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漁の残火

 終えた瞬間、身体から力が抜けた。膝が崩れる。

 

 エンデが支えようとしたが、エンデの身体も薄く、二人ともそのまま橋の上へ倒れ込んだ。

 

 青織の固定糸が消える。中央観測槽が大きく傾いた。

 だが、もう黒い海は膨れ上がらなかった。

 

 扉の奥は沈黙している。観測柱の警告灯が赤から橙へ、橙から白へ変わっていく。


 崩落は止まらない。けれど、それは侵食による崩壊ではなく、ただ壊れた施設が壊れているだけだった。

 久我の通信が入る。

 

『全隊、負傷者を搬送しろ。白鯨武装班は武装解除。抵抗すれば拘束。中央観測槽は放棄する』

 

 誰かが応答した。

 

『指揮代理、上層部から再接続要求が来ています』

 

『切れ』

 

『ですが』

 

『今ここにいない上層部より、今ここで倒れている人間を優先しろ』

 

 通信が一瞬沈黙した。

 

『了解』

 

 管理局部隊が動き始める。白鯨隊員たちは、まだ命令を待っているように硬直していた。

 伊坂が黒スーツの男の前に立ち、彼の端末を踏み砕いた。

 

「協定は終わりです」

 

 男は痛みに顔を歪めながら、それでも伊坂を睨んだ。

 

「あなたに、その権限はない」

 

「ええ」

 

 伊坂は答えた。

 

「ですが、あなたにもありません」

 

 男は笑った。声は掠れていた。撃たれた腕を押さえ、膝をついたまま、それでも彼は笑った。

 

「終わりだと、本気で思っているのですか」

 

 伊坂の目が細くなる。

 

「何をしました」

 

「白鯨は、失敗を前提に動く」

 

 男は、閉じた扉ではなく、澪の隣で倒れているエンデを見た。

 

「扉が閉じれば、九条澪、共鳴核の回収は難しくなる。アオ感情記録の大半も失われる。ならば、残ったものを確保するだけです」

 

 澪はエンデの手を握った。その手は、まだ薄かった。温度はある。

 けれど、指先の輪郭が不安定に揺れている。

 扉を閉じるために力を使い果たしたせいで、エンデは今にも光の粒になってほどけそうだった。

 

「残ったものって」

 

 澪の声が震えた。男は答えた。

 

「漂流個体エンデです」

 

 その瞬間、中央観測槽の床下で、低い駆動音がした。

 白鯨隊員たちの装備が、一斉に光り始める。


 倒れていた隊員の背中から白い線が伸び、床へ刺さった。壁の中から、白い円環状の拘束装置がせり上がる。


 先ほど成海が壊した保存槽よりも小さい。人間を閉じ込めるためではなく、エンデだけを包み込むための大きさだった。

 

 紫乃が青ざめた。

 

「あれ……まだ残ってたの」

 

 青織が歯を食いしばる。

 

「閉門後を狙っていたのか」

 

「ええ」

 

 黒スーツの男は、苦痛に顔を歪めながらも言った。

 

「扉を閉じた直後、漂流個体の実体安定度は大きく下がる。その瞬間なら、澪さんとの共鳴を切り離せる」

 

 澪は息を呑んだ。エンデが小さく顔を上げた。

 

「澪」

 

「大丈夫」

 

 澪はそう言った。

 けれど、大丈夫ではないことは自分が一番分かっていた。歌い終えた身体には、もう力が残っていない。


 立つことさえ難しい。青織も限界だった。伊坂も負傷している。成海は血を流しすぎている。紫乃は本を握る手が震えていた。

 

 白鯨は、その一瞬を待っていた。

 世界が救われたように見えた直後。誰もが息をついた直後。

 そこを狙って、エンデだけを奪う。

 

 白い拘束装置が、エンデへ向かって細い光を伸ばした。澪はエンデを抱きしめた。

 

「やめて!」

 

 光は澪の腕をすり抜けた。澪には触れない。

 エンデだけを狙っている。エンデの輪郭が引っ張られる。身体の端が虹色の粒になってほどけ、拘束装置のほうへ吸われていく。エンデが苦しそうに息を詰めた。

 

「エンデ!」

 

「澪、手、離して」

 

「離さない!」

 

「澪まで、落ちる」

 

「落ちても離さない!」

 

「だめ」

 

 エンデは、困ったような顔をした。

 

「澪は、こっちにいる」

 

「エンデもこっちにいる!」

 

 澪は叫んだ。その声に、閉じた扉の白い線がかすかに瞬いた。紫乃がそれを見た。

 

「澪ちゃん、今の声!」

 

「何!」

 

「扉が反応した!」

 

「でも、もう歌えない!」

 

「歌じゃなくていい!」

 

 紫乃は焦げた門歌断章集を開いた。

 ページはほとんど焼け、文字も欠けている。それでも、彼女は残った文字を必死に追った。

 

「たぶん、名を呼べばいい!」

 

「名前?」

 

「そう! エンデを漂流個体としてじゃなく、エンデとしてこっちに留めるの!」

 

 白鯨の男が吐き捨てた。

 

「くだらない。名付けで固定できるなら、管理局も白鯨も不要です」

 

「不要だったんじゃないですか」

 

 紫乃が言い返した。

 

「少なくとも、あなたたちがやったことの半分くらいは」

 

 男の顔が歪む。成海が、血まみれの手で床を掴んだ。

 

「いいねぇ、紫乃。今のはちょっと好き」

 

「黙って。動ける?」

 

「無理」

 

「じゃあ黙って」

 

「でも、邪魔くらいはできる」

 

 成海は震える指を、白鯨の拘束装置へ向けた。

 黒い線が床を走る。だが、拘束装置は強かった。


 白鯨の隊員たちの装備から力を吸い上げ、何重にも守られている。黒い線は弾かれ、成海の指先から血が散った。

 

「くっそ、趣味悪いな……隊員まで使ってんのかよ」

 

 伊坂の目が鋭くなる。

 

「隊員を装置に繋いだのですか」

 

 黒スーツの男は答えなかった。それだけで十分だった。伊坂は撃った。

 

 白い閃光が、隊員の背中から伸びる線を一本切った。隊員が床に崩れ落ちる。死んではいない。だが、意識を失ったように動かなくなった。

 

「医療班!」

 

 久我の通信が飛ぶ。

 

『白鯨隊員も搬送しろ! 拘束より先だ!』

 

『ですが、白鯨は敵対中です』

 

『敵対していても人間だ。運べ!』

 

『了解!』

 

 管理局隊員たちが走る。白鯨の拘束装置を止めながら、同時に白鯨隊員を助けなければならない。中央観測槽は混乱に包まれた。

 

 その隙にも、エンデの身体は引き剥がされていく。

 澪はエンデを抱きしめ、必死に名前を呼んだ。

 

「エンデ」

 

 白い線がまた光る。

 

「エンデ!」

 

 閉じた扉が震えた。

 

「エンデ、こっちにいて!」

 

 エンデの身体が、一瞬だけ重くなる。

 澪の腕に、たしかな感触が戻った。けれど、拘束装置の力はまだ強い。エンデの背中から光の糸が引き剥がされ、白い円環へ吸い込まれていく。


「澪」

 

 エンデの声が遠くなる。

 

「名前、聞こえる」

 

「じゃあ戻って!」

 

「戻りたい」

 

「戻って!」


「でも、引っ張られる」

 

 澪は歯を食いしばった。

 どうすればいい。歌はもう出ない。喉は焼け、胸は痛く、身体は動かない。


 けれど、声だけはまだ残っている。歌ではない。祈りでもない。ただ、呼ぶ声。

 

 澪は、エンデを初めて見つけた時のことを思い出した。渋谷第十三駅。逆流する雨。存在しないホーム。怯えたように、けれどどこか空っぽの目をした、青い髪の子供――切れ端。そう呼ばれていたもの。

 

 でも、澪はそれを名前にしたくなかった。

 

 終わり。エンデ――

 

 終わりにいるからこそ、そこから先へ一緒に歩けるように。

 澪は、残った力をすべて込めて叫んだ。

 

「エンデ!」


 閉じた扉の白い線が、強く光った。

 その光は、扉を開けなかった。黒い海を呼び戻しもしなかった。ただ、澪の声を反射するように、観測槽全体へ広がった。

 

 エンデ——名前が、何度も響く。

 

 それは術式ではなかった。新しい技術でもなかった。ただ、澪が呼んだ名前だった。


 けれど、この世界では、言葉が現実に触れる。感情が雨を降らせ、歌が扉を閉じる。ならば、名前もまた、誰かをこちら側へ留めることができるのかもしれなかった。

 紫乃が本を握りしめて叫ぶ。

 

「“名は、岸辺に残る”!」

 

 門歌断章集の焦げたページから、残り少ない文字が舞い上がる。黒い墨のような文字が、エンデの周囲を回り、白鯨の拘束装置が伸ばした光に絡みついた。

 成海の黒い線が、そこへ重なる。

 

「今なら入る!」

 

 成海が歯を食いしばった。

 

「白鯨さん、残念。そいつ、もう漂流してないんだわ」

 

 黒い線が、拘束装置の内側へ潜り込む。

 

「帰る場所、できちゃってるから」

 

 拘束装置が悲鳴のような音を立てた。青織が観測銃を構える。だが、腕が震え、銃口が定まらない。伊坂が彼の腕に手を添えた。

 

「支えます」

 

「撃てるのか」

 

「あなたが撃つのでしょう」

 

「そうだったな」

 

 二人の視線が、白い拘束装置の中心へ向く。

 青織の波紋と、伊坂の白い閃光が同時に走った。

 

 エンデを縛っていた光が、一本、二本、三本と砕ける。拘束装置が大きく傾いた。白鯨隊員の装備から伸びていた線が次々に焼き切れ、隊員たちは床へ崩れ落ちる。

 

 死んではいない。だが、ほとんど意識を失っていた。白鯨は、自分たちの隊員さえ道具にしていた。澪はそれを見て、胸の奥が冷たくなった。

 

 アオも。エンデも。白鯨の隊員たちでさえ。彼らにとっては、何かを守るための道具でしかないのだ。

 白鯨の黒スーツの男が叫んだ。

 

「止めるな! 漂流個体を確保しろ! それが残れば、まだ研究は続けられる!」

 

 伊坂は男を見た。

 

「研究」

 

 短い声だった。だが、その一言に、今まで伊坂が押し殺してきた怒りが滲んでいた。

 

「あなたたちは、まだそれを言うのですか」

 

「感情で判断するな、伊坂執行官!」

 

「感情を切り捨てた結果が、これです」

 

 伊坂は男の足元を撃った。床が砕け、男は体勢を崩す。管理局隊員が駆け寄り、男を押さえつけた。

 

「拘束してください」

 

「了解」

 

「伊坂、あなたは後悔する!」

 

 男は叫んだ。

 

「扉は閉じた。だが、侵食は終わっていない! 次に何かが起きた時、お前たちは今日失った資料を悔やむ!」

 

 その言葉に、澪は一瞬だけ息を止めた。

 それは、完全な嘘ではなかった。扉を閉じたからといって、すべての異常が消えるわけではない。


 渋谷も、東京湾も、感情気象も、灰域も、これまで侵食されたものすべてが一夜で元に戻るわけではない。エンデの存在も、澪の胸の奥に残った歌も、これからどうなるか分からない。

 

 白鯨の男は、それを突いている。世界を守るためには、どんな犠牲も必要だと。

 

 人を資源と呼んでも、声を保存しても、名前を消しても、未来のためなら許されるのだと。

 澪は、エンデを抱きしめたまま、男を見た。

 

「それでも」

 

 声は掠れていた。けれど、届いた。

 

「エンデを渡しません」

 

 男が澪を睨む。

 

「あなたに、その判断はできない」

 

「できます」

 

 澪は震えながら言った。

 

「エンデは、私の隣にいるから」

 

 エンデの身体が、ずしりと重くなった。

 

 澪の腕の中に、現実の重さが戻る。透けていた指先が、まだ少し薄いままではあるけれど、形を取り戻した。エンデが小さく息を吸う。

 

「澪」

 

「いる?」

 

「いる」

 

「もっと、いて」

 

「いる」

 

 その一言で、最後の拘束光が砕けた。

 

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