急転
門を自分の歌で閉じようとする澪に成海は突然—?
最初の音は、澪自身にもほとんど聞こえなかった。
声というより、息だった。歌というより、まだ形を持たない願いだった。けれど海の底の門は、その微かな震えに反応した。
黒い扉の表面に刻まれていた無数の詩句が、一斉に淡く光る。
観測柱の数値が跳ね上がり、中央観測槽の赤い警告灯が激しく明滅した。宙に浮かんでいた黒い海水が、澪の声へ引き寄せられるように細い螺旋を描く。
アオの残響が、そこへ重なろうとした。
澪は、その歌をなぞらないように意識した。なぞってはいけない。
紫乃が読んだ本の言葉が、胸の内側に強く残っている。
境界を閉じる歌は、残響をなぞるべからず。
閉じる者は、己の名において、己の声を重ねよ。
だから澪は、アオの声へ自分を預けなかった。
アオの願いを否定せず、けれど自分の輪郭を手放さないように、慎重に次の音を探した。
知りたい。
生きたい。
世界と繋がりたい。
でも、誰かを犠牲にして繋がりたくはない。
その言葉を、歌にする。そう思った瞬間だった。
「違うなぁ」
成海の声がした。
軽い声だった。場違いなほど、いつもの調子だった。
だが、その一言だけで、中央観測槽の空気が変わった。青織が鋭く振り返る。
「成海」
「違う違う違う。駄目だ、それじゃ」
成海玲司は橋の手すりにもたれかかっていた。
色付き眼鏡の奥の目が、奇妙な青い光を帯びている。いつもの笑みは浮かんでいたが、楽しそうではなかった。
むしろ、どこか苦しそうだった。紫乃が顔を強張らせる。
「成海、今は邪魔しないで」
「邪魔じゃないよ」
「邪魔だよ」
「違う。これは、邪魔しないと失敗する」
成海は橋の中央へ向かって歩き出した。
その瞬間、伊坂が銃口を向けた。
「止まりなさい」
「やだね」
「撃ちます」
「それはそれで面白いけど、今撃つと九条ちゃんも巻き込むよ」
伊坂の指が引き金の上で止まる。青織は観測銃を成海へ向けた。
「何をする気だ」
「思い出させる」
「誰に」
成海は、澪ではなく、エンデを見た。
「そこの異世界の門守ちゃんに」
エンデの虹色の瞳が揺れる。
「……エンデ?」
「そう。お前」
成海は笑った。
「お前、澪ちゃんの歌を扉へ届けるって言ったよな」
「言った」
「それだけじゃないだろ」
「……それだけ」
「違う」
成海の声が低くなった。
その低さに、澪はぞっとした。成海の口調から、ふざけた薄皮が剥がれていた。
「届けるだけなら、郵便屋でもできる。お前は門守だ。歌をどこへ閉じるか、閉じた後に何を残すか、それを知ってたはずだ」
エンデは困惑したように首を振る。
「知らない、やれば思い出すはず」
「忘れてるだけだ」
「知らない」
「忘れてるんだよ」
成海が一歩、近づく。青織が叫んだ。
「それ以上近づくな!」
だが成海は止まらなかった。
「このまま閉じたら駄目なんだよ。アオの歌と澪ちゃんの声だけじゃ足りない。お前が思い出さないと、門は閉じるんじゃなくて、潰れる」
「潰れる?」
紫乃が息を呑む。
「どういう意味」
「知らない」
成海は即答した。
「残念ながら、俺はそこまで知らない」
青織の目が怒りに細くなる。
「ふざけるな」
「ふざけてないよ。知らないからやるんだ」
その言葉に、澪の背筋が冷えた。成海は笑っていた。だが、その笑みは破れた紙のように危うかった。
「俺は真実なんて知らない。エンデが何者なのかも知らない。アオとどう繋がってるのかも知らない。だけど、例の漂流個体との出会の時に共鳴したのさ」
例の漂流個体――
その言葉に、青織と紫乃の表情が変わった。伊坂も反応する。成海は自分のこめかみを指先で軽く叩いた。
「あの、名前も言葉もなかった漂流個体。胎児みたいに丸まって、生きたいって震えてただけのやつ。あいつに触れた時、少しだけ聞こえた。個体じゃない。個体の奥にある、もっと薄いもの」
彼の声が、中央観測槽の海鳴りに混ざる。
「アオ。エンデ。名前のないやつら。消えたやつら。漂流して、切られて、測られて、処理されたやつら。みんな別々なのに、境界の底では少しだけ繋がってる。集合意識なんて大層なものじゃない。ただの残り香だ。死ぬ時に残った、最後の体温みたいなものだよ」
成海はエンデを見た。
「そこが言ってる」
エンデは動けなかった。
「門守が、門守の役目を忘れてるって」
次の瞬間、成海の足元から黒い線が走った。術式改竄。
いや、澪にはそれが、いつもの成海の改竄とは少し違って見えた。
黒い線の中に、青白い微細な震えが混じっている。胎響の残留思念。
言葉にならない「生きたい」という共鳴が、成海の術式の中で微かに脈打っていた。紫乃が叫ぶ。
「成海、やめろ!」
「やめねぇーよ」
青織が発砲した。
観測銃の青い波紋が成海へ向かう。だが成海は避けなかった。波紋が肩を掠め、血ではなく黒い文字列のようなものが裂けて飛ぶ。成海は顔を歪めた。
「痛ってぇ」
「成海!」
「いいよ、青織。それくらいでいい」
彼は笑った。
「でも俺は止まらねぇぜ?」
黒い線が、澪の足元へ届いた。
澪は反射的に後退しようとしたが、動けなかった。
足首に絡みついたのは拘束ではない。もっと内側へ触れてくるものだった。胸の奥の扉に、冷たい指がかかったような感覚。
アオの残響が、急激に膨れ上がる。澪の視界が揺れた。
歌わなければ。閉じなければ。自分が誰だったか、分からなくなる。
「澪!」
エンデが叫んだ。澪は答えようとした。けれど、口から出たのは自分の声ではなかった。
「……閉じ、て」
青織の顔色が変わる。紫乃が本を抱えて走り出す。
「駄目、澪ちゃん!歌をなぞっちゃ駄目!」
「成海、貴様!」
伊坂が発砲した。白い弾道が成海の足元を砕く。成海はよろめいたが、それでも黒い線を切らなかった。
「今やめたら全部おじゃんだぞ!」
「エンデが何を忘れているというのです!?」
「それを思い出さそうとしてんだろうが!」
成海は怒鳴った。
その声に、全員が一瞬だけ凍った。成海玲司が、笑わずに怒鳴った。
「俺はエンデの忘れていることを知らねぇ!けど、分かるんだよ!このまま綺麗に閉じようとしたら、エンデが忘れてる穴に全部流れ込む!澪ちゃんも、アオの歌も、向こう側も、こっち側も、全部だ!」
エンデが澪を抱きしめるように支える。
「澪、名前。名前を言って」
澪はエンデを見る。虹色の瞳が暗闇の中で煌めく。
エンデ。名前――名前とは何だっただろう。
自分の名前――九条。澪。九条澪。それが自分だと分かっているはずなのに、アオの感情が胸の内側から溢れ、澪の輪郭を塗り潰していく。澪は口を開く。
「わたし、は」
その先が出ない。アオの歌が先に来る。
閉じて――
成海がエンデへ叫んだ。
「思い出せよ!」
エンデは顔を上げる。
「何を」
「お前は何を守るために生まれた!」
「エンデは、澪の歌を」
「違う!」
成海の足元で、漂流個体達の残響が強く脈打った。それは声ではなかった。けれど中央観測槽の空気そのものが、胎内のように重く、温かく、息苦しいものへ変わる。
生きたい。名前もないまま。言葉もないまま。それでも、生きたい。その共鳴がエンデに触れた。
エンデの身体がびくりと震えた。虹色の瞳の奥で、何かが割れる。
「……あ」
小さな声だった。澪を支えていたエンデの手から、力が抜ける。青織が踏み出そうとする。だが、紫乃がそれを止めた。
「待って」
「何を待つ!」
「エンデが見てる」
エンデの知られざる過去とは—?
門守の役目とは—?




