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音響記録室

音響記録室は、その名の通り、声を記録するそこで謎の音の記録が漏れだす—

 扉が開いた瞬間、古い海の声が、四人を包み込んだ。

 音響記録室は、巨大な貝殻の内側みたいだった。

 

 壁一面に、古い録音機材が並んでいる。


 磁気テープのリール。ブラウン管モニター。錆びた音響測定器。無数のケーブルが床を這い、配管のように天井へ伸び、そこからまた壁へ戻っている。


 機材のほとんどは死んでいるはずなのに、部屋全体は低く震えていた。

 

 音がある。いや、音というより、眠っている声がそこら中に積もっている。

 

 誰かの吐息。水底で反響する祈り。子供の泣き声。聞き取れない言語。ひび割れた旋律。遠い海鳴り。

 

 澪は部屋に入った瞬間、耳を塞ぎたくなった。けれど手が動かない。耳ではなく、胸の奥で聞こえているからだ。

 

「……すごい」

 

 思わず声が漏れた。その言葉に、部屋の奥のリールがゆっくり回り始める。


 誰も触れていないのに、古い磁気テープが乾いた音を立てて巻き取られていく。

 

 青織が即座に観測銃を上げた。

 

「不用意に喋るなと……」

 

「ご、ごめん」

 

「そして何度も謝るな。ここでは謝罪も記録される」


「それ、もう何も言えないじゃん……」

 

「だから厄介なんだ」

 

 青織は周囲を見回す。

 成海はというと、部屋の入口で少しだけ足を止めていた。

 

 それは、ほんの一瞬だった。けれど澪は見た。成海玲司が、笑みを消していた。恐怖ではない。悲しみでもない。まして、後悔でもない。もっと別のものだった。

 

 顕微鏡の下で、見たことのない生物の細胞が動いた瞬間の研究者みたいな顔。

 暗い海の底で、ありえない光を見つけた人間の顔。成海は、その部屋を見ていた。

 

 いや、部屋ではない。

 この場所に残っている何かを、懐かしむでも悼むでもなく、ただ興味深そうに見つめていた。

 

 次の瞬間には、もういつもの軽い表情に戻っていた。

 

「懐かしいねぇ。埃っぽいし、陰気だし、管理局の趣味ってほんと最悪」

 

 成海はわざとらしく鼻を鳴らしながら中へ入る。青織が目を細めた。

 

「来たことがあるのか」

 

「ここそのものは初めてに近いけどな」

 

 成海は、あっさり答えた。

 

「似た匂いの場所は知ってる。東京湾沿岸の旧観測施設。基地の外れ。岸壁の下。誰も見に行かないような場所」

 

「岸壁?」

 

 青織の声が低くなる。

 

「お前、何を見た」

 

「さあねぇ」

 

「成海」

 

「ここまで来たら隠すほどのことでもねぇか」

 

 成海は肩をすくめた。

 

 部屋の中央には、円形の観測台があった。金属製の椅子が一脚、中央に固定されている。その周囲を囲むように、録音用の古いマイクが何本も立っていた。


 人間の声を録るためというより、何かに歌わせるための装置に見える。エンデが澪の手を強く握った。

 

「ここ、嫌」

 

「分かる」

 

「いっぱい、残ってる」

 

「声が?」

 

「うん。でも、声になる前のものもある」

 

 エンデはうまく言葉を探せないまま、観測台を見つめていた。

 

「泣きたいのに、泣き方を知らない音」

 

 その言い方に、澪の胸が痛んだ。

 

 青織が端末を取り出し、壁際の制御盤へ接続する。


 古い端末が何度かエラーを吐いたあと、画面に青い波形が表示された。

 

「水路制御盤はこの奥だな」

 

「生きてる?」

 

 澪が聞くと、青織は黙ったまま数値を確認した。

 

「半分は」

 

「その返事、最近よく聞く……」

 

「生きている系統を辿れば、海底接続橋の手前まで行ける。ただ、制御を切り替える必要がある」

 

「どうやって?」

 

「音響鍵だ」


 青織が画面の一部を指差す。

 そこには、文字ではなく波形が表示されていた。山と谷が複雑に重なり、まるで楽譜のようにも見える。

 

「この施設は、音で扉や水路を制御していた。普通の暗号鍵では境界内で破損するからだ。特定の音形を認識させて、対応する隔壁を開閉する」

 

「音で鍵を開けるってこと?」

 

「そうだ」

 

 成海が横から覗き込む。

 

「いやー、当時の連中は詩的だねぇ。扉に歌わせるとか、だいぶイカれてる」

 

「管理局じゃない。前身組織だ」

 

「細けぇなあ」

 

「大事な違いだ」

 

 青織は短く言った。

 その声には、過去へのわずかな敬意があった。


 腐る前の組織。まだ、救おうとしていた頃の名前。特殊空間災害対策室。澪はその響きを、改めて心に留めた。

 

「それで、音響鍵は?」

 

「記録室内のどこかに残っているはずだ」

 

 青織が端末を操作する。

 その瞬間、部屋中のブラウン管が一斉に点いた。砂嵐。歪んだ白黒の線。やがて、一台の画面に文字が浮かぶ。

 

《音響記録照合》

《残留音源検索中》

《該当記録なし》

《該当記録なし》

《該当記録なし》

 

 澪は眉をひそめた。

 

「該当記録なし……?」

 

「記録が破損しているか、消されている」

 

 青織が言った。その時、部屋の奥のブラウン管の一つだけが、奇妙な色を帯びた。

 

 ほかの画面は白黒のノイズなのに、その一台だけ、画面の奥に淡い青が滲んでいる。水の中に小さな光が沈んでいるような、奇妙な青だった。

 

 澪の胸がざわつく。アオの歌とは違う。エンデの音とも違う。もっと弱く、もっと曖昧で、けれど妙に生々しい。エンデが小さく呟いた。

 

「……いる」

 

「何が?」

 

「声になる前のもの」

 

 その瞬間、ブラウン管の表示が乱れた。

 

《該当記録なし》

《該当記録なし》

《該当記録なし》

《未登録音源を検知》

《記録照合不能》

《記録照合不能》

《記録照合不能》

 

 部屋の空気が冷える。

 

 青織が端末を操作するが、制御が効いていないらしい。眉間に皺が寄る。

 

「こちらの操作ではない」

 

「施設が勝手に拾ってる?」

 

 澪が聞くと、青織は短く頷いた。

 

「誰の音だ」

 

 その問いに、成海が笑った。いつもの軽薄な笑みだった。けれど、その奥の目だけが、違っていた。

 

「こりゃきっとあいつだなぁ……俺が昔、見つけたやつだよ」

 

 青織が成海を見る。

 

「何かを――見つけたのか?」

 

「そう。基地の外。夜中。雨上がりだったかな。海がやけに黒くてさ、観測灯の下だけ、波が青く光ってた」

 

 成海はブラウン管を見ながら言う。

 

「公式任務じゃない。記録にも残してない。誰にも報告してない。俺が勝手に外を歩いて、勝手に見つけた」

 

「一体、何を」

 

「境界個体」


 成海が無表情で言った。

 

 成海は境界個体とどのように出会った?

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