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境界の門

 三すくみの集まりに1番に反応するのは胡散臭い男。成海だった。

 成海の声が、中央観測槽の巨大な空洞に軽く反響した。

 

「全員揃ったじゃ〜ん」

 

 その言い方は、まるで飲み会の席に遅れてきた知人を見つけた時のように気楽さだった。だが、誰一人として笑わなかった。

 

 紫乃は濡れた髪を払う余裕もなく、革装本を胸に抱えたまま、橋の入り口に立ち尽くしていた。

 その隣では、伊坂が白に近いグレーのコートを雨と潮に濡らしながら、静かに銃を構えている。


 彼女は顔を覆う白布をつけていなかった。

 灰銀色の髪の奥から覗く切れ長の目は、いつものように冷たかったが、その冷たさの下に、ごくわずかな揺らぎがあることを青織は見逃さなかった。

 青織は観測銃を下ろさない。

 

「伊坂」

 

「青織」

 

 二人は名前だけを呼び合った。それだけで、空気がきしんだ。

 

 澪は思わず息を詰める。初対面の緊張ではない。敵同士の牽制でもない。

 もっと古く、もっと深い場所に沈んでいたものが、今になって水面へ浮かび上がったような沈黙だった。

 

 伊坂の視線は、青織からエンデへ移る。青い髪。虹色の瞳。白い服。輪郭の揺らぎ。その目が一瞬だけ細くなる。

 

「門級漂流個体エンデ。やはりここまで来ましたか」

 

 澪は反射的にエンデの前へ出た。

 

「この子を処理するつもりなら、通さない」

 

 自分の声が震えていることは分かっていた。

 けれど、下がる気はなかった。伊坂は澪を見る。

 彼女の目は静かだった。

 

「九条澪。あなたがここにいること自体が、既に危険です」

 

「そんなこと、分かってる」

 

「なら、理解してください。あなたが扉を通じて境界の門を開けば、東京湾だけでは済まない。境界が完全接続すれば、列島規模で灰域化が進む可能性があります」

 

「だから閉じに来た」

 

「あなたが本当に閉じられる保証はありません」

 

 その言葉は冷たかった。だが、澪には怒れなかった。

 伊坂の言っていることは、たぶん間違っていない。自分が失敗すれば、取り返しのつかないことになる。


 それでも、ここで管理局や白鯨の言う通りに拘束されることが正しいとは思えなかった。紫乃が一歩前へ出た。

 

「保証はないよ。でも、閉じる方法はある」

 

 彼女は革装本を掲げる。

 

 『門歌断章集 附・海底閉門譜』

 

 その表紙は、中央観測槽へ入った瞬間から強く震えていた。革の継ぎ目から、青白い光が細く漏れている。伊坂が低く言う。

 

「その本に、そう書いてあったと?」

 

「うん」

 

「古書一冊に世界を賭けるのですか」

 

「分類コードと処分命令に世界を賭けるよりは、まだマシだと思ってる」

 

 伊坂は黙った。成海が吹き出す。

 

「いいねぇ。久々に紫乃が紫乃してる」

 

「黙ってて」

 

「ひでぇよ、みんなして俺にだけ冷てぇ」

 

「ほんとに黙ってて」

 

 成海は肩をすくめたが、笑みを消す気はないらしい。ただ、その色付き眼鏡の奥の目だけは、中央観測槽の底をじっと見ていた。

 

 澪も、その視線につられるように橋の向こうを見る。

 そこには巨大な空洞が広がっていた。

 

 中央観測槽。

 

 東京湾の底に作られた、かつての観測施設の心臓部。

 無数の観測柱が海底から天井へと伸びている。


 柱の表面には古い文字列や観測値が刻まれ、その隙間を黒い海水が蛇のように這っていた。


 天井はない。いや、あるのかもしれないが、そこには暗い海が広がっていた。星が沈み、月が沈み、見たことのない魚影が文字の群れを食べるように泳いでいる。

 

 橋は、中央へ向かって細く伸びており、その向こうの海水の中に浮かぶのは巨大な門だった。

 

 素材は分からない。石にも見える。金属にも見える。濡れた骨のようにも見える。

 門の表面には無数の詩句が刻まれていた。だが、それらはじっとしていない。読む前に形を変え、声になる寸前で崩れ、また別の言葉へと組み替わっていく。

 

 澪は、その門を見た瞬間に分かった。あそこだ。

 ずっと夢で聞こえていた歌は、あそこから響いていた。

 門から入った歌が澪の“扉”から聴こえていたのだ、澪の胸が強く脈打つ。

 

 視界が一瞬、暗く沈む。そして、声が聞こえた。澪は息を呑む。アオの声ではない。正確には、声ですらない。それは感情だった。

 

 言葉になる前の願い。歌になる前の震え。死の直前、どうしても残したかったもの。肉体を失い、名前を失い、それでも境界の奥に刻まれ続けた感情記録。

 

 アオ本人がいるわけではない。そこに人格はない。

 

 澪を見て微笑む少女がいるわけでも、青織に何かを語りかける少女がいるわけでもない。

 ただ、歌だけが残っている。それが、何より残酷だった。

 

「……アオ」

 

 青織が小さく呟いた。声は掠れていた。

 澪は青織を見る。彼は門を見つめたまま、ほとんど瞬きもしていない。

 彼が今見ているのは門ではなく、きっと処分室の向こうにいた青い髪の少女なのだろう。

 

 エンデもまた、門を見つめていた。虹色の瞳が揺れている。

 

「アオ、いる」

 

 澪は胸が締めつけられる。

 

「エンデ」

 

「でも、いない」

 

 エンデは小さく首を振った。

 

「声だけ。歌だけ。アオの形は、もうない」

 

 その言葉に、青織の表情がわずかに歪んだ。

 

 紫乃は静かに本を開く。

 ページが勝手に捲れていく。無数の文字列が青白く浮かび上がり、やがて一節だけが黒く濃く残った。

 

「……ここだ」

 

 紫乃が読み上げる。

 

「“境界を閉じる歌は、残響をなぞるべからず”」

 

 澪は振り返る。

 紫乃の声は、普段よりずっと慎重だった。

 

「“閉じる者は、己の名において、己の声を重ねよ。死者の歌を再生する者は、死者の深みに沈む。生者の声を重ねる者のみ、境界を閉じてなお戻る”」

 

 中央観測槽の空気が、さらに重くなる。

 伊坂が静かに問う。

 

「つまり?」

 

 紫乃は澪を見る。

 

「澪ちゃんがアオの歌をそのまま歌えば、たぶん門は反応する。もしかしたら閉じるところまでは行けるかもしれない」

 

「でも?」

 

 澪の声は、自分でも分かるほど乾いていた。

 

「その場合、澪ちゃんはアオの残響に呑まれる」

 

 エンデが息を呑む。

 青織が低く言う。

 

「どういう意味だ」

 

 紫乃は本を握る手に力を込めた。

 

「アオの歌は感情記録だよ。願いも、恐怖も、愛情も、死の瞬間の痛みも全部含んでいる。それを完全になぞるってことは、アオの最後の瞬間を澪ちゃんの中で再生するってことになる」

 

「人格上書き?」

 

 成海が軽く言ったが、その目は笑っていなかった。

 

「近いね」

 

 紫乃は答える。

 

「澪ちゃんが消えて、アオになるわけじゃない。そんな都合のいいものじゃない。ただ、澪ちゃんの輪郭が壊れる。アオでも澪でもない、残響の器になる」

 

 エンデが澪の手を握った。強く。

 

 澪はその手の温かさで、ようやく自分が震えていることに気づいた。

 

 門から歌が響いている。

 その歌は美しかった。悲しいほど美しかった。

 

 澪はずっと、この歌を聞いてきたのだと思った。

 幼い頃、詩を読んで泣いた時。合唱を聞いて胸が苦しくなった時。知らない言葉に懐かしさを覚えた時。自分はずっと、この残響の端を掴んでいた。

 

 そう、アオは境界侵食で世界が変わる前からずっと歌っていたのだ――

 

 そして今、目の前に完全な形がある。

 

 歌えばいい。なぞればいい。

 

 アオが残した旋律を、そのまま自分の喉から出せばいい。

 そうすれば、きっと門は応える。世界は閉じるかもしれない。だが、その時、自分はどこにいるのだろう。

 九条澪は、残るのだろうか。澪は口元を押さえた。

 

「……怖い」

 

 声が漏れた。小さく、情けない声だった。だが、それを聞いたエンデがすぐに言った。

 

「怖い、正しい」

 

 澪はエンデを見る。エンデは真剣な顔をしていた。

 

「怖いのに、澪はここまで来た。だから、澪の声」

 

「……私の声って、何」

 

 澪は思わず聞いた。

 

「私、ずっとアオの歌を聞いてたんでしょ。だったら、私の好きだった詩も、歌も、言葉も、全部アオの影響だったんじゃないの」

 

「違う」

 

 エンデは即答した。澪は目を見開く。

 

「違う?」

 

「アオの歌、澪に届いた。でも、澪が何を好きになるかは、澪が決めた」

 

 ぎこちない言葉だった。けれど、まっすぐだった。

 

「エンデ、澪の声、知ってる」

 

「どんな声?」

 

「困ってる時、ちょっと怒る声」

 

 成海が吹き出しそうになり、青織に睨まれて黙った。エンデは続ける。

 

「本の話をする時、速くなる声。エンデが変なこと言うと笑う声。怖い時でも、誰かをひとりにしない声」

 

 澪の胸が痛くなる。

 

「それ、歌じゃないよ」

 

「でも、澪の声」

 

 エンデは澪の手を両手で握った。

 

「アオの歌と違う」

 

 その瞬間、門の奥で海鳴りが揺れた。まるでアオの残響そのものが、その言葉を聞いているようだった。青織がゆっくり澪へ視線を向ける。

 

「九条」

 

 澪は振り返った。青織の顔には、苦しさが残っていた。だが、処分室の記録を見た時のような、過去に引きずり込まれる目ではなかった。

 

「アオの歌をなぞるな」

 

 彼は低く言った。

 

「俺は、それを望まない」

 

 澪の喉が震える。

 

「でも、それで閉じられなかったら」

 

「その時は、俺が止める」

 

 即答だった。伊坂がわずかに目を細める。青織は続ける。

 

「だが、最初からお前を消す方法は選ばない。アオの時に、それを選ばせてしまったから」

 

 その声には、過去を背負った者の重みがあった。伊坂は黙っていた。

 白布をつけていない彼女の顔には、微かな影が落ちている。

 紫乃が本を閉じる。

 

「澪ちゃん」

 

「はい」

 

「アオの願いは、閉じたい、だと思う。これ以上混ざらないでほしい」

 

 紫乃は一つずつ確かめるように言った。

 

「それは、アオの声」

 

「……うん」

 

「じゃあ、澪ちゃんの願いは?」

 

 澪はすぐには答えられなかった。自分の願い。そんなもの、考える余裕がなかった。

 エンデを守りたい。世界を閉じたい。アオの歌を知りたい。

 

 でも、そのもっと奥にあるもの。

 澪は胸の奥へ意識を向ける。

 

 そこには扉がある。そして扉を出れば門がある。

 

 ずっと怖かったもの。自分が普通ではなくなる証のように思えていたもの。

 

 けれど今、その扉と門の向こうにあるのは、怪物だけではなかった。歌がある。言葉がある。誰かが残した感情がある。

 

 それを知りたいと思った。世界が怖くても、知らないまま閉じたくなかった。澪はゆっくり息を吸った。

 

「私は」

 

 声が震える。それでも続けた。

 

「知りたい」

 

 アオの歌が揺れる。

 

「生きたい」

 

 扉が脈打つ。

 

「世界と繋がりたい。でも、誰かを犠牲にして繋がりたくはない」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 それは願いだった。誰かに用意された役割ではない。


 アオの残響でもない。九条澪自身の、まだ未熟で、矛盾していて、けれど確かな願い。エンデが静かに頷いた。

 

「それ、澪の歌」

 

 中央観測槽の底から、低い音が響く。海の底の門が、ゆっくりと開き始めた。黒い海水が渦を巻く。

 

 観測柱が次々に警告音を鳴らし、赤い光が空洞全体を染める。

 

 伊坂が銃を構える。久我の部隊が別ルートから到着したのか、遠くで管理局の通信音が重なった。

 

『中央観測槽、門開放反応』

『第一級監視対象、発声準備』

『歌唱阻止命令、再確認』

 

 久我の声が通信越しに割り込む。

 

『全隊、待機』

『しかし指揮代理――』

『待機だ。撃つな』

 

 青織が一瞬だけ目を伏せる。

 久我が撃たなかった。今はそれだけで十分だった。だが、伊坂はまだ銃を下ろさない。

 

「九条澪」

 

 彼女は静かに言った。

 

「あなたがアオの残響に呑まれる兆候を見せた場合、私は撃ちます」

 

 エンデが前へ出ようとする。澪はその手を握って止めた。

 

「分かってます」

 

 伊坂は少しだけ黙った。そして付け加える。

 

「ですが、歌いなさい」

 

 紫乃が伊坂を見る。伊坂は門を見据えたまま言った。

 

「必要かどうかを見に来ました。今は、必要だと判断します」

 

 その言葉に、誰も何も返さなかった。澪は橋の中央へ向かって歩き出す。エンデが隣に来る。

 

「エンデ、何をすればいい?」

 

 澪が聞くと、エンデは海の底の門を見た。

 

「澪の歌、門に届ける」

 

「どうやって?」

 

「エンデ、ちょっと思い出した。エンデ、境界との入り口を守る『門守』だから澪の歌、門に届けられる」

 

 そう言って、彼は少しだけ笑った。

 けれどその笑みには、別れの気配があった。澪は胸が詰まる。

 

 その時、成海がいつもとは違う。冷たい鋭い目でエンデを見ていた――それを誰も見てはいなかった。

 

「エンデ」

 

「消えない」

 

 エンデは先に言った。澪は息を止める。

 

「でも、こっちには残れないかもしれない」

 

「……それって」

 

「向こうへ戻る。門が閉じるなら、エンデは向こう側にいないといけない」

 

 澪は言葉を失った。完全な消滅ではない。けれど、別れだ。それはあまりにも急で、あまりにも当然のように告げられた。

 

「やだ」

 

 澪の口から、子供みたいな言葉がこぼれた。

 エンデは困った顔をする。

 

「澪」

 

「やだよ」

 

「エンデも、ちょっとやだ」

 

「ちょっとなの?」

 

「かなり」

 

 その言い方がエンデらしすぎて、澪は泣きそうになりながら笑った。エンデは澪の手を握り返す。

 

「でも、断絶じゃない」

 

「……ほんとに?」

 

「歌、残る。声、届く。澪、聞くの得意」

 

 澪はもう何も言えなかった。海の底の門がさらに開く。向こう側の海が見える。

 

 星のない、暗い、でもどこか懐かしい海。

 アオの残響が、澪の周りをゆっくり巡り始める。

 

 澪は目を閉じた。その歌をなぞらない。否定もしない。ただ、受け取る。

 

 そして、自分の言葉を重ねる。澪は息を吸った。

 最初の音が、海底に落ちた。

 門守の役目を終えたエンデはどうなってしまうのか—?

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