開錠
成海は自らが鍵を渡したハッチの前に現れた—
その意中はまだわからず……?
夜明け前の東京湾は、黒かった。
倉庫の屋根の縁に座った男が、軽く拍手を続けていた。
ブリーチで痛んだ柔らかい髪が月の光を鈍く反射している。男を見て、青織の表情が瞬時に硬くなる。
成海玲司は笑っていた。その笑みが、澪には怖かった。伊坂のように冷たいわけではない。
境界管理局の仮面のように無機質なわけでもない。むしろ、明るい。軽い。親しげですらある。
だから余計に、怖い。この人はきっと、何かが壊れているのではない。
壊れていることを、楽しんでいる。
「初めまして〜、九条ちゃん」
成海は屋根の上から、澪を見下ろした。
「君の扉、なかなか面白いことになってるね」
澪は鈴を握った。紫乃にもらった小さな鈴。音として鳴るよりも先に、内側で細い共鳴が起きる。胸の奥の扉の輪郭が、かすかに戻ってくる。
「……私、あなたに境界侵食を見せた覚えはないです」
「そうだねぇ。直接は見てねぇな」
成海はペットボトルを軽く振る。
「でも、白鯨の観測ログには残ってた。渋谷で扉を開いた時の微弱波形。南品川地下調律槽で使った境界侵食の痕跡。あと、君がアオの歌に引っ張られた時の歪み」
澪の背筋が冷える。
「知っていたの?」
「知ってたというより、拾ったというべきかなぁ。東京中、いま音だらけだからね〜、境界が薄くなると普通は消えるはずの感情も、波みたいに残るってワケ」
成海は笑ったまま言う。
「君の痕跡――音は、けっこう目立つんだぜ」
エンデが澪の前へ出た。
新しいスニーカーはまだ濡れている。南品川地下調律槽を抜けた時、水を吸ってしまったのだ。
本人はずっと不満そうだったが、今は足元の感触を気にする余裕もないらしい。
「澪を見ないで」
小さな声だった。けれど、はっきりした拒絶だった。
成海は少し目を細める。
「へえ?もしかして君が音に聞こえしエンデちゃん?ちっちぇ〜!派手髪かわいい〜!」
その声は、楽しそうだった。
「エンデ、全部馬鹿にされてる。怒る」
「うん、うん。分かる。すごく分かりやすい」
「エンデ、成海嫌い」
「悪かったってぇ。身長はすぐ伸びるし、派手髪低身長もモテる時代は来るって」
「悪いと思ってない」
「ばれた?」
成海は笑った。青織が一歩前へ出る。
「何の用だ」
「ちょいと案内のご提案がありまして」
「頼んだ覚えはない」
「営業ぐらいさせてくれよ〜」
「いらん。帰れ」
「やだね」
即答だった。
青織の観測銃がわずかに上がる。銃口はまだ向けていない。だが、いつでも撃てる角度だった。
成海はそれを見ても、まるで気にしない。
「そんな怖い顔するなって。せっかく補助ハッチの鍵、あげたのにさあ」
「罠だろう」
「半分はな」
「残り半分は」
「本物の道さね」
成海は屋根の縁から軽く飛び降りた。
着地の瞬間、足元の水たまりが黒く波打つ。
だが成海の靴は濡れなかった。水そのものが彼を避けるように、薄く左右へ割れた。
澪は息を呑む。あれも、境界侵食だ。エンデのものとも違う。澪のものとも違う。青織の境界固定とも違う。
もっと歪で、もっと人間臭い。水面に指を差し込んで、無理やり形を変えているような力。
「……あなたも」
澪は思わず呟いた。
「境界侵食を使えるの?」
成海は笑顔のまま、澪を見る。
「ん?そう見えた?」
「う、うん……」
「じゃあ、そうなんじゃない?」
「答えになってない」
「答えって、そんなに欲しいか?」
成海の声が少しだけ低くなる。
「答えをもらったら、安心できる?」
澪は言葉に詰まった。成海は近づいてくる。青織が即座に間へ入った。
「それ以上近づくな」
「過保護だなあ」
「警告だ」
「わかった、わかったって」
成海は両手を上げた。
「今日は揉めに来たわけじゃない。ここでお前らが潰れたら困るんだよ」
「困る?」
青織の声が冷える。
「お前が?」
「うん」
「なぜだ」
「見たいから」
成海はあっさり言った。
「お前らが、どこまで行けるのか」
その言葉は、古書店で聞いた成海の話と同じだった。
澪は胸の奥に、嫌な感覚が広がるのを感じる。
見たい。
成海は何度もそう言う。
助けたいでも、止めたいでも、救いたいでもない。
見たい。
澪とエンデがどう変わるのか。青織が今度こそ何を守るのか。アオの歌が、どこへ届くのか。
この人は、全部を観客席から眺めようとしている。けれど、なぜだろう。ただの悪趣味だけではない気がした。澪は鈴を握る指に力を込める。
「私たちは、見世物じゃない……!」
「だろうね」
「だったら……!」
「でも、見せ物になりたくないからって、誰にも見られずに済むと思ってんの?」
成海は澪を見た。
色付き眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。
「君はもう、境界に見つかってる。管理局にも見つかってる。白鯨にも見つかってる。アオの歌にも見つかってる」
澪の呼吸が止まる。
「そして、君自身が君を見つけられていない」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
「……どういう意味ですか」
「君が詩や歌を好きだったのは、本当に君の意思?」
成海は穏やかに言った。
「言葉に惹かれたこと。歌を聞いて泣いたこと。紫峯大学を目指したこと。誰かの残した言葉を知りたいと思ったこと」
澪は唇を噛む。
「それは」
「アオの歌に引っ張られてただけかもしれない」
エンデが小さく息を呑んだ。青織が低く言う。
「成海」
「ほーらすぐ怒る〜、聞けよ。大事な話だろ」
成海は青織を見ず、澪だけを見ていた。
「君はアオじゃない。でも、アオの歌に人生を曲げられた。それでも、それは自分の意思だって言える?」
澪は答えられなかった。
雨燕古書店で、エンデは言ってくれた。澪が読んだ本は、澪が読んだ。澪が歌いたいと思ったのは、澪。
その言葉に救われた。けれど、成海の問いは、それでもまだ胸の奥へ食い込んでくる。
自分が好きだったものは、本当に自分だけのものだったのか。
詩を読んで涙が出たことも。
合唱で胸が震えたことも。
言葉で誰かを救えると信じたかったことも。
アオの残響が、自分をそこへ導いただけなのではないか?
詩や歌を本気で志したのは、確か高校に入って――あれ?アオの死んだ時期と被るのではないか?
私はその時期、ずっと夢を見ていた。今もだ。扉から聞こえてくる歌――
もしそうなら。
成海の言っていることが正しいなら。
九条澪とは、どこからどこまでが九条澪なのだろう。
「澪」
エンデが手を握った。小さな手だった。冷たく濡れているのに、確かに温かかった。
「澪は、澪」
それは、単純な言葉だった。理屈ではない。でも、今の澪には、その単純さが必要だった。
「エンデがそう思うから?」
成海が尋ねる。エンデは少しだけ眉を寄せた。
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「澪が、エンデの名前をくれたから」
その声は、静かだった。
「澪は、アオじゃない。アオは、エンデに名前をくれなかった。澪がくれた」
成海の表情が、ほんの少しだけ変わった。澪も、息を呑んだ。
「澪が、エンデを見つけた」
エンデは続ける。
「だから、澪は澪」
言葉は拙い。けれど、それ以上の証明はないように思えた。澪はエンデの手を握り返した。
「……ありがとう」
「うん」
成海はしばらく二人を見ていた。そして、小さく笑った。
「いいねぇ」
いつもの軽薄な笑みに戻る。
「そういうのが見たいんだよ、俺は」
青織が苛立ったように言う。
「満足したなら消えろ」
「まだだな」
「何がまだだ」
「入口まで案内するって言ったろ」
成海は湾岸の奥を指差した。コンテナの影が並ぶその先に、封鎖フェンスが見える。
境界管理局の警告灯が、赤ではなく青黒く点滅していた。フェンスの向こうには、地上施設の残骸のような低い建物がある。
そのさらに奥。東京湾の黒い海面へ突き出すように、古い桟橋が伸びていた。
「旧・海上観測基底区画の補助ハッチは、あの桟橋の下」
成海が言う。
「ただし、普通には入れない」
「鍵がある」
青織がポケットの中の金属片を意識する。
「鍵だけじゃ駄目なんだよねぇ。あそこ、半分こっち側で、半分向こう側に沈んでる。鍵穴がたまに消える」
「消える?」
澪が聞く。
「そう。見えてる時に開けないと入れない。しかも、近づくと向こう側の海が反応する」
成海は楽しそうに言った。
「たぶん、君なら開けられるよ。澪ちゃん」
澪の喉が乾いた。
「私が」
「君の境界侵食は、扉に向いてる」
成海は指で空中に四角を描く。
「エンデは門そのものに近い。青織は意味を固定する。俺は……まあ、ちょっとした改竄」
「ちょっとで済むか」
青織が吐き捨てる。
「で、君は開く。あるいは閉じる」
澪は自分の胸元を押さえた。
扉。
開く力。
閉じる力。
それはずっと、自分の中にあるものとして語られてきた。けれど、実感はまだない。
開いてしまったことはある。暴走したこともある。黒い海を呼び込んだこともある。
でも、閉じたことはまだない。
「怖い顔してるね」
成海が言った。
「怖いし、なんか胡散臭い」
「正直でよろしい」
「怖くないふりして、平気な顔で人を試すよりはまし」
一瞬、空気が止まった。青織がわずかに澪を見る。エンデも目を丸くする。
成海は、数秒だけ黙った。それから、声を出して笑った。
「あはは」
本当に楽しそうだった。
「いいなあ、君。青織よりずっと面白ぇわ」
「嬉しくもなんともない」
「そーゆーとこもいい」
青織が低く言う。
「九条、相手にするな」
「……っ、ごめん」
「謝らなくていい。こいつが悪い」
「ひどいなあ」
成海は肩をすくめた。
その時だった。東京湾の方から、低い音が響いた。
雷ではない。爆発でもない。もっと深い。海底で巨大な鉄扉が軋むような音。澪の胸の扉が強く反応した。
エンデの髪の青が、微かに白く退色する。
「……来る」
エンデが呟いた。
「何が?」
「海の底」
次の瞬間、湾の中央で黒い海面が盛り上がった。波ではなかった。水面そのものが、内側から押されるように膨らんでいる。
黒い海が空へ向かって持ち上がり、その奥から、細く巨大な影がさらに立ち上がる。
塔。
そう見えた。
だが建造物ではない。水でできた柱でもない。無数の扉が重なり合い、縦に積み上がっているような影だった。開きかけの扉。
閉じかけの扉。錆びた扉。白い扉。地下鉄の非常扉。講堂の木製扉。知らない家の玄関。病室の扉。処分室の扉。
それらが海の中央で、一本の塔のように絡み合っている。
澪は呼吸を忘れた。
その塔の奥から、歌が聞こえた。
アオの歌。
けれど、もう澄んではいない。南品川地下調律槽で聞いた、あの歪んだ歌と同じだ。誰かが、アオの歌をまとっている。
そして、待っている。
「……東京湾で待ってる」
澪は無意識に呟いていた。
成海がその横顔を見た。
「ほら」
彼は嬉しそうに言った。
「迎えが来た」
青織が観測銃を構える。
「急ぐぞ」
「うんうん。急いだ方がいい」
成海は軽く歩き出した。
「でも気をつけな。ここから先は、敵より海の方が面倒だ」
「お前も面倒だ」
「それは否定しない」
三人と一人は、倉庫群の隙間を抜けて桟橋へ向かった。
封鎖区域の地面には、管理局の標識が倒れていた。澪はなるべく読まないようにした。しかし、視界の端で文字が滲む。
《まだ帰れる》
澪は鈴を握る。内側の共鳴が、広がりそうになる意識を細く結び直す。まだ帰れる。その言葉は甘い。
家に帰りたい。母に会いたい。学校へ行きたい。模試の結果に落ち込むだけの、普通の不安に戻りたい。
詩集を開いて、知らない誰かの言葉に胸を震わせるだけの夜に戻りたい。
けれど。戻るということは、なかったことにすることではない。
エンデの手を、握ったこと。
青織がアオの名前を呼んだこと。
紫乃が本を渡してくれたこと。
アオの歌を受け取ったこと。
それを全部置いて帰ることは、もうできない。
「澪」
エンデが言う。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「うん」
「でも、行く」
「うん」
エンデは頷いた。
「エンデも行く」
「靴、濡れてるけど?」
「靴の信用は下がった。でも、エンデは行く」
澪は少しだけ笑った。こんな状況なのに。
いや、こんな状況だからこそ、その言葉に救われた。
桟橋の下へ降りる階段は、半分海水に沈んでいた。成海が先に下りる。青織が続く。澪とエンデも、足元に気をつけながら降りた。
そこには、古い鉄製の丸扉があった。船の隔壁扉に似ている。表面には、塩と錆が厚くこびりつき、中央に小さな鍵穴がある。
だが、その鍵穴は安定していなかった。見えているのに、見えなくなる。そこにあるのに、目を向けると別の場所へずれる。
まるで、扉そのものがこちらを見ることを拒んでいるようだった。
「これが補助ハッチ」
成海が言う。
「ヘイ、青織。鍵」
青織は成海を睨んでから、錆びた鍵を取り出した。
鍵穴へ近づける。
だが、鍵穴が消えた。いや、消えたのではない。海面へ移った。扉の中央ではなく、足元の黒い水の中へ。
「……面倒な」
青織が低く言う。
「だから言ったろ。普通には入れないって」
成海が楽しそうに笑う。澪は扉を見た。
胸の奥の“扉”が反応している。この扉は、閉じているのではない。迷っている。そう感じた。
「澪」
エンデが隣で言う。
「これ、澪の言葉で、開くかも」
「うん」
澪は鈴を握った。
歌わない。まだ、歌わない。
アオの歌をなぞれば、きっと扉は反応する。けれど、それは向こう側が待っている道だ。
だから、澪は言葉にする。
自分の声で。
「私たちは、入る」
扉の錆が、微かに震えた。成海が笑みを消す。青織が鍵を構え直す。澪は続けた。
「開いて」
命令ではない。
祈りでもない。
ただ、意志だった。
「私たちは、海の底へ行く」
鈴を握る指先から、細い境界侵食が伸びた。水面が割れる。消えていた鍵穴が、扉の中央へ戻る。青織がすかさず鍵を差し込んだ。
重い音がした。扉の奥で、巨大な機構が目を覚ます。錆びついた歯車が回り、海水が逆流し、黒い泡が浮かぶ。
丸扉が、ゆっくり開いた。中から吹き出したのは、冷たい空気だった。潮の匂い。古い金属の匂い。そして、かすかな歌。成海が呟く。
「ようこそ」
その声だけが、やけに静かだった。
「旧・海上観測基底区画へ」
澪は暗い入口を見つめた。その奥に、アオの歌がある。海の底の扉がある。
そしてきっと、自分が本当に何を選ぶのかを問う場所がある。澪はエンデの手を握り、青織の背中を見た。
「行こう」
自分の声で言った。
誰かの残響ではなく。
九条澪の声で。
そして三人と一人は、黒い海の下へ続く通路へ足を踏み入れた。
澪たちが目指す、異界の門の所在地、旧・海上観測基底区画へ到達。
この先には何が待ち受けているのか—




