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合流

 三つの勢力が澪、エンデ一行と合流する。

 保守用ルートの入口は、湾岸道路の高架下に隠されていた。

 

 久我から渡された端末が示す座標は、封鎖区域の外れにある旧排水ポンプ場の裏手だった。


 赤錆びた鉄柵の向こうには、雨に濡れたコンクリート階段が地下へ続いている。

 壁には境界管理局の古い封鎖印が貼られていたが、潮気と時間に侵され、文字の半分以上は読み取れなくなっていた。

 

 紫乃は端末を見ながら、小さく息を吐いた。

 

「久我班長、こういう抜け道をまだ残してたんだね」

 

「彼らしいですね」

 

 伊坂が淡々と答える。

 

「褒めてる?」

 

「いいえ。管理局員としては問題があります。ただ、現場指揮官としては正しい」

 

「相変わらず評価が面倒くさいな」

 

「あなたに言われたくありません」

 

 紫乃は少し笑った。

 

 階段を降りるにつれて、空気が変わっていく。


 街の音が遠ざかり、代わりに聞こえてきたのは、水の滴る音と、低い地鳴りのような振動だった。


 地震ではない。もっと深く、もっと巨大なものが、海底からゆっくり息をしているような音だった。

 

 鉄扉の前で、紫乃は足を止めた。

 

 扉の表面には《旧・湾岸保守第七通路》という文字が残っている。だがその下に、黒い水染みで別の文字が浮かんでいた。

 

《歌う者、未到達》

《門守、接近》

《閉門譜、同期待機中》

 

 紫乃は眉をひそめる。

 

「もう書かれてる。歌う者、澪ちゃん。門守は……エンデのこと?閉門譜はアオの歌だろうね」

 

「読めるのですか」

 

「半分くらいね」

 

「私は読めません」

 

「読めない方がいいよ。読めるってことは、“こちら側”じゃなくなってきてるってことだから」

 

 紫乃はそう言いながら、懐から布に包んだ革装本を取り出した。

 

 『門歌断章集 附・海底閉門譜』

 

 本は微かに震えていた。表紙に刻まれた文字が青白く瞬き、乾いた海藻のような繊維が、まるで生きている血管のように淡く脈打っている。

 

 伊坂はそれを見て目を細めた。

 

「危険物ですね」

 

「古書って大体そういうものだよ」

 

「あなたの古書観は歪んでいます」

 

「白鯨の標本室よりは健全だと思うけど」

 

 伊坂は答えなかった。紫乃が端末を扉横の認証盤へ当てると、しばらく沈黙があった後、内部から重いロックの外れる音がした。がこん、と古い機械が錆びた喉を鳴らすような音を立てる。

 

 扉が開く。

 

 中から流れ出したのは、冷たい潮風だった。

 いや、地下に風など吹くはずがない。


 それは風ではなく、海鳴りだった。音が空気を押し出している。通路の奥で、まだ歌になりきらない旋律が、ゆっくりと形を探している。

 

 紫乃は革装本を胸に抱え直し、暗い通路へ踏み込んだ。

 

 伊坂も続く。扉が背後で閉まると、雨音も、遠くのサイレンも、久我たち管理局部隊の気配も消えた。

 ただ、通路全体を満たす低い振動だけが残る。

 

 壁面には古い配管が走り、その隙間に黒い水滴が浮いていた。水滴は重力に従わず、床から天井へ、天井から壁へと移動している。

 

 時折、それらは細い文字列となり、またすぐに崩れて水に戻った。

 

「ここ、普通の保守通路じゃないね」

 

 紫乃が呟く。

 

「元は普通だったのでしょう」

 

 伊坂は銃を構えながら言った。

 

「今は違う」

 

「そういう言い方、青織みたい」

 

「不愉快です」

 

「似てるよ、あんたたち」

 

 伊坂は足を止めなかった。

 

「似ていません」

 

「似てる。どっちも、自分が正しいと思ってる間は絶対に折れない」

 

「彼は折れたでしょう」

 

 紫乃はその言葉に、少しだけ視線を落とした。青織は折れたのか。

 それとも、折れてなお歩いているのか。

 

 どちらなのかは分からない。

 ただ一つ言えるのは、アオの処分室から出てきた後、彼はもう以前と同じ男ではなくなったということだった。

 

 紫乃は革装本を開いた。湿った紙が、かすかに鳴る。

 中には五線譜に似た図が描かれていた。


 だが音符の代わりに並んでいるのは、短い詩句や、名前の断片や、誰かの吐息を文字にしたような記号だった。

 紫乃はページの端に書かれた注釈を読む。

 

「“境界は歌によって開かれる。閉じる時もまた、歌を要する。ただし閉じる歌は、ひとりの声では足りない”」

 

 伊坂が目を細める。

 

「ひとりでは足りない?」

 

「うん」

 

「九条澪だけでは閉じられないという意味ですか」

 

「たぶんね」

 

 紫乃はページをめくる。

 

「“門守は門を知る。歌う者は欠落を補う。観測者は歌を現実へ留める。証言者は災害に名を与える”」

 

 通路の奥から、低い海鳴りが返事のように響いた。

 伊坂はしばらく黙っていた。

 

「先ほどあなたが言っていたように門守はエンデ。歌う者は九条澪。観測者は青織でしょう。では、証言者とは」

 

「さあね」

 

 紫乃は軽く言った。

 

「私かもしれない。久我班長かもしれない。あんたかもしれない」

 

「私が?」

 

「怪物を怪物として扱うって言った人間が、最後に何を証言するか。それは大事でしょ」

 

 伊坂は何も返さなかった。ただ、手にした銃のグリップを少しだけ握り直す。

 

 紫乃はそれを横目で見ていたが、追及はしなかった。伊坂が言葉を飲み込む時は、大抵、そこに触れられたくないものがある時だった。

 

 昔からそうだ。特殊観測班にいた頃から、伊坂は怒るより先に沈黙する女だった。

 その沈黙が怖かった。そして今も怖い。

 

 だが、紫乃は少しだけ安心もしていた。完全に何も感じていない人間は、沈黙などしない。

 何かがあるから黙るのだ。通路を進むにつれ、周囲の景色は少しずつ変わっていった。

 

 壁のコンクリートが濡れた紙のように波打ち始める。配管の中からは水ではなく、かすかな声が漏れている。


 女の子の声。観測員の声。機械音声。誰かの泣き声。それらが幾重にも重なり、意味を持つ寸前で崩れていく。

伊坂が低く言った。

 

「記録が漏れています」

 

「うん」

 

「処分室のものですか」

 

「たぶん」

 

 紫乃は革装本を閉じた。

 

「アオの歌に反応してる。澪ちゃんたちが中央観測槽へ近づいてるんだと思う」

 

「早いですね」

 

「急がないと」

 

 その時だった。 

 通路の奥で、金属の擦れる音がした。

 紫乃と伊坂は同時に立ち止まる。


 暗闇の向こうに、青白い光が一つ灯った。

 次に二つ。

 三つ。


 水底に沈んだ船の窓明かりのような、鈍く、湿った光だった。

 

 やがて、その光の下に人影が現れた。

 古い防護服を着ている。胸部には《特殊空間災害対策室》の文字。

 

 だが布地は黒い海水を吸ったように重く垂れ、ヘルメットのバイザーの内側には顔ではなく、黒い水が満ちていた。紫乃は息を呑んだ。

 

「旧観測員……?」

 

 伊坂はすでに銃へ手をかけていた。

 

「生存者ではありません」

 

 人影は一歩、こちらへ進んだ。足元から黒い水が広がり、その水面へ文字列が浮かぶ。

 

『歌唱記録、継続』

『対象、涙液反応』

『遮音膜、最大出力』

『青織零、拘束』

 

 紫乃の顔から血の気が引いた。

 

「処分室の記録が、人の形になってる」

 

「記録?」

 

「アオの処分を見ていた観測員たちの残響。ここに染みついた観測ログが、侵食で歩いてるんだよ」

 

「なら、排除します」

 

「待っ――」

 

 紫乃が止めるより早く、伊坂は発砲していた。

 

 白い閃光が通路を裂き、人影の胸を貫く。だが人影は倒れなかった。身体が水面のように揺らぎ、撃ち抜かれた穴から大量の文字が溢れ出す。

 

『処分開始』

『対象安定』

『歌唱継続』

『遮音膜起動』

『青織零、拘束解除申請』

『却下』

 

 伊坂の表情が、ほんの僅かに変わった。

 

 青織零。

 

 その名前が、黒い文字となって床を這ってくる。伊坂は後退しようとしたが、文字の一部が彼女の足首へ絡みついた。

 次の瞬間、伊坂の視界に過去が流れ込んだ。白い処分室。厚いガラスの向こうにいる青い髪の少女。


 遮音膜の内側で、最後まで口を動かしているアオ。

 拘束具を引き千切ろうとして、警備員に押さえつけられる青織。観測端末を握りしめ、何も言えずに立っている数年前の久我。

 

 そして、数年前の伊坂。短い灰銀色の髪。白い観測服。まだ、自分が正しいと信じ切っていた顔。

 

「……っ」

 

 伊坂が膝をつきかける。紫乃はすぐにその腕を掴んだ。

 

「伊坂!」

 

 伊坂は荒く息を吐き、絡みつく文字を銃で撃ち払った。黒い文字列が壁へ散り、雨粒のように弾ける。

 

 だが伊坂の目は、さっきまでと少しだけ違っていた。

 冷静さは戻っている。けれど完全には戻っていない。紫乃は小さく言った。

 

「見た?」

 

「……不要な記録です」

 

「そう」

 

 紫乃はそれ以上追及しなかった。通路の奥で、人影が増えていく。

 

 一体ではない。

 二体、三体、五体。

 

 古い観測員たちの残響が、暗闇の奥からゆっくり歩いてくる。彼らは武器を構えているわけではない。


 ただ、記録を再生しながら近づいてくる。それだけなのに、銃を向けられるよりよほど怖かった。

 

『対象アオ、歌唱継続』

『青織零、処分中止を要求』

『却下』

『久我班長、待機命令』

『遮音膜、再起動』

 

 紫乃は思わず奥歯を噛んだ。

 久我がさっき言った言葉の意味が、ようやく少し分かった気がした。報告書と分類コードだけで、もう誰かの歌を止めたくない。

 

 それは善意だけではない。贖罪だった。

 

「走るよ」

 

 紫乃は言った。

 

「戦わないのですか」

 

「記録と戦っても勝てない。読むしかない」

 

「あなたらしいですね」

 

「褒め言葉として受け取る」

 

 二人は走り出した。背後から、観測員たちの残響が追ってくる。再生される記録の声が、通路全体に重なっていく。

 

『処分室、封鎖』

 

『外部音声、遮断』

 

『対象、歌唱継続』

 

『青織零、精神汚染値上昇』

 

『久我班長、待機命令継続』

 

 伊坂の足が一瞬だけ鈍った。紫乃は気づいたが、何も言わなかった。言わないまま、その手首を掴んで引いた。

「今は止まらない」

 

「分かっています」

 

「分かってる顔じゃなかった」

 

「うるさいですね」

 

「昔の伊坂に戻ってきた」

 

「不愉快です」

 

 そう言いながらも、伊坂は紫乃の手を振り払わなかった。

 通路の先に、赤い非常灯が見えた。

 

《中央観測槽 副連絡口》

 

 その文字を見た瞬間、革装本が強く震えた。表紙の留め具が勝手に外れ、ページが風もないのに捲れていく。

 紫乃は息を切らしながら本を押さえた。

 

「着いた」

 

 伊坂は銃を構え直す。

 

「青織たちも近いですね」

 

「うん」

 

 副連絡口の向こうから、低い海鳴りが響いていた。それは歌に似ていた。けれど、まだ歌ではなかった。

 

 誰かが声を重ねるのを、ずっと待っている音だった。紫乃は扉の前に立ち、深く息を吸った。

 

「ここから先は、全員集合だね」

 

 伊坂は何も答えない。ただ、濡れた髪を払い、白に近いグレーのコートの内側から白布を取り出した。


 顔を覆うためのものだ。だが彼女はそれをしばらく見つめたあと、静かに折り畳み、懐へ戻した。紫乃はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。

 

「つけないんだ」

 

「必要ありません」

 

「怪物を怪物として扱うんじゃなかったの?」

 

 伊坂は扉の向こうを見据えたまま言った。

 

「必要かどうかを、これから見に行くと言ったでしょう」

 

 その声は、まだ冷たかった。けれど、先ほどよりもほんの少しだけ、人間の温度を帯びていた。紫乃は頷き、端末を認証盤へ差し込む。重いロックが外れる。扉が開く。

 

 その先に、巨大な空洞が広がっていた。中央観測槽。

 東京湾の底に沈んだ心臓部。

 

 無数の観測柱が海底から天井へ伸び、黒い海水が宙に浮かび、赤い警告灯が水面のように揺れている。

 

 そして、その中央に細い橋があった。橋の向こうで、青織が振り返る。

 

 澪が息を呑む。エンデの虹色の瞳が震える。成海が、場違いなほど楽しそうに笑う。

 

「お」

 

 彼は片手を上げた。

 

「全員揃ったじゃん」

 

 その声を合図にしたように、中央観測槽の底から、アオの歌が微かに響いた。

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