表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/39

旧・海上観測基底区画

澪たちの目指す門の所在地、旧・海上観測基底区画についた一行。そこにも“向こう側”の魔の手は迫る。

  扉の向こうは、海の底だった。

 

 比喩ではない。足を踏み入れた瞬間、澪は自分の身体が水圧に包まれるような錯覚を覚えた。


 通路には水がない。空気もある。呼吸もできる。なのに、鼓膜の奥がきしみ、肺の内側へ冷たい海が染み込んでくるようだった。

 

 壁は厚い鉄とコンクリートでできていた。ところどころに補強板が打ち込まれ、その隙間から黒い錆が滲んでいる。


 古い非常灯は青白く明滅し、通路の奥へ細い光の列を作っていた。その光の先に、案内板が傾いている。

 

《照合不能者は観測対象として記録する》

 

 澪は最後の一文を見て、思わず足を止めた。

 

「この施設は名前に反応する。特に今は深度が高い。余計な意味を拾わせるな」

 

 澪が読む前に青織が答えた。澪が案内板の文字を読む癖を理解してきたようだ。

 

「名前に反応って……」

 

「旧式の本人確認だよ」

 

 成海が後ろからのんびり言う。

 

「当時の管理局はまだかわいかったからさあ。人間が人間であることを、名前で確認しようとしたわけ。生体認証も顔認証も、境界に入ると当てにならねぇから」

 

「それで、名前?」

 

「そっ、自分が誰かを言えるうちは、まだこっち側。言えなくなったら危ない。で、言い過ぎても危ない。名前を“向こう側”に覚えられるから」

 

 澪の背筋が冷えた。

 名前を言えなければ、消える。

 名前を言い過ぎれば、見つかる。

 

 そのどちらも、境界の中では正しいのだ。エンデが澪の袖を掴んだ。

 

「澪、名前、心の中で強く言わない方がいい」

 

「心の中でも?」

 

「うん。ここ、聞く」

 

 澪は鈴を握った。音として鳴るより先に、内側で細い共鳴が起きる。自分の輪郭が少しだけ戻る。


 九条澪。そう思いかけて、すぐに止めた。名前を手放すのではなく、胸の奥へしまう。誰にも渡さない場所へ。

 

 青織は観測銃を構えたまま、先へ進む。成海は最後尾を歩いていた。手をポケットに突っ込み、まるで廃墟見物でもしているような気楽さだった。

 

「お前、先導する気があるのか」

 

 青織が低く言う。

 

「あるある。ちゃんとあるって」

 

「なら前を歩け」

 

「やだよ。前から変なの来たら怖いじゃん」

 

「怖がるような人間か」

 

「怖いものくらいあるさ。痛いのとか、退屈なのとか、クソ安い缶コーヒーの後味とか」

 

「黙って歩け」

 

「はいはい」

 

 成海は軽く笑ったが、澪は気づいていた。

 

 彼はずっと周囲を見ている。笑っているようで、視線だけが鋭い。

 壁のひび、床の濡れ方、非常灯の点滅の間隔、案内板の文字の滲み具合。何気なく歩いているように見えて、異常の出方を確かめている。

 

 青織が警戒している理由が、少しだけ分かった気がした。

 

 この人は、ふざけているのに油断していない。油断していないのに、ふざけることをやめない。それが不気味だった。

 

 通路の奥で、自動音声が流れた。

 

『入区者を確認しました』

 

 澪の全身が強張る。女の声だった。古い放送機器を通したように、ひどく掠れている。

 

『氏名を申告してください』

 

 青織が足を止めた。

 

「返事をするな」

 

『氏名を申告してください』

 

 声はもう一度繰り返す。

 

『氏名を申告してください』

 

 通路の左右に、ガラス窓が並んでいた。観測室の跡だろうか。中は暗く、何も見えない。


 だが放送が流れるたび、ガラスの向こうで何かが身じろぎする気配がした。

 エンデが小さく呟く。

 

「名前、欲しがってる」

 

「施設か」

 

「違う。施設の声を使ってる」

 

 青織が観測銃を上げる。成海が楽しそうに口笛を吹いた。

 

「ほらな。もう歓迎されてる」

 

「黙れ」

 

『氏名を申告してください』

 

 今度は、声が少し近かった。澪の頭の奥に、直接響いてくる。

 

『あなたは、誰ですか』

 

 その問いに、胸の扉が反応した。

 誰ですか。

 

 九条澪。

 

 そう答えそうになる。

 答えてはいけない。青織も、エンデも、そう言っている。


 けれど問いは甘く、柔らかい。まるで教師に名前を呼ばれた時のように、当然のこととして返事をしたくなる。

 澪は唇を噛んだ。

 

 鈴を握る。内側の共鳴が、散りかけた意識を引き戻す。名前を渡さない。でも、黙ったままでは、この通路に呑まれる。澪は息を吸った。

 

「私たちは、()()する」

 

 自分の名ではなく、意志を言葉にした。

 声は震えていた。けれど、自分の声だった。

 

「ここに名前は置かない」

 

 鈴を握った指先から、細い境界侵食が伸びる。


 南品川地下調律槽でハッチを開けた時よりも慎重に、もっと細く、もっと短く。通路全体を変えようとするのではなく、目の前の問いだけをずらす。

 

 放送が乱れた。

 

『氏名を――』

 

 声が途切れる。

 

『――通過を、確認』

 

 青い非常灯が奥へ向かって一つずつ点灯した。

 エンデが澪を見上げる。

 

「澪、上手くなってる」

 

「今ので?」

 

「うん。澪、名前を取られなかった」

 

 澪は息を吐いた。膝が少し震えている。

 

「怖かった……」

 

「怖いのに、できた」

 

 エンデは真剣に言った。

 

「それ、すごい」

 

 澪は少しだけ笑いそうになった。褒め方が子供みたいで、まっすぐすぎて、かえって胸にくる。

 

 成海が後ろから拍手しようとした瞬間、青織が睨んだ。

 

「拍手するな」

 

「えー、今の良かったじゃん」

 

「黙れと言った」

 

「青織って褒めるの下手だよなあ」

 

「お前よりはましだ」

 

「そうかぁ?」

 

 成海は笑いながら肩をすくめる。

 だがその目は、澪を見ていた。

 

「いや、本当にいいね」

 

 声が少し低くなる。

 

「アオの歌をなぞらなかった。名前も渡さなかった。自分の言葉で、施設の意味を書き換えた」

 

「……何が言いたいの」

 

「君はもう、ただ受信してるだけじゃないってこと」

 成海は言った。

 

「面白くなってきた」

 

 澪は返事をしなかった。

 

 褒められているはずなのに、少しも安心しない。成海の言葉には、いつも薄い刃が混ざっている。

 

 通路を進むと、広い空間へ出た。

 そこは、海底施設の受付ホールのようだった。

 

 天井は低く、太い配管がいくつも走っている。中央には朽ちた受付カウンターがあり、その奥に古い案内表示板が残っていた。

 

《第一観測室》

《隔離観測棟》

《音響記録室》

《処分室》

《海底接続橋》

 

 青織の足が止まった。

 

 処分室。

 

 その三文字だけが、ひどく鮮明に見えた。ほかの文字は錆び、滲み、判別しづらいのに、その文字だけが新しい傷のように残っている。

 

 澪も息を呑む。アオが最後にいた場所。その可能性がある。エンデが小さく青織を見上げた。

 

「青織」

 

「見るな」

 

 青織の声は低かった。

 

「今は、そこへは行かない」

 

 自分に言い聞かせているようだった。成海が案内表示板を見上げる。

 

「正規ルートなら、海底接続橋を通って基底区画の中心へ行く。でも今は多分、途中で沈んでる」

 

「別ルートは」

 

「音響記録室」

 

 成海は指で案内板を叩いた。

 

「そこに古い水路の制御盤がある。生きてれば、処分室を迂回して接続橋の手前に出られる」

 

「生きていれば、か」

 

「まあ、死んでても九条ちゃんが何とかできるかも」

 

「簡単に言わないで」

 

 澪は思わず言った。成海は笑う。

 

「正直でよろしい」

 

「あなた、そればっかり」

 

「好きだねぇ。素直な子は見てて飽きない」

 

「やっぱり見世物扱いしてる」

 

「半分、ね」

 

「残り半分は?」

 

 澪が聞くと、成海は少しだけ黙った。それから、いつもの笑みに戻る。

 

「秘密ぅ〜」

 

 まただ。この人は肝心なところで必ず逃げる。

 澪はそう思った。青織が短く言う。

 

「音響記録室へ行く」

 

「処分室は?」

 

 エンデが尋ねた。青織は答えない。しばらくしてから、低く言った。

 

「今は行かない」

 

「あとで行く?」

 

「……必要ならな」

 

 エンデは少しだけ俯いた。

 

「アオの歌、そこにもあるかも」

 

「分かっている」

 

 青織の声は硬い。

 

「だからこそ、今は行かない」

 

 澪は何も言えなかった。

 見たいはずだ。見たくないはずだ。青織にとって、その部屋はきっと、どちらでもある。


 アオが最後にいた場所。守れなかった場所。自分が組織の言葉を呑み込んでしまった場所。

 

 そこへ踏み込むには、まだ青織自身の準備ができていないのかもしれない。

 

 澪は首元の鈴を握った。自分にも、まだ怖くて見られないものがある。

 

 母の顔。学校。自分の未来。詩や歌を好きだった理由。それでも進まなければならない。受付ホールの奥へ進もうとした時、エンデが突然足を止めた。

 

「待って」

 

 澪も止まる。

 

「どうしたの?」

 

「水の音」

 

 全員が黙った。遠くから、水が流れる音が聞こえる。

 最初は施設の排水音かと思った。


 だが違う。音が、逆から来ている。奥からではない。壁の中からでもない。

 

 足元からだ。澪は床を見る。乾いていたはずの床に、黒い水が薄く広がり始めていた。水面には、小さな文字が浮いている。

 

《氏名照合失敗》

《観測対象へ移行》

《記録を開始します》

 

 青織が舌打ちした。

 

「さっきの通過処理が、完全には通っていない」

 

「え、失敗したの?」


「違う」

 

 成海がしゃがみ込み、水面を覗く。

 

「施設は通してくれた。“向こう側”が横から記録を取ろうとしてるんだよ」

 

「記録?」

 

「君たちの名前じゃなくて、輪郭を」

 

 黒い水の中から、白い手が出た。それは攻撃ではなかった。

 床の上へ這い上がるのではなく、水面そのものに文字を書いている。ひらがな。カタカナ。漢字。異世界語らしい記号。

 

 それらが混ざり合い、澪たちの形を写し取ろうとしていた。九条澪、ではない。青い髪の少年、でもない。

 

 黒いコートの男、でもない。もっと根本的な輪郭。その人がその人であるための形。


「下がれ」

 

 青織が言う。だが、白い手はすでに澪の足元まで伸びていた。エンデが前へ出る。

 

「だめ」

 

 虹色の波紋が広がる。白い手が押し返された。だが、黒い水は消えない。むしろ受付ホール全体に広がっていく。青織が観測銃を構えた。

 

「撃つぞ」


「待った」

 

 成海が止めた。

 

「ここで撃つと、床下の記録槽が開く。そうなると面倒が増える」

 

「知っていたのか」

 

「今気づいた」

 

「役に立たんな」

 

「ひでぇーなー」

 

 澪は黒い水を見た。

 水面に、自分の影が映っている。けれど、その影の髪が一瞬だけ青く見えた。

 

 アオ。

 

 違う。私は澪だ。

 

 そう思った瞬間、影が笑った気がした。胸の扉が揺れる。成海の言葉が蘇る。

 

 君が詩や歌を好きだったのは、本当に君の意思?

 澪の指が震える。エンデがすぐに気づいた。

 

「澪」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫の音じゃない」

 

「……うん」

 

 澪は正直に頷いた。

 

「怖い」

 

 エンデは手を握る。

 

「怖いなら、一緒に怖い」

 

「それ、解決になってないよ」

 

「でも、ひとりじゃない」

 

 その言葉で、澪は息を吸えた。そうだ。今ここにいる。エンデがいる。青織がいる。最悪だけど成海もいる。

 

 自分はまだ、ここにいる。

 

 澪は鈴を握る。音として鳴らさない。

 内側の共鳴を、胸の扉へ重ねる。黒い水を消そうとするのではない。自分たちの輪郭を、奪わせない。

 

 澪は言葉にした。

 

「記録しないで」

 

 水面が揺れる。

 

「私たちは、まだ決まっていない」

 

 白い手が止まる。青織が澪を見る。成海も笑みを消した。澪は続ける。

 

「私たちは、ここで名前を置かない。形も渡さない。まだ、先へ行く途中だから」

 

 境界侵食が、細く広がる。黒い水が完全に消えたわけではない。だが、白い手は水面の奥へ沈んでいく。


 浮かんでいた文字がほどけ、墨を水に溶かしたように滲んで消えた。

 

 受付ホールに静けさが戻る。エンデが小さく言った。

 

「澪、今の言葉、好き」

 

「出会った時もそう言ったよね。あはは、なんか変な感じ」

 

「うん。でも、好き」

 

 澪は少しだけ笑った。青織は短く息を吐く。

 

「行くぞ。今ので時間を稼いだだけだ」

 

「うん」

 

 成海がぽつりと言った。

 

「まだ決まっていない、か」

 

 澪が振り返る。

 

「何か?」

 

「いや」

 

 成海は笑う。

 

「いい言葉だと思ってさ」

 

 その言い方だけは、少しだけ本音に聞こえた。けれど次の瞬間には、いつもの軽さに戻っていた。

 

「じゃあ、未決定の皆さん。音響記録室へ行こうか。たぶん、そこに面白いものが残ってる」

 

「お前の面白いは信用できない」

 

 青織が言う。

 

「じゃあ、役に立つもの」

 

「それも信用できん」

 

「青織、俺のこと嫌いすぎだろ」

 

「好きになる要素がない」

 

「照れるなあ」

 

「撃つぞ」

 

「メンゴ〜」

 

 成海は笑いながら歩き出す。

 澪はその背中を見た。

 

 軽薄で、危険で、信用できない男。

 

 けれど、さっきの一瞬。まだ決まっていない、という言葉に反応した成海の横顔には、何か別のものがあった。

 名前もない。形もない。まだ何にもなれていないもの。そんな言葉が、なぜか澪の脳裏をよぎる。

 

 成海は何を見たのだろう。何を、まだ決められずにいるのだろう。問いは喉元まで来たが、澪は飲み込んだ。

 今はまだ、聞く時ではない気がした。

 

 通路の奥に、《音響記録室》の表示が見える。

 その扉の向こうから、かすかな歌が漏れていた。

 

 アオの歌ではない。もっと古い。もっと大勢の。

 泣き声にも、祈りにも、記録にも似た声だった。

 

 澪は鈴を握り、エンデの手を握り直した。青織は観測銃を構える。成海は扉の前で、振り返って笑った。

 

「さて」

 

 軽い声だった。

 

「ここからは、音を読む時間だ」

 

 扉が開いた。

 

 その瞬間、古い海の声が、四人を包み込んだ。

少しずつ旧・海上観測基底区画の施設を巡る一行。澪の力も成長し、先はまだ長い—

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ