残波
成海は、担架に乗せられる直前に姿を消した。
誰も、その瞬間を見ていなかった。紫乃が医療班に包帯を要求し、伊坂が白鯨隊員の拘束を確認し、久我が上層部と通信で怒鳴り合っている、そのわずかな隙だった。
気づいた時には、担架の上には血のついた上着だけが残されていた。
「成海?」
紫乃が振り返る。返事はなかった。
ただ、崩れかけた搬送室の隅、外へ続く資材搬入口の扉が、わずかに揺れていた。夜風がそこから入り込み、床に落ちた紙片をかすかに動かしている。伊坂が目を細める。
「逃げましたね」
「逃げたって、あの状態で?」
「逃げるでしょう。あれはそういう人種です」
紫乃は一瞬、怒ろうとした。けれど、すぐに言葉を失った。
扉の向こうに、かすかな血の跡が続いている。だが、それは長くは続いていなかった。数歩分だけ床を汚し、あとは雨に紛れるように消えている。
成海は、施設の外に出ていた。東京湾から吹く夜風は、塩と鉄と雨の匂いを含んでいる。
空にはまだ裂け目の名残が薄く揺れていたが、黒い海はもう空から垂れてこない。遠くで救急車両の灯が回り、管理局のヘリの音が低く響いている。
成海は壁にもたれ、貫かれた掌をだらりと下げて笑った。
「痛ってえ〜」
誰に聞かせるでもない声だった。
血は止まりきっていない。白鯨の拘束装置に触れた腕は、まだ痺れている。皮膚の下を黒い文字が泳ぎ、時々、思い出したように青白く光った。
医療班に行けば、処置は受けられる。伊坂に見つかれば、拘束される。紫乃に見つかれば、怒鳴られる。
そういう生ぬるい場所に居続けるのは御免だった。
成海は、雨に濡れた東京湾の方へ歩いた。ふらふらと、酔っているような足取りだった。
実際、身体はもうまともではない。意識もところどころ薄い。けれど、足だけは勝手に動いた。
海が見える場所まで来ると、成海は柵に片肘を預けた。黒い海ではない。ただの夜の海だ。そう思った瞬間、胸の奥で、ひどく遠い感覚が疼いた。
あの時のことを思い出す。まだ青織も、澪も、エンデも、今ほど近くにはいなかった頃。成海だけが知っている、誰にも報告しなかった遭遇。
胎児のような、形になりきらない境界個体。言葉はなかった。名前もなかった。人間の子供のようでもあり、魚の卵のようでもあり、ただ脈打つ願いの塊のようでもあった。
生きたい。
それだけが、成海の中に流れ込んできた。
声ではない。
言葉でもない。
けれど、あまりにも強かった。
成海はその時、困った。笑うしかないくらい、困った。白鯨に売れば、高くついたかもしれない。
管理局に引き渡せば、報告書の上では正解だったのかもしれない。
捕まえて、保存して、調べて、数字にして、名前のないまま扱えば、もっと多くのことが分かったのかもしれない。
でも、成海はそうしなかった。海へ流した。
生きたいと願っているものを、誰かの棚に置きたくなかった。
その時は、自分でも理由が分からなかった。ただ、そうするしかないと思った。らしくないことをしたと思った。あとで何度も笑った。馬鹿だな、と自分で自分に言った。
それでも、今になって分かる。澪がエンデの名前を呼んだ時。白鯨が、子供を個体と呼んだ時。青織が、アオの残響を見て銃を下ろさなかった時。伊坂が、遅すぎたと言いながら前に立った時。
あの小さな境界個体の、言葉にならなかった共鳴が、成海の胸の奥でまた脈打っていた。
「なんであの時おれは海に捨てずに、白鯨に売らなかったんだろうなあ」
成海は、しみじみと言った。
夜の海は答えなかった。ただ、波が堤防に当たって、小さく砕けた。
成海は笑った。
「ぬりぃんだわ。全部さあ……」
声には、いつもの軽さがあった。けれど、その奥に少しだけ別のものが混ざっていた。後悔ではない。善意でもない。もっと曖昧で、もっと扱いにくいもの。
たぶん、彼はそれを最後まで名前にしない。名前にすれば、責任が生まれる。
責任が生まれれば、どこかに留まらなければならなくなる。成海は、そういうものから逃げるのが上手い男だった。
背後から足音がした。
「成海」
紫乃の声だった。成海は振り返らなかった。
「こういう時って普通はさ。放っておいてあげて探さないのが味なんだよ」
「あっそ。柄にもなく感傷に浸りたいところごめんね。でも血の跡、雑すぎ」
「ミステリの犯人にはなれないねぇなぁ。紫乃さ今からでも岸壁まで行って俺を追い詰めてよ」
「私は探偵でも刑事でもないってば。早く戻って。治療しないと本当にまずい」
「やだね」
「成海」
「紫乃」
成海は、そこでようやく少しだけ振り返った。
雨で濡れた前髪の奥から、いつものように笑っている。けれど顔色は白く、唇には血の気がない。
「俺、捕まると喋りすぎるからさ」
「今さら何を」
「ぬるいとこに居続けるのは性に合わねぇんだわ」
紫乃は黙った。成海は肩をすくめる。
「青織くんには澪ちゃんとエンデを守らせて、伊坂さんには偉い人を睨ませて、久我さんには胃を壊してもらって。紫乃ちゃんは本を抱えて怒ってればいい」
「私は?」
「だから怒る係」
「ふざけないで」
「ふざけてるうちに行くわ」
紫乃が一歩踏み出す。成海はそれより先に、柵を越えた。
「成海!」
海へ落ちたわけではなかった。柵の向こうには、施設の外周に続く細い点検通路がある。成海はそこへ軽く着地し、よろめきながらも歩き出した。
「死なないでよ!」
紫乃が叫んだ。成海は片手をひらひら振った。
「死んだら化けて出るから安心して」
「全然安心できない!」
「じゃあ、生きとく」
その声は、雨と波音に半分ほどかき消された。
成海の背中は、すぐに夜の中へ紛れていった。管理局の照明が届かない場所へ。白鯨の拘束が届かない場所へ。誰にも報告書を書かせない場所へ。
紫乃はしばらく、その場に立ち尽くしていた。追いかければ、追いつけたかもしれない。けれど、追いついても連れ戻せる気はしなかった。
成海は逃げた。
でも、見捨てたわけではない。そんな厄介な退場の仕方をしていった。
紫乃は濡れた髪を乱暴に払い、低く呟いた。
「ほんと、最低」
その声には怒りがあった。
けれど、ほんの少しだけ、泣きそうな響きも混ざっていた。
遠くで、成海の笑い声が一度だけ聞こえた気がした。
その後には、ただ東京湾の波音だけが残った。




