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三つ巴

 紫乃、伊坂サイドの話。三つの勢力が入り混じる—

 東京湾へ向かう首都高速は、半分だけ死んでいた。

 

 雨に濡れた高架道路の先で、赤い警告灯が規則正しく点滅している。封鎖ゲートはすでに下ろされ、路面には境界管理局の黄色い規制線が何重にも張られていた。


 空には監視ドローンが飛び、湾岸方面へ向かう車両はすべて検問で止められている。

 

 だが、それでも東京は完全には止まらない。

 

 封鎖区域のすぐ外では、コンビニの明かりが点き、タクシーが客を拾い、遠くのマンションにはまだ生活の灯が残っていた。


 空が裂け、東京湾の底から海鳴りが響いている夜でも、人間の暮らしは簡単には終わらない。

 その不自然な日常を横目に、紫乃はハンドルを握っていた。

 古いワゴン車だった。

 

 外見だけなら古書店の配達車にしか見えない。実際、荷台には古書が何箱も積まれている。


 だが、その奥には、境界観測用の簡易端末、遮音膜発生器、古い録音機材、そして一冊の革装本が布に包まれて置かれていた。

 

 『門歌断章集 附・海底閉門譜』

 

 紫乃が雨燕古書店の最奥から持ち出した本だった。

 古書というには、あまりにも生々しい気配を持つ本。


 紙は黄ばんでいるのに、触れると微かな体温のようなものがあった。文字の一部は人間のインクではなく、乾いた海藻の繊維や、黒い塩の結晶に似たもので書かれている。

 

 隣の助手席で、その本を見ていた伊坂が静かに言った。

 

「持ち出してよかったのですか」

 

 紫乃は前を見たまま答える。

 

「よくないね」

 

「では、なぜ」

 

「よくないことをしないと間に合わないから」

 

 伊坂は少しだけ目を細めた。長い灰銀色の髪は、後ろで簡単にまとめられている。


 白鯨の戦術装束ではなく、白に近いグレーのロングコートを着ていた。顔を覆う白布も今はない。切れ長の目と薄い笑みだけが、街灯の明滅に照らされている。

 

 紫乃はその横顔をちらりと見た。

 

「白鯨の回収執行官が、私の車に乗ってる。かなり面白い状況だね」

 

「協力関係です」

 

「一時的な、でしょ」

 

「ええ」

 

 伊坂は否定しなかった。

 二人は同じ方向へ向かっている。

 だが、同じものを見ているわけではない。

 

 紫乃は澪を守りたい。正確には、澪が自分の言葉で選べるところまで連れていきたいと思っている。

 

 対して伊坂は、白鯨というハイエナのような組織の傘を被りつつも、本心では世界を守るために動いている。


 世界を守るためなら、澪を拘束することも、エンデを処理することも、必要なら青織を撃つことも選択肢に入れるだろう。

 

 紫乃はそのことを分かっていた。だから信用はしていない。ただ、使えると思っている。伊坂もまたそれは同じだろう。

 

「あなたは、まだ九条澪を“人間”として見ていますね」

 

 伊坂が唐突に言った。紫乃は笑う。

 

「そりゃそうでしょ。高校生だよ」

 

「高校生であることと、危険存在であることは矛盾しません」

 

「そういう言い方、青織が聞いたら嫌な顔するよ」

 

「彼は昔から嫌な顔ばかりしていました」

 

「それはあんたたちのせいじゃない?」

 

 伊坂は答えなかった。沈黙が降りる。

 

 ワイパーが雨粒を左右へ払う音だけが、車内に規則正しく響いていた。

 

 やがて伊坂は、窓の外へ視線を向けた。湾岸方面の空が黒く沈んでいる。雲ではない。裂け目の向こうから滲み出した海が、光そのものを吸い込んでいるのだ。

 

「名前をつけた瞬間、人は災害を愛してしまう」

 

 静かな声だった。

 紫乃は横目で伊坂を見た。

 伊坂は続ける。

 

「漂流個体、門級。そう分類しておけば、人はまだ距離を保てる。けれど、エンデと呼んだ瞬間、アオと呼んだ瞬間、人はそれを怪物として扱えなくなる」

 

 その声には、怒りも後悔もなかった。

 ただ、冷え切った確信だけがある。

 

「だから私は、怪物を怪物として扱う」

 

 紫乃は少しの間、黙っていた。そして、低く笑った。

 

「相変わらず、ひどいことを綺麗に言うね」

 

「必要なことです」

 

「違うよ」

 

 紫乃はハンドルを切る。

 ワゴン車は封鎖された大通りを避け、湾岸倉庫街へ続く裏道へ入っていった。

 

「名前を呼ばないことで守れる世界なんて、私は信用しない」

 

 伊坂がこちらを見る。紫乃は前を向いたまま続けた。

 

「名前をつけるから、間違える。名前を呼ぶから、失うのが怖くなる。名前を覚えてしまうから、処分室の記録ひとつ見ても眠れなくなる。でも、それが人間でしょ」

 

「感情論ね」

 

「そうだよ」

 

 紫乃は即答した。

 

「でも歌も詩も、全部感情論から始まってる。澪ちゃんが“扉”が開いた理由も、アオが最後に歌を残した理由も、エンデがここまで来た理由も、青織がまだ諦めてない理由も、全部そう」

 

 伊坂は何も言わない。

 紫乃は少しだけ声を落とした。

 

「世界を守るっていうなら、人間が何で世界を守りたいのかまで切り捨てちゃ駄目だ」

 

 車内に、重い沈黙が落ちた。伊坂はしばらく窓の外を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「あなたは変わりましたね」

 

「そう?」

 

「特殊観測班にいた頃のあなたは、もっと何も考えず、天真爛漫なだけの娘だった……」

 

「そっちこそ。昔はもう少し人間味があった」

 

 紫乃がそう言うと、伊坂は薄く笑った。

 

「失礼ですね」

 

「お互い様」

 

 その時だった。

 前方の路地に、青い警告灯が滲んだ。

 

 紫乃はブレーキを踏む。倉庫街へ抜ける道の先に、境界管理局の臨時検問が展開されていた。


 黒い防護車両が二台。仮設バリケード。管理局の隊員が十数名。全員、こちらへ銃口を向けている。紫乃は舌打ちした。


「もう読まれてる」

 

「当然です。あなたの行動パターンは管理局に残っています」

 

「嫌な古巣だね」

 

「私の古巣でもあります」

 

 伊坂は静かに言い、窓の外を見た。その瞬間、管理局側から一人の男が前へ出た。ヘルメットを外している。灰色の防護服。観測端末。疲れた目。

 久我だった。

 

 紫乃の表情が変わる。

 

「……久我班長」

 

 伊坂も微かに目を細めた。

 

「生きていましたか」

 

 久我は二人の乗るワゴン車へ近づいてきた。周囲の隊員たちは緊張したまま銃を下ろさない。


 だが久我自身は、手を空にしている。

 紫乃は窓を少しだけ開けた。

 

「久我班長久しぶり」

 

「時任、おれはもう()班長だぞ」

 

 久我は紫乃を見たあと、助手席の伊坂へ視線を移した。

 

「伊坂まで一緒とは。最悪の組み合わせだな」

 

「それはこちらの台詞です」

 

 伊坂は淡々と返す。

 久我は疲れたように笑った。

 

「管理局は、青織たちを捕捉したぞ。俺らの小隊と遭遇した」

 

 紫乃の目が鋭くなる。

 

「どこで」

 

「南品川地下調律槽を抜けた先、現在、旧・海上観測基底区画へ接近中だ。」

 

 伊坂が静かに問う。

 

「あなたは、なぜそれを私たちに伝えるのですか」

 

 久我はすぐには答えなかった。

 

 背後の隊員たちがこちらを警戒している。彼らも久我の真意を測りかねているようだった。

 

「上からは、九条澪の拘束、漂流個体エンデの隔離、青織さんの無力化命令が出ている」

 

「でしょうね」

 

「場合によっては、歌唱行為を阻止するための神経遮断も許可されている」

 

 紫乃の手が、ハンドルの上で強く握られた。

 久我は続ける。

 

「俺は、それには従えない」

 

 伊坂が少しだけ眉を上げる。

 

「管理局の人間が、命令違反ですか」

 

「現場判断だ」

 

「便利な言葉ですね」

 

「お前に言われなくないな」

 

 久我の声に、初めて鋭さが混じった。

 伊坂は薄く笑うだけだった。紫乃は久我を見つめた。

 

「久我元班長、あなたは今どういう立場なんですか?」

 

「境界管理局特務執行班、臨時指揮代理」

 

「代理?」

 

 久我は少しだけ視線を伏せた。

 

「本来の指揮官は、旧観測橋で深度汚染を受けた。生きてはいるが、もう現場指揮は取れない」

 

「それで、あなたが」

 

「ああ」

 

 紫乃は、久我の顔に浮かぶ疲労を見た。

 彼は完全な味方ではない。

 管理局を捨てたわけでもない。

 

 だが、今ここで青織たちを撃つ側にも立ち切れていない。その中途半端さを、紫乃は弱さとは思わなかった。

 

 むしろ、この局面では一番信用できるかもしれないと思った。迷っている人間だけが、まだ人間を見ている。

 

「久我元班長」

 

 伊坂が静かに言った。

 

「あなたは青織を撃たないのですか」

 

 久我は伊坂を見た。

 しばらく沈黙した後、答える。

 

「撃つ必要があれば撃つ」

 

「では、必要がなければ?」

 

「撃たん」

 

「甘いですね」

 

「そうかもしれんな」

 

 久我は否定しなかった。

 

「だが、アオの時に“必要”と言われたものが、本当に必要だったのか。今の俺には分からない」

 

 その言葉に、伊坂の表情がほんの僅かに変わった。

 紫乃も黙った。

 久我は続ける。

 

「同じことを繰り返すなら、せめて現場で見てから判断したい。報告書と分類コードだけで、もう誰かの歌を止めたくない」

 

 雨音が強くなる。遠くで海鳴りがした。久我はポケットから小型端末を取り出し、紫乃へ投げた。

 

「旧・海上観測基底区画へ抜ける保守用ルートだ。正規ルートは封鎖されている。青織たちが向かっている中央観測槽へ合流するなら、ここを使うといい」

 

 紫乃は端末を受け取る。

 

「これ、完全に命令違反じゃない?」

 

「ログ上は、おまえに強奪された」

 

「うわぁ、班長……そういうとこ」

 

「はは、どういうところかはまた飲み屋でゆっくり話そう」

 

 久我は少しだけ笑った。だがその笑みはすぐに消える。

 

「ただし、俺はお前たちの完全な味方ではない。九条澪が本当に門を開く危険になった場合、俺は止める。いいな?」

 

「分かってる」

 

 紫乃は頷いた。

 

「それでいい」

 

 伊坂が静かにドアを開けた。

 

「では、行きましょう」

 

 紫乃が驚く。

 

「え、降りるの?」

 

「ここから先は車では目立ちます」

 

「白鯨のお嬢様が徒歩?」

 

「白鯨にお嬢様はいませんよ」

 

 伊坂は外へ出る。雨に灰銀色の髪が濡れた。

 久我はそんな伊坂を見て、少しだけ複雑そうな顔をした。

 

「伊坂」

 

「何でしょう」

 

「お前はエンデを処理するつもりか」

 

 伊坂はすぐには答えなかった。ただ湾岸の空を見上げた。そこには黒い海があった。

 

「必要ならば」

 

「……そうか」

 

「ですが」

 

 伊坂は久我を見る。

 

「必要かどうかを、これから見に行きます」

 

 それだけ言って歩き出した。紫乃は肩をすくめ、革装本を抱えて車を降りる。

 

「久我班長」

 

「なんだ」

 

「生きてなよ」

 

「そちらこそ」

 

「私はしぶといから」

 

 紫乃は軽く笑った。そして伊坂の後を追う。久我はその背中を見送った。管理局の隊員の一人が近づく。

 

「指揮代理。追撃しますか」

 

 久我はしばらく黙っていた。それから、低く答える。

 

「しない」

 

「しかし」

 

「我々は別ルートで中央観測槽へ向かう。現時点で時任紫乃および伊坂への攻撃優先度は低い」

 

「上には何と」

 

「通信障害で報告遅延」

 

 隊員は一瞬ためらったが、やがて頷いた。久我は湾岸の暗闇を見た。

 

 青織。九条澪。エンデ。紫乃。伊坂。そして、まだどこかで笑っているだろう成海。


 全員が東京湾の底へ向かっている。

 

 その先で何が起きるのか、久我には分からない。ただ一つだけ、確かなことがあった。

 

 もう、誰かの声を聞かないまま撃つことだけはできない。久我はヘルメットを被り直した。

 

「全隊、移動開始」

 

 彼の声に、管理局の隊員たちが動き出す。

 白い雨が、湾岸道路を静かに濡らしていた。

 皆東京湾の門へ、向かう。運命が混ざり、共鳴し合う—

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