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切れ端

 成海はエンデに思い出すように強く請う。エンデはある日の記憶を垣間見るのだった—

 エンデの瞳に、海ではない景色が映っていた。


 世界のどこか――古い海岸。

 

 まだ境界侵食も、管理局という組織も、

 白鯨という欲望もなかった時代。

 

 岩場に打ち寄せる白い波。夕暮れの光。

 こちら側と向こう側が、今よりずっと薄い膜で触れ合っていた時代。


 幼い姿のエンデが、そこに立っている。

 だが、今のエンデよりも目が古い。子供の顔をした、長い時間の存在。そばには人間がいた。

 

 海辺に座り、歌を書きつけている少女――

 記憶の輪郭は波に洗われるように曖昧で、顔までははっきりしない。ただ、その声だけが残っていた。

 

 澪に似ていた。姿ではなく、魂の響きが似ていた。

 言葉を怖がりながら、それでも言葉へ手を伸ばすところ。


 知らないものを恐れながら、恐れるだけでは終われないところ。

 目の前の異物に名前を与えることで、それを災害でも標本でもなく、ひとつの存在として見ようとするところ。

 その人間は、エンデを見て言った。

 

『あはは、名前が切れ端?』

 

 幼いエンデは、意味が分からず首を傾げている。

 

『“大きなものから零れて、それでも残った大切な部分”が切れ端になっちゃったんだ』

 

『じゃあ私からも意味をあげるね――終わりに立つもの。けれど、終わらせるだけじゃないもの。終わりの向こうへ、声を残すもの』

 

 波が砕ける。記憶の中のその人は、文字を書いた。

 

『エンデ』

 

 その名を、初めて与えた。

 エンデはその音を聞いていた。

 遠い昔に。澪に出会うよりもずっと前に。

 

 そして、渋谷で澪が同じ名を呼んだ時、自分がなぜあんなにも胸を震わせたのか、今になってようやく分かった。

 

 澪が新しい名を付けたのではない。

 澪は、失われた名前をもう一度見つけたのだ。

 あの人と同じ響きで。同じ魂の奥行きで。

 

 同じように、エンデを災害ではなく、エンデとして呼んだ。

 歌は、橋だった。言葉は、針だった。

 

 二つの世界が混ざり合わないように、けれど完全に断ち切られないように、細い縫い目を作るものだった。


 エンデはその歌を知っていた。閉じるだけではない。

 開くためでもない。混ざらないために。それでも届くために。


 声だけが通る細い境界を残すために。その歌を、自分は作った。

 

 いや、人間と一緒に作った。

 

 門歌断章集。海底閉門譜。

 

 それは後の時代に本となったが、始まりは本ではなかった。海辺の風と、文字と、誰かの声だった。

 

 そして、最初に自分の名を呼んだ人間の、澪と同じ魂の震えだった。

 

 記憶がさらに流れ込む。エンデは未来を見ていた。

 二つの世界が、いつか再び近づきすぎること。


 向こう側の深みに、生き残ろうとする大きな意志が生まれること。

 人間が観測し、分類し、封鎖し、やがて誤って境界の門を傷つけること。

 

 そして、自分の子孫にあたる歌う者が、その時代に生まれること。

 

 アオ。

 

 まだ名前も姿も知らない遠い子孫。その子に、境界を閉じる歌が届くように。

 その子が人間を敵としてではなく、隣人として見られるように。エンデは自分の力を歌の系譜へ残した。

 

 そして、自分自身は幼い姿のまま眠りについた。然るべき時、アオと共に目覚めるために。

 

 アオが歌い、自分が門を守り、二つの世界を閉じながら、声だけを残すために。

 

 だが、眠りは破られた。暗い海の底から伸びたものが、エンデの夢に触れた。

 向こう側の深度意志。生き延びたい世界の底に生まれた、巨大な孤独。それはエンデを殺さなかった。

 

 殺せなかった。代わりに、記憶を削った。門守が門守であることを忘れるように。閉じる歌の最後の仕組みを失うように。エンデは眠りから落ちた。

 

 時代も、目的も、名前の意味も分からないまま、境界から漂流した()()()――

 自分はそう呼ばれていた。そう思っていた。そして、渋谷で澪に出会った。

 

「……エンデ」

 

 澪の声が、遠くから聞こえた。いや、近い。

 エンデは中央観測槽へ戻ってくる。

 澪はまだアオの残響に呑まれかけていた。


 瞳の色が揺れ、唇がアオの歌をなぞりそうになっている。扉はさらに開き、黒い海の向こうから巨大な影が身を起こそうとしていた。

 

 成海は片膝をついていた。肩から黒い文字のような血を流し、苦しそうに笑っている。

 

「ほら」

 

 彼は言った。

 

「やっぱり、忘れてた」

 

 青織が成海へ殴りかかった。拳が成海の頬を打つ。

成海は避けなかった。そのまま床へ倒れ、咳き込むように笑う。

 

「痛ってぇ……まあ、これは殴られて当然か」

 

「九条を危険に晒した」

 

 青織の声は低かった。

 

「殺されても文句は言えないぞ」

 

「言わねぇよ」

 

 成海は床に手をついて起き上がる。

 

「でも、今は俺を殺してる場合じゃない」

 

 伊坂が冷たく言う。

 

「説明も無しに決行とは、結果うまくいかなければ殺していましたよ」

 

「だろうな」

 

「あなたの賭けで、彼女が壊れる可能性もあった」

 

「そうねぇ」

 

 成海は笑った。その笑みは、ひどく疲れていた。

 

「俺っていっつもこんな有能なのに損な役回りなんだよねぇ」

 

 紫乃は何も言わなかった。ただ、成海を見る目が少しだけ悲しそうだった。エンデは澪の両手を握った。

 

「澪」

 

 澪は反応しない。アオの残響が強すぎる。エンデは息を吸った。そして、初めてその言葉を自分のものとして言った。

 

「エンデは、門守」

 

 中央観測槽が震えた。澪の瞳がわずかに動く。

 

「門守は、歌を届けるだけじゃない」

 

 エンデの声は、以前より少し低く聞こえた。幼い声の奥に、長い時間が重なっていた。

 

「門を閉じる場所を知ってる。閉じた後に、何を残すか知ってる」

 

 澪の唇が震える。

 

「……エンデ」

 

「澪、聞いて」

 

 エンデは澪の額に、自分の額をそっと合わせた。

 

「完全に閉じたら、声も消える。開いたままだと、世界が混ざる。だから、細い道を残す」

 

「細い、道……?」

 

「歌だけが通る道。言葉だけが届く道。触れない。でも、聞こえる」

 

 澪の胸の奥で、アオの残響が揺れた。その矛盾が、初めて矛盾ではなくなった。

 

 閉じることと、ひとりにしないこと。完全に同じではない。両立できるかもしれない。

 

 扉を閉じる。侵食を止める。二つの世界を混ぜない。

 けれど、歌だけは残す。死んでも消えなかった歌が届いたように。

 別れても、完全には断絶しないように。

 澪の中で、アオの願いと自分の願いがようやく重なった。

 

 アオは閉じたかった。澪は繋がりたかった。

 その二つは、敵ではなかった。澪は息を吸った。

 

 今度は、アオの歌に引きずられなかった。アオの残響はまだそこにある。

 

 悲しみも、恐怖も、愛情も、全部ある。けれどそれは澪を塗り潰す波ではなく、澪の声の下で震える低い伴奏になっていた。

 紫乃が本を開く。ページに新しい文字が浮かぶ。

 

「……出た」

 

 彼女は震える声で読み上げる。

 

「“門守、記憶を取り戻す時、閉門譜は第二節へ移る”」


 伊坂が問う。

 

「第二節?」

 

 紫乃はページをめくる。

 そこには、先ほどまで存在しなかった譜面があった。

 

「“閉じよ、されど断つな。隔てよ、されど忘るな。声は海を越え、名は闇に沈まず”」

 

 青織は息を呑んだ。それは、アオの歌の続きではなかった。エンデの記憶が戻ったことで現れた、失われていた閉門譜の後半だった。久我の通信が割り込む。

 

『中央観測槽、反応変化。開門値が低下、しかし接続値は維持』

 

 管理局隊員の声が続く。


『どういうことですか。門が閉じているのに、通信のような反応が残っています』

 

 久我が短く答える。

 

『撃つな。観測を続けろ』

 

 伊坂は銃を下ろさなかったが、澪へ向けることはしなかった。白鯨の通信が割り込む。

 

『伊坂執行官、対象を確保してください。歌唱媒体および門守個体は保存対象へ移行』

 

 伊坂の目が冷える。だが、それは澪やエンデに向けられた冷たさではなかった。

 

『繰り返します。対象の処理命令は凍結。回収を優先してください』

 

 紫乃が顔を上げる。

 

「白鯨……」

 

 成海が血の混じった唾を吐き、笑った。

 

「あーあ。出たね、本性」

 

 伊坂は通信機へ静かに応答した。

 

「確認します。漂流個体エンデは処理対象ではなく、保存対象ということですか」

 

『その通りです』

 

「九条澪は」

 

『歌唱媒体として確保。生体維持を最優先。人格保全は副次条件』

 

 中央観測槽の空気が凍った。青織が観測銃を握る手に力を込める。紫乃の顔から表情が消える。

 

 伊坂は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくり息を吐いた。

 

「私は怪物を怪物として扱います」

 

 通信の向こうが沈黙する。伊坂は続けた。

 

「ですが、人間を部品として扱う命令までは受けていません」

 

『伊坂執行官。命令違反です』

 

「ええ」

 

 伊坂は銃口を、澪ではなく、中央観測槽の別通路から侵入してきた白鯨部隊へ向けた。

 

「ここからは命令違反です」

 

 銃声が響いた。白い閃光が、中央観測槽の闇を裂く。それを合図に、全てが動き出した。

 

 白鯨部隊が突入する。管理局部隊が久我の命令で射線をずらす。

 

 青織が澪とエンデの周囲に境界固定の青い糸を張る。

 紫乃が『門歌断章集』を開いたまま第二節を叫ぶ。

 成海が笑いながら、白鯨の制御術式へ黒い線を走らせる。

 

 そして澪は、エンデと手を繋いだまま、海の底の扉へ向き直った。


 アオの願い。エンデの記憶。自分の声。

 それらが、ようやく一つの歌になろうとしていた。

 歌が完成する—異世界の門を閉じることはできるのか?

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