旧・海上観測基底区画
澪たちの目指す門の所在地、旧・海上観測基底区画についた一行。そこにも“向こう側”の魔の手は迫る。
扉の向こうは、海の底だった。
比喩ではない。足を踏み入れた瞬間、澪は自分の身体が水圧に包まれるような錯覚を覚えた。
通路には水がない。空気もある。呼吸もできる。なのに、鼓膜の奥がきしみ、肺の内側へ冷たい海が染み込んでくるようだった。
壁は厚い鉄とコンクリートでできていた。ところどころに補強板が打ち込まれ、その隙間から黒い錆が滲んでいる。
古い非常灯は青白く明滅し、通路の奥へ細い光の列を作っていた。その光の先に、案内板が傾いている。
《照合不能者は観測対象として記録する》
澪は最後の一文を見て、思わず足を止めた。
「この施設は名前に反応する。特に今は深度が高い。余計な意味を拾わせるな」
澪が読む前に青織が答えた。澪が案内板の文字を読む癖を理解してきたようだ。
「名前に反応って……」
「旧式の本人確認だよ」
成海が後ろからのんびり言う。
「当時の管理局はまだかわいかったからさあ。人間が人間であることを、名前で確認しようとしたわけ。生体認証も顔認証も、境界に入ると当てにならねぇから」
「それで、名前?」
「そっ、自分が誰かを言えるうちは、まだこっち側。言えなくなったら危ない。で、言い過ぎても危ない。名前を“向こう側”に覚えられるから」
澪の背筋が冷えた。
名前を言えなければ、消える。
名前を言い過ぎれば、見つかる。
そのどちらも、境界の中では正しいのだ。エンデが澪の袖を掴んだ。
「澪、名前、心の中で強く言わない方がいい」
「心の中でも?」
「うん。ここ、聞く」
澪は鈴を握った。音として鳴るより先に、内側で細い共鳴が起きる。自分の輪郭が少しだけ戻る。
九条澪。そう思いかけて、すぐに止めた。名前を手放すのではなく、胸の奥へしまう。誰にも渡さない場所へ。
青織は観測銃を構えたまま、先へ進む。成海は最後尾を歩いていた。手をポケットに突っ込み、まるで廃墟見物でもしているような気楽さだった。
「お前、先導する気があるのか」
青織が低く言う。
「あるある。ちゃんとあるって」
「なら前を歩け」
「やだよ。前から変なの来たら怖いじゃん」
「怖がるような人間か」
「怖いものくらいあるさ。痛いのとか、退屈なのとか、クソ安い缶コーヒーの後味とか」
「黙って歩け」
「はいはい」
成海は軽く笑ったが、澪は気づいていた。
彼はずっと周囲を見ている。笑っているようで、視線だけが鋭い。
壁のひび、床の濡れ方、非常灯の点滅の間隔、案内板の文字の滲み具合。何気なく歩いているように見えて、異常の出方を確かめている。
青織が警戒している理由が、少しだけ分かった気がした。
この人は、ふざけているのに油断していない。油断していないのに、ふざけることをやめない。それが不気味だった。
通路の奥で、自動音声が流れた。
『入区者を確認しました』
澪の全身が強張る。女の声だった。古い放送機器を通したように、ひどく掠れている。
『氏名を申告してください』
青織が足を止めた。
「返事をするな」
『氏名を申告してください』
声はもう一度繰り返す。
『氏名を申告してください』
通路の左右に、ガラス窓が並んでいた。観測室の跡だろうか。中は暗く、何も見えない。
だが放送が流れるたび、ガラスの向こうで何かが身じろぎする気配がした。
エンデが小さく呟く。
「名前、欲しがってる」
「施設か」
「違う。施設の声を使ってる」
青織が観測銃を上げる。成海が楽しそうに口笛を吹いた。
「ほらな。もう歓迎されてる」
「黙れ」
『氏名を申告してください』
今度は、声が少し近かった。澪の頭の奥に、直接響いてくる。
『あなたは、誰ですか』
その問いに、胸の扉が反応した。
誰ですか。
九条澪。
そう答えそうになる。
答えてはいけない。青織も、エンデも、そう言っている。
けれど問いは甘く、柔らかい。まるで教師に名前を呼ばれた時のように、当然のこととして返事をしたくなる。
澪は唇を噛んだ。
鈴を握る。内側の共鳴が、散りかけた意識を引き戻す。名前を渡さない。でも、黙ったままでは、この通路に呑まれる。澪は息を吸った。
「私たちは、通過する」
自分の名ではなく、意志を言葉にした。
声は震えていた。けれど、自分の声だった。
「ここに名前は置かない」
鈴を握った指先から、細い境界侵食が伸びる。
南品川地下調律槽でハッチを開けた時よりも慎重に、もっと細く、もっと短く。通路全体を変えようとするのではなく、目の前の問いだけをずらす。
放送が乱れた。
『氏名を――』
声が途切れる。
『――通過を、確認』
青い非常灯が奥へ向かって一つずつ点灯した。
エンデが澪を見上げる。
「澪、上手くなってる」
「今ので?」
「うん。澪、名前を取られなかった」
澪は息を吐いた。膝が少し震えている。
「怖かった……」
「怖いのに、できた」
エンデは真剣に言った。
「それ、すごい」
澪は少しだけ笑いそうになった。褒め方が子供みたいで、まっすぐすぎて、かえって胸にくる。
成海が後ろから拍手しようとした瞬間、青織が睨んだ。
「拍手するな」
「えー、今の良かったじゃん」
「黙れと言った」
「青織って褒めるの下手だよなあ」
「お前よりはましだ」
「そうかぁ?」
成海は笑いながら肩をすくめる。
だがその目は、澪を見ていた。
「いや、本当にいいね」
声が少し低くなる。
「アオの歌をなぞらなかった。名前も渡さなかった。自分の言葉で、施設の意味を書き換えた」
「……何が言いたいの」
「君はもう、ただ受信してるだけじゃないってこと」
成海は言った。
「面白くなってきた」
澪は返事をしなかった。
褒められているはずなのに、少しも安心しない。成海の言葉には、いつも薄い刃が混ざっている。
通路を進むと、広い空間へ出た。
そこは、海底施設の受付ホールのようだった。
天井は低く、太い配管がいくつも走っている。中央には朽ちた受付カウンターがあり、その奥に古い案内表示板が残っていた。
《第一観測室》
《隔離観測棟》
《音響記録室》
《処分室》
《海底接続橋》
青織の足が止まった。
処分室。
その三文字だけが、ひどく鮮明に見えた。ほかの文字は錆び、滲み、判別しづらいのに、その文字だけが新しい傷のように残っている。
澪も息を呑む。アオが最後にいた場所。その可能性がある。エンデが小さく青織を見上げた。
「青織」
「見るな」
青織の声は低かった。
「今は、そこへは行かない」
自分に言い聞かせているようだった。成海が案内表示板を見上げる。
「正規ルートなら、海底接続橋を通って基底区画の中心へ行く。でも今は多分、途中で沈んでる」
「別ルートは」
「音響記録室」
成海は指で案内板を叩いた。
「そこに古い水路の制御盤がある。生きてれば、処分室を迂回して接続橋の手前に出られる」
「生きていれば、か」
「まあ、死んでても九条ちゃんが何とかできるかも」
「簡単に言わないで」
澪は思わず言った。成海は笑う。
「正直でよろしい」
「あなた、そればっかり」
「好きだねぇ。素直な子は見てて飽きない」
「やっぱり見世物扱いしてる」
「半分、ね」
「残り半分は?」
澪が聞くと、成海は少しだけ黙った。それから、いつもの笑みに戻る。
「秘密ぅ〜」
まただ。この人は肝心なところで必ず逃げる。
澪はそう思った。青織が短く言う。
「音響記録室へ行く」
「処分室は?」
エンデが尋ねた。青織は答えない。しばらくしてから、低く言った。
「今は行かない」
「あとで行く?」
「……必要ならな」
エンデは少しだけ俯いた。
「アオの歌、そこにもあるかも」
「分かっている」
青織の声は硬い。
「だからこそ、今は行かない」
澪は何も言えなかった。
見たいはずだ。見たくないはずだ。青織にとって、その部屋はきっと、どちらでもある。
アオが最後にいた場所。守れなかった場所。自分が組織の言葉を呑み込んでしまった場所。
そこへ踏み込むには、まだ青織自身の準備ができていないのかもしれない。
澪は首元の鈴を握った。自分にも、まだ怖くて見られないものがある。
母の顔。学校。自分の未来。詩や歌を好きだった理由。それでも進まなければならない。受付ホールの奥へ進もうとした時、エンデが突然足を止めた。
「待って」
澪も止まる。
「どうしたの?」
「水の音」
全員が黙った。遠くから、水が流れる音が聞こえる。
最初は施設の排水音かと思った。
だが違う。音が、逆から来ている。奥からではない。壁の中からでもない。
足元からだ。澪は床を見る。乾いていたはずの床に、黒い水が薄く広がり始めていた。水面には、小さな文字が浮いている。
《氏名照合失敗》
《観測対象へ移行》
《記録を開始します》
青織が舌打ちした。
「さっきの通過処理が、完全には通っていない」
「え、失敗したの?」
「違う」
成海がしゃがみ込み、水面を覗く。
「施設は通してくれた。“向こう側”が横から記録を取ろうとしてるんだよ」
「記録?」
「君たちの名前じゃなくて、輪郭を」
黒い水の中から、白い手が出た。それは攻撃ではなかった。
床の上へ這い上がるのではなく、水面そのものに文字を書いている。ひらがな。カタカナ。漢字。異世界語らしい記号。
それらが混ざり合い、澪たちの形を写し取ろうとしていた。九条澪、ではない。青い髪の少年、でもない。
黒いコートの男、でもない。もっと根本的な輪郭。その人がその人であるための形。
「下がれ」
青織が言う。だが、白い手はすでに澪の足元まで伸びていた。エンデが前へ出る。
「だめ」
虹色の波紋が広がる。白い手が押し返された。だが、黒い水は消えない。むしろ受付ホール全体に広がっていく。青織が観測銃を構えた。
「撃つぞ」
「待った」
成海が止めた。
「ここで撃つと、床下の記録槽が開く。そうなると面倒が増える」
「知っていたのか」
「今気づいた」
「役に立たんな」
「ひでぇーなー」
澪は黒い水を見た。
水面に、自分の影が映っている。けれど、その影の髪が一瞬だけ青く見えた。
アオ。
違う。私は澪だ。
そう思った瞬間、影が笑った気がした。胸の扉が揺れる。成海の言葉が蘇る。
君が詩や歌を好きだったのは、本当に君の意思?
澪の指が震える。エンデがすぐに気づいた。
「澪」
「大丈夫」
「大丈夫の音じゃない」
「……うん」
澪は正直に頷いた。
「怖い」
エンデは手を握る。
「怖いなら、一緒に怖い」
「それ、解決になってないよ」
「でも、ひとりじゃない」
その言葉で、澪は息を吸えた。そうだ。今ここにいる。エンデがいる。青織がいる。最悪だけど成海もいる。
自分はまだ、ここにいる。
澪は鈴を握る。音として鳴らさない。
内側の共鳴を、胸の扉へ重ねる。黒い水を消そうとするのではない。自分たちの輪郭を、奪わせない。
澪は言葉にした。
「記録しないで」
水面が揺れる。
「私たちは、まだ決まっていない」
白い手が止まる。青織が澪を見る。成海も笑みを消した。澪は続ける。
「私たちは、ここで名前を置かない。形も渡さない。まだ、先へ行く途中だから」
境界侵食が、細く広がる。黒い水が完全に消えたわけではない。だが、白い手は水面の奥へ沈んでいく。
浮かんでいた文字がほどけ、墨を水に溶かしたように滲んで消えた。
受付ホールに静けさが戻る。エンデが小さく言った。
「澪、今の言葉、好き」
「出会った時もそう言ったよね。あはは、なんか変な感じ」
「うん。でも、好き」
澪は少しだけ笑った。青織は短く息を吐く。
「行くぞ。今ので時間を稼いだだけだ」
「うん」
成海がぽつりと言った。
「まだ決まっていない、か」
澪が振り返る。
「何か?」
「いや」
成海は笑う。
「いい言葉だと思ってさ」
その言い方だけは、少しだけ本音に聞こえた。けれど次の瞬間には、いつもの軽さに戻っていた。
「じゃあ、未決定の皆さん。音響記録室へ行こうか。たぶん、そこに面白いものが残ってる」
「お前の面白いは信用できない」
青織が言う。
「じゃあ、役に立つもの」
「それも信用できん」
「青織、俺のこと嫌いすぎだろ」
「好きになる要素がない」
「照れるなあ」
「撃つぞ」
「メンゴ〜」
成海は笑いながら歩き出す。
澪はその背中を見た。
軽薄で、危険で、信用できない男。
けれど、さっきの一瞬。まだ決まっていない、という言葉に反応した成海の横顔には、何か別のものがあった。
名前もない。形もない。まだ何にもなれていないもの。そんな言葉が、なぜか澪の脳裏をよぎる。
成海は何を見たのだろう。何を、まだ決められずにいるのだろう。問いは喉元まで来たが、澪は飲み込んだ。
今はまだ、聞く時ではない気がした。
通路の奥に、《音響記録室》の表示が見える。
その扉の向こうから、かすかな歌が漏れていた。
アオの歌ではない。もっと古い。もっと大勢の。
泣き声にも、祈りにも、記録にも似た声だった。
澪は鈴を握り、エンデの手を握り直した。青織は観測銃を構える。成海は扉の前で、振り返って笑った。
「さて」
軽い声だった。
「ここからは、音を読む時間だ」
扉が開いた。
その瞬間、古い海の声が、四人を包み込んだ。
少しずつ旧・海上観測基底区画の施設を巡る一行。澪の力も成長し、先はまだ長い—




