処分室
アオを失った場所—処分室。そこで何をみるのか。
処分室へ続く通路は、他の区画よりも静かだった。
静かすぎた。
音響記録室では、古い海の声が壁の奥から滲んでいた。
受付ホールでは、施設そのものが名前を欲しがっていた。だが、この通路には何もない。非常灯の明滅する音も、配管の軋みも、遠い海鳴りさえも、ここでは妙に薄い。
まるで、誰かが意図的に音を消したみたいだった。
澪は青織の背中を見つめていた。黒いコートの肩が、いつもよりわずかに硬い。
観測銃を握る手は揺れていない。歩幅も乱れていない。けれど、それがかえって危うく見えた。
平静すぎる。青織は、何かを押し殺している。
「青織」
エンデが小さく呼んだ。青織は振り返らない。
「なんだ」
「ここ、嫌な音がする」
「ここもか……」
「聞こえない音」
エンデは言葉を探すように、胸元を押さえた。
「閉じ込めた音」
その言葉に、澪の首元の鈴が微かに震えた。
音として鳴る前に、内側で細い共鳴が起こる。胸の奥の扉が、少しだけ反応する。澪は鈴を握り、呼吸を整えた。
成海は最後尾を歩いている。
いつものように軽い足取りだったが、さすがに口数は減っていた。
通路の壁に残された警告文を横目で見て、時折、面白そうに目を細める。
《処分室前通路》
《以降、記録音声の再生を禁止》
《対象への情動接触を禁止》
《観測員は対象名を呼称しないこと》
《対象が歌唱した場合、遮音処理を行うこと》
澪は最後の一文で足を止めそうになった。
歌わせないための部屋。
歌を閉じ込めるための部屋。
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
「……ひどい」
呟くと、青織がわずかに立ち止まった。
けれど何も言わず、また歩き出す。成海がぼそりと言った。
「当時は、これが最善だったんだろうよ」
「最善?」
澪は振り返る。
「歌わせないことが?」
「歌で境界が開くなら、歌わせないのは合理的だろ」
「でも」
「ひでぇこと合理的なのは、両立するんだよ。それがたとえ正しくなくても――な」
成海の声は軽い。
けれど、そこには妙な乾きがあった。
「そこを勘違いすると、組織ってのは大体おかしくなる。善意で閉じ込めて、合理性で殺す。で、誰も悪くない顔をする」
青織の足が止まった。
「成海」
「へえへえ、黙りやすって」
成海は両手を上げる。だが、その目は笑っていた。
青織は何も言わずに通路の奥へ進んだ。
やがて、巨大な白い扉が現れた。金属製の隔壁扉。表面は白く塗られているが、あちこち剥げ、下から黒い錆が浮き出している。
扉の中央には、透明な小窓があった。強化ガラスだろう。だが内側は暗く、何も見えない。
扉の上には、掠れた文字。
《隔離処分室B》
青織の呼吸が、一瞬だけ止まった。
澪にも分かった。ここだ。アオが最後にいた場所。青織が、最後まで救えなかった場所。
エンデがそっと澪の手を握る。彼の手は冷たかった。けれど震えている。
「エンデ?」
「ここ、深い」
「深い?」
「海じゃないのに、海より深い」
青織は端末を取り出し、扉横の制御盤へ接続した。
古い認証画面が立ち上がる。
《職員コードを入力してください》
《情動接触記録を確認中》
《対象名呼称ログを照合中》
青織が何かを入力する。
画面が数秒止まり、赤く点滅した。
《認証失敗》
《当該職員コードは凍結されています》
「当然か」
青織が低く呟く。成海が横から覗き込んだ。
「退職者に優しくないねぇ」
「黙れ」
「いや、ここは俺の出番だろ」
成海は制御盤へ手を伸ばす。青織が即座にその手首を掴んだ。
「何をする気だ」
「開ける」
「どうやって」
「ちょっと横から書き換える」
「信用できると思うか」
「思わない。でもこのままじゃ開かない」
二人の視線がぶつかる。澪は息を呑んだ。
成海は軽く笑っている。青織は一切笑っていない。やがて、青織が手を離した。
「余計なことをしたら撃つ」
「ほんと物騒なやつだわ。九条ちゃんから苦情は来てないの?」
空気がマイナス4度ほど低くなる。
やっぱり親父ギャグってこんなに寒いんだ……澪は両腕をさすりながら思った。
当然エンデはただそのままの意味だけ捉えている。青織は――もう触れなくても良いか……
成海が指先で制御盤に触れた。
その瞬間、盤面に黒い線が走る。水ではない。文字でもない。細い亀裂のようなものが、回路の隙間へ入り込み、認証画面の文字をほどいていく。
境界改竄。
澪はそれを見ながら、背筋が冷えるのを感じた。
エンデや澪の境界侵食は、世界の薄い部分へ触れる感覚がある。青織の境界固定は、揺らぐ意味を縫い留める力だ。
成海の力は違う。そこにあるものを、そこにあるまま、意味だけずらす。鍵穴の向こうに別の鍵を作るような、不自然で器用な力。
制御盤の赤い表示が歪む。
《認証失敗》
その文字が、ゆっくりほどける。
《認証保留》
さらに歪む。
《記録再生準備》
「開けるぞ」
成海が言った。重い音がした。
扉の内部で、長い間眠っていた機構が目を覚ます。錆びついたロックが外れ、隔壁がわずかに震えた。
青織が観測銃を構える。澪は鈴を握った。エンデが澪の前に半歩出る。
扉が、ゆっくり開いた。中は白かった。
壁も、床も、天井も、すべて白い。けれどその白は清潔ではなかった。
何度も洗われ、何度も塗り直され、それでも消しきれなかったものを覆い隠すための白だった。
中央には、透明な隔離槽があった。
今は空だ。けれど、その中に誰かがいたことは分かった。
床には固定用の輪がいくつも埋め込まれている。壁には音響遮断装置。天井には観測用の古いカメラ。部屋の隅には、割れたブラウン管モニターが一台だけ残っていた。
青織は入口に立ったまま動かなかった。
澪も言葉を失う。
ここに、アオがいた。
そう思った瞬間、部屋の奥でブラウン管が点いた。
誰も触れていない。砂嵐が走る。やがて、白黒の映像が映った。
処分室。
同じ部屋。
ただし、映像の中の部屋には、少女がいた。
透明な隔離槽の中で、少女が立っている。
顔ははっきり見えない。ノイズがかかっている。
けれど、澪には分かった。
アオ。
青織の手が、わずかに震えた。映像の中で、アオは何かを見ている。カメラではない。ガラスの向こう側にそこに、青織がいた。
今より少しだけ顔つきが鋭く、けれど今よりずっと疲れた目をしている。彼は隔離槽の前に立ち、何かを言おうとしている。だが音声は入っていない。映像だけが、途切れ途切れに再生される。
澪は息を詰めた。
アオが、笑った。
ひどく小さく。
怖がっているようにも、安心させようとしているようにも見える笑顔だった。
そして、歌い始めた。
音は聞こえない。
けれど、意味だけが流れ込んでくる。
閉じて――
澪の目から涙が落ちた。
自分のものではない悲しみ。けれど、今は少し違った。アオの残響に呑まれているのではない。
目の前にある記録を、澪自身が見ている。青織が、掠れた声で言った。
「……やめろ」
誰に言ったのか分からなかった。映像にか。アオにか。過去の自分にか。
それとも、今もなおこの記録を再生し続ける施設にか。
ブラウン管の映像が乱れる。今度は音が入った。
『対象アオ、歌唱確認』
機械音声だった。
『遮音処理を開始します』
映像の中の青織が、何か叫んでいる。若い彼が隔離槽へ駆け寄る。だがその前に、黒い防護服の隊員が数名、彼を押さえつけた。
青織の手がガラスへ伸びる。アオもまた、ガラス越しに手を伸ばす。
触れない。ほんの数センチ。
その数センチが、決定的な境界だった。
澪は見ていられなかった。
けれど、目を逸らしてはいけない気がした。
映像の中で、遮音装置が起動する。
アオの歌が切れる。
その瞬間、部屋全体の空気が歪んだ。ブラウン管が激しく乱れる。白い部屋の壁に、黒い海が滲む。
処分室の床に、紙片のような波が広がる。数年前の青織が、必死に隊員を振り払おうとする。だが、押さえつけられる。
アオは、隔離槽の中で青織を見ていた。
責めてはいない。
恨んでもいない。
ただ、見ている。
そして、音のない声で何かを言った。
澪は唇の動きを読む。
――見て。
その瞬間、映像が止まった。青織が息を呑む。
「……何だ」
彼は呟いた。
「俺は、そんな言葉を知らない」
成海が画面を見る。
「青織、お前この記録、最後まで見てねぇだろ」
青織は答えない。
「処分後のデータ、封鎖されてた。たぶん上が切ったんだろうな。お前に見せたら面倒だから」
「黙れ」
「黙らねぇよ。ここまで来たんだろ」
成海の声が、少しだけ低くなる。
「なら見ろよ。アオの最後を」
青織が成海を睨む。だが、何も言えなかった。ブラウン管の映像が再び動き出す。
隔離槽の中で、アオの身体が青白く光り始める。
処分装置が起動しているのか、境界が崩れているのか、澪には分からない。だが、アオは消えようとしていた。
青織は叫んでいる。
音声はない。
けれど、それが名前を呼ぶ声だと分かった。
アオ。
アオ。
アオ。
それに反応するように、アオが微笑む。そして、彼女は歌わずに、唇だけを動かした。
――青織。
その瞬間、音響遮断装置が完全に落ちた。
いや、壊れた。
処分室の記録に、歌が戻る。だがそれは、澪が知っているアオの歌とは少し違っていた。
開く歌ではない。
呼ぶ歌でもない。
もっと静かな、折り畳むような旋律。
広がろうとする海へ、そっと手を当てるような歌。
澪の胸の奥の扉が反応した。
これは。閉じる歌。
アオは最後に、世界を閉じようとしていた。
澪は理解した。
アオはただ死んだのではない。ただ処分されたのではない。最後の最後で、自分の消失を使って、開きかけた境界を押し戻そうとしていた。
だから、残響が残った。
だから、歌が澪へ届いた。
だから、今も東京湾で待っている。
「……アオ」
青織がその名を呼んだ。
今度は、押し殺した声ではなかった。ただ、喉の奥から絞り出された声だった。
映像の中で、アオの身体が淡い光へほどけていく。青い髪が揺れ、白い服が水に溶けるように消えていく。
最後に、アオはガラスの向こうの青織を見た。
そして、笑った。
――ごめんね。
音にならない言葉。
けれど今度は、青織にも分かったのだろう。彼の膝が、わずかに沈んだ。
澪は咄嗟に声をかけようとした。
けれど、エンデが小さく首を横に振った。今は、澪が触れる場面ではない。
青織が、一人で見なければならないものだった。
映像が消える。ブラウン管は暗くなった。処分室には、重い静寂が戻る。
青織はしばらく動かなかった。観測銃を握ったまま、白い隔離槽を見つめている。
やがて、低く言った。
「俺は」
声が掠れていた。
「最後まで、何も分かっていなかった」
誰も答えない。
「守れなかっただけじゃない」
青織は続ける。
「あいつが何をしようとしていたのかも、見ていなかった」
エンデが一歩近づいた。
「青織」
青織は目を伏せる。
「アオは、最後まで閉じようとしていた。俺は、それを処分だと思って見ていた」
「青織のせいだけじゃない」
澪は思わず言った。
青織は小さく首を振る。
「そう言われると、逃げたくなる」
「……」
「だから、俺のせいだけじゃないとしても、俺は見なかった。それは俺の責任だ」
青織はゆっくり顔を上げた。その目は、まだ痛みを抱えていた。けれど、さっきまでとは違っていた。
過去に縛られている目ではなく、過去を見た上で、それでも前を見る目だった。
「九条」
「うん」
「お前は、アオの歌をなぞるな」
澪の胸が震えた。
「アオの願いを受け取るのはいい。だが、お前がアオになる必要はない」
「……うん」
「閉じるなら、お前の声で閉じろ」
澪は鈴を握った。音として鳴る前に、内側で静かな共鳴が起きる。
自分の声。アオの残響。エンデの海鳴り。全部が混ざりそうになる。
けれど、青織の言葉が一本の線になって、澪の中へ残った。
――お前の声で閉じろ。
「分かった」
澪は頷いた。
「私、アオにはならない」
エンデが澪を見る。
澪は続けた。
「でも、アオの歌を置いていかない」
「うん」
エンデは頷いた。
「澪は、澪の声で歌う」
成海が後ろで小さく笑った。
「いいねぇ」
青織が睨む。
「台無しにするな」
「いや、本当にいいと思ったんだけどな」
「お前が言うと全部胡散臭い」
「日頃の行いってやつか」
「そうだ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
けれど、次の瞬間。
処分室の奥の壁が、ゆっくり濡れ始めた。
白い壁に、黒い水が滲む。
その水面に、無数の文字が浮かび上がる。
《閉門譜、断片回収》
《海底接続橋、開放条件更新》
《対象:九条澪》
《対象:エンデ》
《対象:青織零》
《対象:成海玲司》
成海が眉を上げた。
「お、俺も対象入り?」
「嬉しそうにするな」
青織が銃を構える。
黒い水の中から、アオの歌が聞こえた。
今度は偽物ではない。けれど、本物だけでもない。アオの閉じる歌に、向こう側の海鳴りが絡みついている。
まるで歌そのものが、海底から引っ張られているようだった。
澪の胸の扉が強く反応する。エンデの髪が淡く光る。青織の観測銃の波紋が震える。成海の右目の奥で、暗い青い輪が揺れる。
黒い水の中に、扉が現れた。白い処分室の壁に、黒い扉。その向こうから、海底接続橋へ続く冷たい風が吹き込んでくる。成海が口角を上げた。
「どうやら、見せてくれるらしい」
青織は低く言った。
「行くぞ」
澪は処分室を一度振り返った。隔離槽は空だった。けれど、そこにいた少女の歌は、確かに残っている。
残響として。
鍵として。
そして、誰かをひとりにしないための願いとして。澪は鈴を握りしめた。
「行こう」
黒い扉の向こうへ、四人は進んだ。
海底接続橋。
東京湾深部へ続く最後の通路が、そこに開いていた。
心の傷は言えなくとも、受け取った思いは引き継がれる。
一行はまた先へゆく。




