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名の回帰

 白鯨の拘束装置が、内側から弾ける。爆発というほど大きなものではなかった。 


白い泡と青白い液体が床に散り、焦げた匂いが広がる。円環はぐにゃりと曲がり、橋の下へ落ちていった。

 

 床下の駆動音が止まる。白鯨隊員たちは、全員がその場に倒れていた。動く者はいない。

 けれど、久我の部隊が次々に駆け寄り、脈を確認し、搬送を始めている。

 

『白鯨隊員、生存確認。意識混濁、境界負荷あり』

『搬送しろ。記録も取れ』

『上層部への報告は』

 

『俺がする』

 

 久我の声は疲れていた。

 

『ここにいる全員の名前を記録しろ。白鯨も、管理局も、民間人も、漂流個体もだ。番号だけで処理するな』

 

 その言葉に、澪は顔を上げた。

 久我の声は通信越しで、姿は見えない。それでも、その言葉がこの場に落ちた意味は分かった。

 白鯨の黒スーツの男が、低く笑った。

 

「甘いな、久我指揮代理」

 

『そうかもな』

 

 久我は答えた。

 

『だが、お前たちのやり方でアオは救えなかった。なら、別のやり方を試す』

 

 通信の向こうが騒がしくなる。上層部からの命令。別回線からの怒号。誰かが久我を止めようとしている声。だが、久我は続けた。

 

『中央観測槽は放棄。全員撤収。白鯨の拘束は継続。青織零、伊坂執行官、紫乃、成海、九条澪、エンデを最優先で搬送しろ』

 

 青織が低く言った。

 

「俺はまだ」

 

 伊坂が遮った。

 

「搬送対象です」

 

「まだ何も終わっていない」

 

「だから生きてください」

 

 青織は言葉を失った。

 伊坂は、青織の腕を支えたまま続ける。

 

「扉は閉じました。ですが、白鯨は残っています。管理局の上層部も残っています。アオの記録も、すべて失われたわけではありません。あなたには、まだ報告することがあります」

 

「報告か」

 

「ええ」

 

「面倒だな」

 

「生きている人間の仕事です」

 

 青織は、かすかに笑った。

 

「なら、仕方ない」

 

 澪はエンデの手を握ったまま、閉じた扉を見た。

 扉の合わせ目に残った白い線は、先ほどより細くなっていた。今にも消えそうで、それでも消えない。


 そこから聞こえるものは、もう深度存在の叫びではなかった。アオの歌だけでもなかった。

 

 遠い海の音。

 忘れないで、と言った声。忘れない、と答えた自分の声。それらが混ざり、胸の奥で静かに残っている。

 

 澪は思った。終わったのではない。閉じただけだ。

 閉じたからこそ、ここから考えなければならない。

 エンデをどう守るのか。アオのことをどう伝えるのか。

 

 白鯨が奪おうとしたものを、管理局がこれからどう扱うのか。

 渋谷に残った傷を、東京湾に沈んだものを、母に送れなかった返信を、明日の朝に来るかもしれない模試の結果を。

 

 そのすべてが、まだ澪を待っている。急に、現実が戻ってきた。身体が痛い。喉が痛い。制服は濡れ、手は震え、頬には涙が乾いている。


 世界を救ったという実感よりも、ただ疲れたという感覚のほうがずっと強かった。

 エンデが隣で、小さく息をした。

 

「澪」

 

「エンデ」

 

 澪は慌てて顔を覗き込んだ。

 エンデの身体は、まだ少し薄い。けれど、消えてはいなかった。指先は透けかけているものの、手の温度はある。澪はその手を両手で握りしめた。

 

「いる?」

 

「いる」

 

「本当に?」

 

「いる」

 

「嘘じゃない?」

 

「エンデ、嘘、あまり得意じゃない」

 

 澪は泣いた。今度は、歌にしなかった。

 ただ、泣いた。エンデは困ったように澪を見て、それからゆっくりと空いている手を伸ばした。


 澪の頭に触れる。撫でるというより、置くだけの、不器用な仕草だった。

 

「澪、うるさい」

 

「ひどい」

 

「でも、いい」

 

「何が」

 

「生きてる音」

 

 澪は余計に泣いた。

 エンデは少し困った顔をしたまま、手を離さなかった。

 

 青織が近づいてきた。足取りは重い。コートは裂け、腕には青白い亀裂が走っている。けれど、その目は先ほどより静かだった。彼は澪とエンデの前で膝をつき、扉を見た。

 

 閉じた黒い扉。その合わせ目に残った、細い白い光。青織は長い間、それを見つめていた。

 

「アオは」


 澪は涙を拭いながら言った。

 

「最後まで、閉じる側にいたよ」

 

 青織は何も言わなかった。

 

 澪は続けた。

 

「青織を見てた」

 

 青織の表情が、わずかに歪んだ。


「何か、言ってたか」

 

 澪は迷った。

 言葉ではなかった。翻訳すれば、きっと別のものになってしまう。けれど、何も伝えないのも違うと思った。

 

「たぶん」

 

 澪はゆっくりと言った。

 

「もういいんだよ、って」

 

 青織は目を閉じた。長い沈黙だった。

 

 崩れかけた中央観測槽の中で、白鯨が拘束され、負傷者が運ばれ、紫乃が成海の腕の術式を剥がそうと罵声を飛ばしている。そのすべての音の中で、青織だけが海の底に立っているように見えた。やがて彼は、低く息を吐いた。

 

「そうか」

 

 それだけだった。けれど、その一言で、何かが終わったのだと澪には分かった。許されたわけではない。罪が消えたわけでもない。

 

 ただ、青織がずっと掴んでいた刃のような時間が、ほんの少しだけ手から離れた。紫乃が叫んだ。

 

「ちょっと、青織! 感傷に浸るの後! 成海が本当にまずい!」

 

「おい、本当にって何だよ。今までもまずかったでしょ」

 

「口が動いてるうちは平気かなって」

 

「ひどくない?」

 

「ひどいのはあんたの血の量!」

 

 青織は目を開け、立ち上がろうとした。その瞬間、彼の膝が折れた。

 

「青織さん!」

 

 澪が手を伸ばすより早く、伊坂が青織の腕を支えた。青織は一瞬だけ驚いたように彼女を見た。

 

「……伊坂」

 

「あなたも搬送対象です」

 

「まだ動ける」

 

「動けていません」

 

「九条たちは」

 

「生きています」

 

 伊坂は淡々と言った。

 

「だから、あなたも生きてください。今死なれると、報告書が面倒です」

 

 青織はかすかに笑った。


「本音か」 

 

「半分は」

 

「残りは」

 

 伊坂は答えなかった。ただ、青織の腕を離さなかった。中央観測槽の奥で、閉じた扉の白い線が静かに光っている。澪はそれを見た。


 そこから、かすかな音が聞こえる気がした。歌ではない。呼び声でもない。

 

 ただ、遠い海の底で、誰かがまだ眠っている音。

 澪は胸に手を当てた。扉は閉じた。でも、声は残った。

 

 白鯨は、最後までそれを理解しなかった。声を資源と呼び、名を識別子と呼び、子供を個体と呼んだ。だから奪おうとして、失敗した。

 

 けれど、失敗したからといって、彼らが消えるわけではない。

 

 白鯨の背後には、まだ誰かがいる。管理局の上層部にも、まだこの場を見ていない人間たちがいる。扉を閉じたことが、彼らにとって救いになるのか、失敗になるのか、澪には分からなかった。

 

 ただ、ひとつだけ分かることがあった。エンデを、もう物として渡してはいけない。アオの歌を、もう資料という言葉だけで閉じ込めてはいけない。

 

 澪はエンデの手を握ったまま、閉じた扉へ小さく言った。

 

「忘れない」

 

 白い線が、一度だけ淡く瞬いた。返事のようだった。

 そして、中央観測槽に、ようやく人間たちの足音が戻ってきた。


 救助隊の足音。負傷者を運ぶ声。白鯨を拘束する命令。久我が上層部と怒鳴り合う通信。紫乃が成海を叱る声。伊坂が青織を支える衣擦れの音。


 その全部が、ひどく騒がしく、ひどく現実的で、澪にはなぜか泣きたくなるほど懐かしかった。

 

 世界は、まだ壊れている。でも、完全には壊れなかった。そのことを確かめるように、澪はもう一度だけエンデの名前を呼んだ。

 

「エンデ」

 

 エンデは、少し眠そうな目で澪を見た。

 

「うん」

 

「帰ろう」

 

 エンデは首を傾げた。

 

「どこへ?」

 

 澪は答えようとして、言葉に詰まった。家。学校。渋谷。東京。母のいる場所。


 まだ戻れるか分からない日常。どれも正しくて、どれも少し違った。

 

 だから澪は、今言える言葉だけを選んだ。

 

「ここじゃないところ」

 

 エンデは、少し考えた。それから、小さく頷いた。

 

「じゃあ、行く」

 

 澪はその手を握った。閉じた扉の向こうで、遠い海がもう一度だけ鳴った。

 

 それは引き止める声ではなかった。見送る声でもなかった。ただ、そこにあるものが、そこにあるまま沈んでいく音だった。

 

 澪は振り返らなかった。振り返れば、また歌ってしまいそうだったから。

 

 だから、エンデの手を握って、崩れかけた橋の上を一歩進んだ。


 その先に何があるのかは、まだ分からない。

 けれど、完結へ向かう物語は、ここからようやく、閉じた扉のこちら側で始まるのだと思った。

 

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