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“向こう側”

 

 最初に崩れたのは、足場だった。

 

 白鯨部隊が中央観測槽へ突入した瞬間、橋の下を流れていた黒い海水が、まるで生き物の背骨のように反り上がった。水ではない。


 影でもない。文字と水と感情が混ざったものが、橋の側面を叩き、鉄骨を軋ませる。

 

 澪の足元が大きく揺れた。

 

「澪!」

 

 エンデが手を引く。

 直後、青織の境界固定が二人の周囲を縫い留めた。青い糸が空間に走り、崩れかけた橋の輪郭をかろうじて現実へ固定する。

 

「動くな。固定が外れる」

 

 青織の声は鋭かった。だが彼自身も余裕はなかった。観測銃の波紋は澪とエンデを守るために張られている。

白鯨部隊を撃つには、固定を一部解かなければならない。

 

 その隙を、白鯨は逃さなかった。白に近い防護装束をまとった部隊が、左右の連絡橋から散開する。


 管理局の黒い装備と違い、彼らの装備は妙に清潔だった。医療用の隔離服にも、深海調査用の潜水服にも見える。銃口の下には細い針状の装置がついていた。

 

 殺すためではない。回収するための装備。その事実が、澪には銃よりも恐ろしく見えた。

 

『共鳴核及び歌唱個体、確保準備』

『漂流個体、位相拘束準備』

『青織零、妨害因子として排除』

 

 無機質な通信音声が、中央観測槽の天井に反響する。

 伊坂が一歩前へ出た。

 

「排除対象は、あなたたちです」

 

 彼女は迷いなく引き金を引いた。白い閃光が走り、先頭の白鯨隊員の拘束装置を撃ち抜く。

 隊員は倒れなかったが、装置から青白い火花が散り、腕ごと痺れたように膝をついた。

 

 続けて二発。

 三発。

 

 伊坂の射撃は、正確だった。

 致命傷を避けながら、装備だけを潰していく。

 冷たい顔のまま、ためらいなく、白鯨の手足を削っていく。紫乃がその横で叫んだ。

 

「澪ちゃん、歌を止めないで!」

 

「でも」

 

「考えながらでいい! 怖がりながらでいい! 止めるとアオの残響がまた前に出る!」

 

 澪は息を吸おうとした。けれど喉が震える。

 周囲では銃声が響き、橋は軋み、黒い海は門の隙間から膨れ上がっている。

 

 そんな中で歌えと言われても、自分の声がどこにあるのか分からなくなりそうだった。エンデが澪の手を握り直す。

 

「澪。短くていい」

 

「短く?」

 

「一音ずつ。エンデ、拾う」

 

 澪はエンデを見た。さっきまでのエンデとは違う。

 

 同じ顔。同じ青い髪。同じ虹色の瞳。けれど、その奥に長い時間があった。

 

 古い海岸。澪と同じ魂を持つ少女。名を与えた人間。


 門歌断章集の始まり。アオへ続く歌の系譜。眠りを破った深度意志。

 

 エンデは、こぼれ落ちた切れ端ではなかった。

 だが、切れ端だと思っていた時間も、嘘ではなかった。澪はそのことが、なぜか分かった。

 

 役割が戻ったからといって、これまでのエンデが消えたわけではない。

 渋谷で迷っていたエンデも、古書店で本を不思議そうに見ていたエンデも、空腹を訴えていたエンデも、全部エンデだ。澪は小さく頷いた。

 

「分かった」

 

 そして、息を吐く。今度の音は、少しだけ届いた。アオの歌がその下で震える。

 エンデの手が、その震えを受け取る。彼の足元から虹色の細い円が広がり、海の底の門へ向かって橋の上を走った。

 

 黒い門の詩句が、また光る。だが同時に、門の奥の影も動いた。巨大な孤独。“向こう側”の深みに生まれた意志。

 

 それはまだ姿を持っていない。顔も、腕も、目もない。ただ、門の隙間からこちらを見る気配だけがある。


 海の奥に沈んだ都市全体が、一つの感情になって睨んでいるようだった。閉じるな。声がした。

 

 それはアオの残響とは違った。もっと大きく、もっと深く、もっと暗い。

 

 閉じるな。

 私たちを、また沈めるのか。

 

 澪の声が詰まった。その瞬間、海の底の門から伸びた黒い水が、澪の足元へ絡みついた。

 

「澪!」

 

 エンデが引き剥がそうとする。

 だが黒い水は、エンデにも触れた。触れた瞬間、彼の身体が薄く透ける。

 

 記憶が戻ったことで、彼は門守として門に近づきすぎている。向こう側の深度意志にとって、エンデは敵であり、同時に回収すべき欠片でもあった。


 澪の頭の中に、声が流れ込む。

 閉じるな。

 お前たちの世界だけが、生き残るのか。

 

 こちらにも、歌があった。

 こちらにも、名があった。

 こちらにも、帰る場所があった。

 その声は、完全な嘘ではなかった。

 

 だから怖かった。

 

 澪の視界に、見知らぬ街が映る。海に沈んだ都市。珊瑚のように白化したビル。水中で揺れる信号機。誰もいない駅のホーム。音楽室の窓辺に置かれた譜面。

 

 そこにも、かつて誰かがいたのだと分かる。生活があった。

 笑い声があった。別れがあった。世界を閉じるということは、その残されたものをもう一度深い海の底へ沈めることなのかもしれない。澪は声を失いかけた。

 

 アオの願い。向こう側の嘆き。自分の願い。全部が絡まって、歌にならなくなる。その時、成海の笑い声がした。

 

「うっわ、出た出た。被害者面」

 

 黒い線が走る。成海が片膝をついたまま、白鯨の制御術式と深度存在の干渉線を同時に引き裂いていた。頬は腫れ、肩から流れる黒い文字は止まっていない。それでも彼は笑っている。

 

「気持ちは分かるよ。閉じ込められて、沈められて、忘れられて。そりゃ恨むわな」

 

 成海は門の奥へ向かって言った。

 

「でもな、だからって子供の歌を書き換えていい理由にはならねぇんだわ」

 

 澪は息を呑む。その言葉に、海の底の門が激しく軋んだ。成海は笑みを深める。

 

「ああ、そこは痛いんだ」

 

 青織が成海を見る。

 

「どういう意味だ」

 

「たぶんねぇ」

 

 成海は指先で空中の黒い線を弾く。

 

「アオの歌、本来は閉じる側だった。けど、何かが噛んでる。閉じる譜の途中に、開くための癖が混ざってる。人間側の観測装置がそこだけ拾ったんだろうね。だから危険個体に見えた」

 

 青織の表情が固まった。

 

「……アオは」

 

「境界を閉じようとしていた――エンデの言い伝えをもとに」

 

 成海はあっさり言った。

 

「なのに、閉じられたくない、境界の“向こう側”の連中が、歌を捻じ曲げた」

 

 中央観測槽が沈黙した。銃声すら、一瞬遠のいたように感じた。青織の顔から、色が消える。紫乃が本を握りしめる。

 

「それ、どこまで分かって言ってるの」

 

「勘」

 

「成海」

 

「でも当たってるだろ」

 

 成海の声が、今度は低くなる。


「例の――俺が海に流した漂流個体……あいつの残響が同じことを言ってる。アオは開けたんじゃない。開けさせられた。閉じようとして、途中で歌を汚された」

 

 海の底の門が唸った。深度存在の黒い水が成海へ襲いかかる。伊坂が撃った。白い閃光が黒い水を断ち、成海の眼前で蒸発させる。

 

「推測で挑発しないでください」

 

「助かった。さんきゅっきゅ〜」

 

「いちいち腹の立つ言い方を……礼は不要です。今のところ、あなたはまだ撃つ価値があります」

 

「褒め言葉?」

 

「違います」

 

 伊坂はそう言いながら、白鯨部隊へもう一発撃ち込んだ。白鯨の隊員たちは怯まない。

 

 後方から新しい装置が持ち込まれる。円環状の拘束器。中央に小さな水槽のようなものがあり、その内部には青白い液体が満ちていた。紫乃が目を見開く。

 

「あれ、境界保存槽……!」

 

 青織が舌打ちする。

 

「白鯨め」

 

 白鯨部隊の通信が響く。

 

『境界個体を保存槽へ移行』

『共鳴核を生体拘束』

『抵抗者は四肢機能停止を許可』

 

 伊坂が冷たく言う。

 

「随分と露骨になりましたね」

 

 白鯨隊員の一人が応答する。

 

『伊坂執行官、あなたの権限は停止されました。以後、あなたを任務妨害者として扱います』

 

「構いません」

 

 伊坂は銃を構える。

 

「私もあなたたちを、白鯨ではなく誘拐犯として扱います」

 

 白い銃火が交差する。橋の上で、現実の戦闘と、歌の儀式と、深度意志の干渉が同時に進んでいた。久我の声が通信に割り込む。

 

『管理局全隊へ。白鯨部隊との協定識別を一時凍結。現時点をもって、中央観測槽内の白鯨武装班を未承認戦闘勢力として扱う』

 

『指揮代理、それは上層部の承認がありません』

 

『上層部の通信は、現在深度汚染の疑いがある』

 

『そんな報告は――』

 

『俺が今作った』


 久我ははっきりと言った。

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