音響記録室2
成海の過去が明かされる—
成海のそれはあまりにもあっさりした告白だった。
澪は一瞬、成海が冗談を言っているのかと思った。けれど青織の表情が変わる。エンデも目を見開いていた。
「お前にも、いたのか」
青織の声は低かった。
「アオみたいなのを想像してるなら違うぜ」
成海はブラウン管を見たまま言う。
「あれは人の形をしてなかった。喋らない。歌わない。目もない。髪もない。名前もない。手足もまだ途中。胎児みたいな、と言えばそれっぽいけど、あれを胎児って呼ぶのも違う気がするな。人間になる途中じゃなくて、“何か”になる前のものだった」
「岸壁に、そんなものが」
「打ち上げられてた」
成海は軽く言った。
「魚みたいに、というには人間に近すぎた。人間みたいに、というには何も足りなかった。透明な膜に包まれて、胸の奥だけ青く脈打ってた。波が来るたびに、その膜が少しずつ剥がれていく。たぶん、もう長くなかったんだろうな」
ブラウン管の青い滲みが、少し強くなる。水泡のような影が画面の奥に浮かぶ。
部屋のどこかで、水の泡が弾ける音がした。水はないはずだった。けれど、音だけがある。
観測台の周囲のマイクが、ゆっくりと成海の方へ向いた。澪は息を呑む。マイクが、成海を見ている。いや、聞いている。成海は動かなかった。
「俺は、それに色々話しかけたよ」
成海は言った。
「何になるつもりだったんだ、とか。人間か、とか。漂流個体か、とか。門か、とか。それとも何にもなれないまま死ぬのか、とか」
澪は唇を噛んだ。
「ひどい……」
「そうかぁ?」
成海は本気で不思議そうに澪を見る。
「じゃ黙って、じぃーっと見つめているのが優しさなのか?」
「でも」
「でも?」
「何にもなれないまま消えそうなものに、そんなこと……」
「九条ちゃんは優しいねぇ」
成海は笑った。
「優しさって、相手が“相手”になってから発生するもんじゃないの?」
澪は言葉に詰まる。
エンデが眉を寄せた。
「名前がなくても、いる」
「そうだね。君はそう言うだろうな」
成海はエンデを見る。
「君は名前をもらったから」
エンデは小さく息を呑んだ。成海はまたブラウン管へ視線を戻す。
「あれには、そういうのはなかった。青織とアオみたいな関係もない。九条ちゃんと君みたいな出会いもない。手を握るとか、助けるとか、守るとか、そういう話になる前に、あれは崩れていった」
成海は淡々と言う。
「だから、情が湧く時間もなかったねぇ。もしももうちょっと元気だったら今頃エンデちゃんとよちよちここにいたかもなぁ」
その一言は、あまりにも乾いていた。
「可哀想とも思ってない。守れなかったとも思ってない。そういう対象じゃなかった。ただ、興味をそそられたよ。名前も形も声もないものが、最後に何を残すのか。それだけが気になった」
青織の表情が険しくなる。
「お前は、本当に……」
「最低?非人間?サイコ野郎?」
「……」
「よく言われる」
成海は笑う。
その時、天井のスピーカーから低いノイズが流れた。人間の声ではない。歌でもない。言葉でもない。それなのに、意味だけがあった。
生きたい。
澪の胸を、何かが貫いた。
痛みではない。
けれど、痛みに近かった。あまりにも単純で、あまりにもむき出しの感情。
生きたい。
ただ、それだけ。
理由もない。名前もない。誰かに届くための言葉すらない。ただ、世界へしがみつこうとする衝動だけが、音の形を無理やり取っていた。エンデが震えた。
「……泣いてる」
「これが?」
澪の声も震える。
「うん。泣き方、知らない。でも、泣いてる」
成海はスピーカーを見上げた。表情は変わらない。ただ、その目が細くなる。
「それだよ」
彼は言った。
「それが鳴った」
青織が低く問う。
「死の間際か」
「そう」
成海はあっさり頷く。
「こっち側に定着できなかったんだろうな。膜が破れて、輪郭が崩れて、青い光が溶け出して。ああ、終わるなと思って見てた。最後まで反応を取ろうとしてた」
「お前は、助けようとしなかったのか」
「助けられるものに見えたかって話だよ」
「質問に答えろ」
「助けようと思わなかった」
成海は、少しも迷わず言った。
澪は息を呑む。
成海は続ける。
「俺は見てた。消えるところを。どう終わるのかを。何にもなれないものが、最後にどういう反応をするのかを」
スピーカーから、再び意味が漏れる。
生きたい。
生きたい。
生きたい。
「で、流れ込んできた」
成海は自分の胸元を指で軽く叩いた。
「言葉じゃない。歌でもない。記憶でもない。ただの衝動だった。生きたい。まだ何にもなれてないのに。誰にも呼ばれてないのに。形もないのに。それでも生きたい」
彼は少し笑った。
「意味分かんねぇだろ」
その声には、苛立ちも悲しみもない。ただ、理解できないものへの好奇心があった。ずっと解けない問題を、いまだに面白がっているような声だった。
「俺はさ、分からなかったんだよ」
成海は言う。
「名前もない。形もない。関係もない。守られた記憶もない。これから何かになる保証もない。それなのに、なんであんなに強く“生きたい”なんて鳴るのか」
澪は何も言えなかった。青織も、エンデも黙っていた。
「それからだ」
成海は、床に滲み始めた青い波紋を見下ろした。
「俺が境界を弄れるようになったのは」
成海の境界侵食の謎が判明した—
願望だけでどこまでいけるのか、それは誰も知らない。




