音響記録室3
青織の目が鋭くなる。
「境界改竄」
「名前をつけるなら、そうなるのかねぇ」
成海は笑う。
「俺は門を開けるわけじゃない。歌えるわけでもない。固定もできない。できるのは、すでにある境界現象に横から指を突っ込んで、向きを変えること。白鯨の術式を反転させる。管理局の観測網に抜け道を作る。通信や映像に灰域の穴を開ける。他人の境界侵食に一瞬だけ割り込む」
「人間の技術じゃない」
「だろうな」
「白鯨の模倣でもない」
「あんな趣味の悪いのと一緒にすんなよ」
「お前は、それを誰にも言わなかった」
「言う理由がない」
成海は肩をすくめた。
「それに、言ったところでどうなる? 管理局は俺を解剖するかもしれない。白鯨なら高く売るかもな。青織なら……まあ、こういう顔するだろうし」
「今もしている」
「知ってる」
成海は楽しそうに笑った。
だが、澪にはもう少しだけ分かった気がした。この人は、その境界個体を愛していたわけではない。
可哀想だと思っていたわけでもない。名前を与えたわけでも、守ろうとしたわけでもない。
ただ、見た。
何にもなれなかったものが、最後に生きたいと鳴った瞬間を。そして、その意味不明な衝動だけを受け取ってしまった。
さらに彼は、その後どうしたのかまで、淡々と話した。
「消えたあと、膜の残りみたいなのが岸壁に残ってた」
成海は軽い調子で続ける。
「青い光がまだ少しだけ残っててさ。触ると、指の間で水みたいに崩れた。標本にするには脆すぎる。持ち帰るには不安定すぎる。だから、そのまま海へ流した」
澪は息を呑んだ。
「流した……?」
「そ。岸壁から」
成海は何でもないことのように言った。
「波が持っていったよ。黒い海の方へ。あれが供養だったのか、廃棄だったのか、観測終了だったのかは知らない。俺の中では、どれでもよかった」
「……そんな」
「そんなもんだろ」
成海は澪を見た。
「あれは誰にも呼ばれなかった。だから、誰のものでもなかった。記録にも残らない。俺以外は、存在したことすら知らない。なら、海に戻るのが一番自然だ」
その言い方は、なんの情も感じさせなかったが、その語られた動作の中には儀式めいた静謐さがあった。
嘘はなかった。成海にとって本当に、それは廃棄でも供養でもなかったのだろう。
ただ、観測が終わったものを、海へ返した。それだけだった。
「だから、あなたは私たちを見たいんですか」
澪は静かに聞いた。成海がこちらを見る。
「エンデと私が、どうなるのか」
「そうだね」
成海は否定しなかった。
「青織とアオは途中まで行った。名前があって、歌があって、関係があって、それでも守れなかった」
青織の表情が硬くなる。成海は続ける。
「俺の方はもっと前で終わった。名前もない。会話もない。関係になる前に死んだ。残ったのは、生きたいっていう妙な衝動だけ」
成海の目が、澪とエンデを見る。
「だから、見たいんだよ」
声は軽かった。けれど、今度は逃げていなかった。
「名前がある関係は、どこまで行くのか。手を握ったやつらは、どこまで互いを守れるのか。生きたいって願いは、誰かに届いた時、救いになるのか、呪いになるのか」
「実験みたいに言わないで」
澪が言う。
「実験じゃないってば」
成海は笑った。
「観測だ」
「もっと悪い」
「手厳しいねぇ」
その時、観測台の上に青白い光が集まり始めた。
先ほどの声にならない声が、形を取ろうとしている。
透明な膜。曖昧な輪郭。人の形になりきれなかった小さなもの。胸の奥だけが、青く脈打っている。澪は息を止めた。見てはいけない。そう思うのに、目が離せない。
それは、エンデのような姿ではなかった。アオのような少女でもない。顔もない。目もない。髪もない。手足すら、まだ途中だった。
生まれる前の形。
誰かになる前の形。
残響が、器を探している。
澪の胸の奥で、“扉”が反応する。
アオの歌ではない。
エンデの海鳴りでもない。
名前のない、生きたいという共鳴が、澪の扉を叩いている。
入れて。
そう言っているわけではない。
助けて。
そう願っているわけでもない。
ただ、生きたい。
その衝動が、形を求めている。名前を求めている。器を求めている。
澪は膝が震えた。
「私の中に、来ようとしてる……?」
「九条、下がれ」
青織が言う。
エンデが澪の前に立つ。
「だめ」
虹色の瞳が揺れている。
「澪は、器じゃない」
観測台の上の青白い光が、胎児のような輪郭を形作りかける。けれどすぐに崩れる。
何度も、何度も、形になろうとして失敗する。そのたびに、部屋いっぱいに意味が満ちる。
生きたい。
生きたい。
生きたい。
澪は胸を押さえた。
苦しい。泣きたい。怖い。
けれど、これは向こう側の悪意ではない。ただ、生きたいと願っているだけだ。
だからこそ、危険だった。
願いは、時々、悪意よりも強く人を引きずる。
青織が観測銃を構える。
「撃つ」
「やめとけ」
成海が言った。声は平静だった。
「撃てば散る。散ったら施設全体に広がる」
「なら止めろ」
「俺じゃ無理」
「お前が受け取ったものだろう」
「受け取っただけだ。扱えるとは言ってない」
成海は観測台の光を見つめている。その目には、恐怖も後悔もない。
ただ、強い関心があった。
「どう止まるのかは、俺も知らない」
澪はその横顔を見て、ようやく少し分かった気がした。この人は、ずっと見ている。助けるためではなく。悼むためでもなく。理解したいから。
理解できないものが、どう変化するのかを最後まで見たいから。
だから、成海玲司はここにいる。澪は鈴を握った。
「澪、だめ」
エンデが言う。
「近づいたら、引っ張られる」
「でも、このままだと」
「澪が消える」
「消えない」
澪は自分でも驚くほど、はっきり言った。
「消えないようにする」
成海がこちらを見る。青織も。澪は震える息を吸った。
「私は、器じゃない」
自分に言い聞かせるように。そして、観測台の上の影へ向けて。
「あなたも、私じゃない」
青白い影が震える。
生きたい。
その意味が澪の胸へ突き刺さる。澪は泣きそうになりながら、続けた。
「生きたいって思ったことを、なかったことにはしない」
鈴を握る指に力が入る。
「でも、私の中には入れない」
境界侵食が細く伸びる。拒絶ではない。攻撃でもない。境界を引く。こちらと向こうを、混ぜないための線を引く。
「あなたの願いは、あなたのもの」
青白い影の揺れが止まった。
「私は、それを奪わない」
部屋の音が一瞬だけ静まった。成海の顔から、笑みが消えていた。けれどそれは感傷ではなかった。
観察していた現象が、予想外の分岐へ進んだ時の顔だった。澪は最後に言った。
「だから、ここで眠って」
観測台を囲むマイクが、ゆっくり下を向く。
リールの回転が遅くなる。
床に滲んでいた黒い水が、少しずつ引いていく。青白い影は完全には消えなかった。けれど、形を求めて暴れるのをやめ、観測台の上に小さな光として残った。
まるで、誰にも読まれないまま閉じられた本のしおりのように。
澪はその場に膝をつきそうになった。エンデが支える。
「澪!」
「平気……じゃないけど、平気」
「どっち」
「分かんない……」
青織が近づき、端末で澪の状態を確認する。
「深度上昇は一時的だ。戻っている」
「よかった……」
澪は息を吐く。その時、成海が小さく呟いた。
「眠らせる、ねぇ」
澪は顔を上げた。成海は観測台の上の青白い光を見ていた。
「そういう手もあるのか」
その声は、ただ興味深そうだった。
青織が静かに問う。
「お前は、あの時どうしたかった」
成海は少しだけ黙った。それから、いつものように笑った。
「見たかった」
短い答えだった。
「最後に何が鳴るのか。消えたあとに何が残るのか。だから見た」
「それだけか」
「それだけだよ」
成海は青織を見る。
「でも、その“それだけ”が、まだ終わってない」
青織は答えなかった。成海は制御盤へ向かう。
「音響鍵、探すぞ。今ので記録槽が少し開いた。水路制御も触れるはずだ」
澪は観測台の上の小さな青白い光を見つめた。名前のない願い。生きたいという声。
それを眠らせただけで、救えたわけではない。
けれど、取り込まなかった。消さなかった。誰かの器にも、記録にも、道具にもしなかった。
それが正しかったのかは分からない。でも、澪は思った。
境界を閉じるというのは、きっとこういうことなのかもしれない。
混ざり合うものを、ただ拒むのではなく。消し去るのでもなく。それぞれが、それぞれのままでいられる線を引くこと。
成海が制御盤を叩く。古い機械が重い音を立てて動き出す。
《代替音響鍵、照合》
《海底接続橋、部分開放》
《警告:処分室記録との連動を確認》
青織の表情が強張る。
「処分室と連動している?」
成海が画面を見て、嫌そうに笑った。
「やっぱり避けて通れねぇらしいな」
エンデが青織を見る。
「青織」
青織はしばらく黙っていた。観測銃を握る手に、力が入っている。やがて彼は、静かに息を吐いた。
「分かっている」
その声は、先ほどよりも少しだけ低く、けれど逃げてはいなかった。
「処分室へ行く」
澪の胸の奥で、扉が深く鳴った。アオの歌が、遠くから聞こえた気がした。
青織は歩き出す。澪とエンデが続く。成海は最後に、観測台の青白い光を一度だけ見た。
「……海に流しても、まだ鳴るんだな」
その声は、ほとんど笑っていた。侮りではない。感傷でもない。理解できないものへの、奇妙な興味だけがそこにあった。
成海はすぐにいつもの調子で肩をすくめ、三人の後を追う。音響記録室の扉が閉じる。
古い海の声は、ゆっくり遠ざかっていった。
そして四人は、処分室へ続く通路へ向かった。
因縁の処分室へ向かう—




