンデはそう単純に思っているわけではない。

 

 けれど、絆創膏には意味があると思っている。傷を隠すものではなく、守るもの。痛い場所に、ここは大事だと印をつけるもの。

 

 澪が歌った喉に、星とイルカを貼ること。それはエンデにとって、ただの真似ではなかった。澪の声が、もう白鯨に取られないように。


澪の歌が、扉の向こうへ全部沈んでしまわないように。澪自身が、自分の喉をただの傷として忘れてしまわないように。エンデなりの、守り方だった。

 

「星、暗いところにある」

 

 エンデは言った。

 

「イルカ、海にいる」

 

 澪はその言葉を覚えていた。端末に書く。

 

 うん。

 

「澪、暗いところで歌った。海のところで歌った」

 

 エンデは、少しだけ胸を張った。

 

「だから、星とイルカ。合ってる」

 

 澪は泣きそうになった。喉が痛くて、泣くことさえ苦しい。けれど、胸の奥がじわじわと熱くなる。

 

 合っている。たぶん、誰が見ても医学的には合っていない。喉に可愛い絆創膏を貼っても、声帯は治らない。


 歌の痛みが消えるわけでもない。中央観測槽で起きたことを、なかったことにはできない。でも、澪には痛いほど嬉しかった。澪は端末に書いた。

 

 ありがとう。

 

 エンデはその文字を読んだ。そして、少しだけ安心したように頷いた。

 

「うん」

 

 それから、真剣な顔で付け足した。

 

「はがしたら、だめ」

 

 澪は目を瞬かせた。お医者さんが、はがすかも。そう書くと、エンデは明らかに不満そうな顔をした。

 

「だめ」

 

 検査の時は?

 

「検査、少しなら」

 

 貼り直す?

 

「貼り直す」

 

 予備ある?エンデは毛布の下から、小さな箱を取り出した。

 

 星とイルカ柄の絆創膏が入った箱だった。澪は思わず笑いかけ、喉の痛みに顔をしかめた。エンデが慌てる。

 

「笑う、まだだめ」

 

 澪は端末に書いた。ごめん。でも嬉しい。エンデは文字を読んで、少し考えた。


「嬉しいなら、いい」

 

 そして、箱を大事そうに膝の上に置いた。

 

「なくなったら、困る」

 

 たくさんあるよ。

 

「でも、澪の喉、何回も守る」

 

 澪は何も書けなくなった。何回も守る。その言葉が、あまりにエンデらしかった。

 

 一度で全部治るとは思っていない。傷がすぐ消えるとも思っていない。だから、何回も貼る。何回も守る。

 

 そうやって、少しずつ戻っていくのだと、エンデは思っている。

 澪は、絆創膏を貼った自分の喉にもう一度触れた。

 

 星とイルカの柄が、指先に少しだけざらついた。

 世界を閉じた声。エンデの名前を呼んだ喉。白鯨に奪われなかった歌。そこに貼られた、子供用の絆創膏。

 それは奇跡でも、術式でも、特別な治療でもなかった。

 

 けれど澪には、その小さな絆創膏が、どんな固定よりもやさしく自分をこちら側へ留めているように思えた。

 エンデが、少しだけ身を乗り出した。

 

「澪」

 

 澪は端末を持つ。

 

「おはよう」

 

 さっき言ったよ。

 

「もう一回」

 

 澪は少し笑って、文字を書く。

 

 おはよう、エンデ。

 

 エンデは、それを見て満足そうに頷いた。

 

「おはよう、澪」

 

 そう言ってから、エンデは澪の喉に貼られた星とイルカの絆創膏を、そっと指で押さえた。強くはない。痛くないように。ただ、そこにあることを確かめるように。

 

「守ってる」

 

 エンデは小さく言った。

 

「澪の歌、ここにある。だから、守ってる」

 

 痛みの上に、星とイルカがいる。エンデの小さな祈り。それだけで、目を覚ましたばかりの白い医療区画が、ほんの少しだけ、帰ってきてもいい場所のように思えた。

 

 しばらくして、エンデはまた自分の足を見た。

 喉の絆創膏を守るように箱を抱えたまま、裸足の指を少し動かす。澪は端末に書いた。

 

 足、痛い?


「痛くない」

 

 エンデは言った。

 

「でも、変」


 何が?

 

「靴、ない」

 

 澪は瞬きした。靴。その言葉で、すぐに思い出した。

 青織が買ってくれたスニーカー。

 

 小さな子供用の、マジックテープで留めるものだった。紐を結ぶことをまだ知らないエンデでも、自分で履けるようにと、青織が無言で選んだ。


 あの時、エンデはマジックテープを何度も剥がしては留め、びりびりという音に少しだけ驚いていた。

 青織は、似合っているとも、買ってやったとも、余計なことは何も言わなかった。

 

 ただ、「歩くなら必要だ」とだけ言った。

 そのスニーカーは、今どこにあるのだろう。

 

 中央観測槽まで来る間に、濡れて、汚れて、もしかすると壊れてしまったかもしれない。白鯨の拘束装置に引き剥がされかけた時、エンデの身体ごと薄くなっていた。


 靴だけが現実に残っていたのか、それとも一緒にどこかへ引っ張られかけたのか、澪には思い出せなかった。

 澪は端末に書いた。青織さんに買ってもらったスニーカー?

 エンデは頷いた。

 

「マジックテープ」

 

 うん。

 

「びりびりの」

 

 澪は少し笑った。そう。びりびりの。エンデは真剣な顔で、自分の裸足を見つめる。

 

「あれ、いる」

 

 澪は頷いた。必要なものがある。それは、生きていくということだ。

 

 歌でも、扉でも、境界でもなく、ただ床を歩くための靴が必要になる。硬い床から足を守るために。知らない場所を、誰かと一緒に歩くために。

 

 エンデにとって、それはもうただの支給品ではなかった。

 青織が選んだスニーカー。こちら側を歩くために、最初にもらったもの。澪は端末に書いた。

 

 探してもらおう。エンデは少し安心したように頷いた。

 

「洗う?」

 

 汚れてたら。

 

「破れてたら?」

 

 直せるか聞こう。

 

「なくなってたら?」

 

 澪はそこで少し迷った。なくなっていたら、新しいものを用意すればいい。そう書くのは簡単だった。けれど、エンデはたぶん新しい靴が欲しいのではない。あのスニーカーが欲しいのだ。


 だから、澪はこう書いた。

 まず、探す。エンデはじっと画面を見た。それから、小さく頷いた。

 

「まず、探す」

 

 その時、カーテンが軽く叩かれた。

 

「起きてる?」

 

 紫乃の声だった。

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