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灰色の排水区画

区画を進んでいくと、そこには意外な人物たちが現れた—

 旧排水区画は、ほとんど街の死骸だった。

 

 天井は低く、配管が血管のように走っている。壁には古い水位線が幾重にも残り、ところどころに錆びた鉄梯子や、使われなくなった点検灯がぶら下がっていた。


 足元には薄い水が広がっている。南品川地下調律槽の水よりも濁っていて、油膜のような虹色が時折、非常灯の光を受けて揺れた。

 

 澪たちがしばらく進んでいると、前方の通路に白い光が走った。

 

 青織が即座に足を止める。観測銃が肩から滑るように構えられた。エンデが澪の前へ半歩出る。澪も鈴を握った。

 

 通路の奥。排水区画の分岐点に、黒い防護服の人影が立っていた。

 一人ではない。四人。

 

 全員が境界管理局の装備を身につけている。ただし渋谷第十三駅で見た隊員たちよりも動きが静かだった。銃口を向けてはいるが、すぐに撃つ気配はない。

 

 中央に立つ男だけが、仮面を外していた。四十代半ばほどだろうか。短く刈った髪に、疲れた目。顔の左側には古い火傷の痕が残っている。彼は青織を見ると、どこか痛ましげに目を細めた。

 

「青織零」

 

 低い声だった。

 

「やはり、お前だったか」

 

 青織の表情がわずかに変わる。

 

「……久我班長」

 

「お前にとっては()班長だがな」

 

 久我と呼ばれた男が低い声で言う。

 澪は二人を交互に見た。

 

「知り合い?」

 

「元上官だ」

 

 青織は銃口を下げないまま答えた。

 久我は澪とエンデへ視線を移した。


 澪は反射的に身構える。だが、久我の目には、白鯨のような値踏みの色はなかった。警戒。疲労。そして、抑え込んだ焦り。

 

「九条澪。漂流個体エンデ。こちらは両名を第一級保護対象として扱う命令を受けている」

 

「保護?」

 

 澪は思わず聞き返した。

 

「駅では銃を向けられましたけど」

 

 久我の後ろにいた隊員の一人がわずかに視線を伏せる。久我は否定しなかった。

 

「あの部隊の判断は正当化しない。現場では、恐怖と命令が混ざる。混ざったものは、たいてい悪い形で出る」

 

「それで済む話じゃない」

 

 青織が低く言った。

 

「そうだな」

 

 久我は静かに頷いた。

 

「済まない。だからこうしている」

 

 彼は片手を上げ、後方の隊員に銃口を少し下げさせた。

 

「青織。戻れ」

 

「断る」

 

「まだ何も言っていない」

 

「聞くまでもない」

 

 久我は小さく息を吐いた。

 

「変わらんな」

 

「そっちもな」

 

「お前一人で守れると思っているのか」

 

 その言葉に、澪の胸が嫌な音を立てた。青織は答えない。久我は続ける。

 

「湾岸封鎖線の内側は、もう通常の灰域ではない。東京湾中央部の侵食深度は上がり続けている。白鯨も動いている。お前たち三人だけで進める場所ではない」

 

「だから渡せと言うのか」

 

「処分命令ではない」

 

 久我の声が少し強くなった。

 

「少なくとも、俺の部隊には出ていない。九条澪は保護。エンデも凍結ではなく隔離観測だ」

 

 エンデの手が、澪の袖を掴んだ。隔離観測。その言葉だけで、何を意味するかは分かった。


 白い部屋。ガラス越しの視線。名前ではなく番号。触れられない距離。ひとりにされる時間。澪は一歩前へ出た。

 

「それは、保護じゃない」

 

 久我が澪を見る。

 

「君にはそう見えるだろうな」

 

「そうとしか見えません」

 

「だが、外にいれば君たちは死ぬ」

 

「中に入れば、生きていることになりますか」

 

 澪の声は震えていた。けれど引かなかった。

 

「名前を呼ばれずに、触れられずに、ただ観測されて、誰かの判断を待つだけでも?」

 

 久我の目が少しだけ痛んだ。たぶん、この人は完全な敵ではない。

 

 そう思った。少なくとも、伊坂のように割り切ってはいない。けれど、それでも管理局の人間なのだ。組織の言葉でしか、助ける方法を持っていない。

 久我は静かに言った。

 

「それでも、死ぬよりはいい」

 

 青織が笑った。乾いた、ほとんど笑いとは言えない音だった。

 

「その言葉を、俺たちは前にも使ったな」

 

 久我の表情が硬くなる。

 

「青織」

 

「アオの時だ」

 

 通路の空気が冷えた。

 隊員たちがわずかに反応する。アオという名前を知らない者もいるのだろう。けれど久我は知っていた。

 

「やめろ」

 

「処分ではない。凍結だ。凍結なら、いつか解析できる。解析できれば、救えるかもしれない。そう言って、俺たちはあいつを白い部屋に入れた」

 

「やめろと言った」

 

「止めるべきだった」

 

 青織の声は静かだった。

 しかし、その静けさの底に、どうしようもない怒りが沈んでいた。

 

「俺はあの時、組織の言葉を呑み込んだ。救うためだと信じた。信じた方が楽だった。だから、アオは死んだ」

 

「お前だけの責任ではない」

 

「そう言われるのが一番腹立たしい」

 

 青織は観測銃を下ろさなかった。

 

「責任が分散すれば、誰も責任を取らなくて済む。管理局はそうやって変わった。観測する組織から、処理する組織へ」

 

 久我は黙った。澪は青織の横顔を見る。

 彼は今、アオだけを見ているのではないのだと思った。


 過去を見ている。自分が従った命令を。受け入れた言葉を。飲み込んでしまった沈黙を。

 そして、今度はそれを繰り返さないために、ここに立っている。

 

「青織」

 

 久我が低く言った。

 

「お前が間違っていないとは言わない。だが、管理局にも現場がある。まだ全部が腐ったわけではない」

 

「知っている」

 

「なら」

 

「だから余計に渡せない」

 

 青織は即答した。

 

「まともな現場が残っているからこそ、上がそれを利用する。保護という言葉で運び、隔離という言葉で閉じ込め、研究という言葉で切り分ける。現場はいつも、最後に知らされる」

 

 久我の奥歯が動いた。

 

「……お前は、本当に戻らないんだな」

 

「ああ」

 

「反逆扱いになる」

 

「最初からそのつもりで来ている」

 

 沈黙が場を満たす。水路の奥から、黒い海の気配が近づく。先ほど調律槽で切り離したはずの深度存在の声が、また遠くから滲み始めていた。久我が微かに顔を上げる。

 

「もう追いついているのか」

 

「時間がない」

 

 青織は言った。

 

「通せ」

 

「できない」

 

「なら撃つ」


「お前は撃たない」

 

 久我の声には確信があった。

 

「少なくとも、俺の部隊員を殺す撃ち方はしない」

 

 青織の目が細くなる。

 

「試すな」

 

「試しているのは、お前だ」

 

 その瞬間だった。背後の水路が大きく膨れた。


 黒い水が排水口から逆流し、天井へ上がるはずの水滴が途中で停止する。空気が粘つき、通路の壁に貼られた警告文が一斉に滲み始めた。

 

《名前を呼ぶな》

《返事をするな》

《まだ帰れる》

《まだ帰れる》

《まだ帰れる》

 

 文字が増殖する。隊員の一人が息を呑んだ。

 

「深度上昇!」

「後方から侵食体反応!」

 

 黒い海の中から、腕が伸びた。一斉に深度存在が飛びかかってきた。

 

 人間の腕に似ている。だが指が多く、関節が多すぎる。濡れた骨のようなそれが、排水区画の床を掴み、ずるりと這い上がってくる。そして、声がした。


 『ミオ』

 

 澪の胸の扉が反応する。強く。痛いほどに。

 エンデが澪の手を握る。

 

「澪、こっち」

 

「うん」

 

 澪は鈴を握った。内側で共鳴が起きる。

 恐怖で広がりかけた扉のドアノブを、ぎりぎりで掴む。開きすぎるな。閉じきるな。自分で決める。

 

 澪は息を吸った。

 

「来ないで」

 

 声に合わせて、境界侵食が細く前へ伸びる。

 黒い水の先端が一瞬だけ止まった。

 久我が目を見開く。

 

「……人間が、境界侵食を」

 

 青織が叫ぶ。

 

「部隊を下げろ!」

 

 その声で久我は我に返った。

 

「後退! 防壁展開!」

 

 管理局の隊員たちが即座に動く。黒い防護服の腕から小型の杭が射出され、床へ打ち込まれた。青白い格子状の光が通路を塞ぐ。簡易境界防壁。

 

 だが黒い水は止まらない。格子に触れた瞬間、泡立ち、笑うように形を変えた。

 

 それぞれの名前を呼び。ソナーのようにこだまさせてゆく。私たちの名前を探している。“向こう側”だ。

 

 ただ呼んでいるのではない。こちらの輪郭を掴もうとしている。世界の外側から、存在を引っ張ろうとしている。

 

 エンデが前へ出た。右腕の縫合痕が淡く光る。亀裂はまだ完全には塞がっていない。無理をすれば、また崩れるかもしれない。それでもエンデは澪の前に立った。

 

「だめ」

 

 小さな声。

 

「澪の名前、あげない」

 

 その瞬間、エンデの足元から虹色の波紋が広がった。

 黒い水が押し返される。久我の部隊員たちが動揺する。

 

「漂流個体が防壁を補助している……?」

 

「敵性反応ではない?」

 

 久我は黙ったままエンデを見ていた。その目が、ほんのわずかに揺れる。おそらく、彼は初めて見たのだ。


 番号でも、災害でも、処理対象でもない漂流個体を、誰かを守ろうとしている、一人の子供のような姿を。

 青織が観測銃を構えた。

 

「九条、エンデ、右の通路へ走れ。湾岸側へ抜ける」

 

「青織は?」

 

「後で追う」

 

「それ絶対駄目なやつ!」

 

「いいから行け!」

 

 澪は動けなかった。また置いていくのか。青織を。

 アオの声に責められ続けているこの人を。

 

 けれど、立ち止まれば全員が呑まれる。

 その時、久我が低く言った。

 

「青織」

 

 青織が視線だけを向ける。

 

「三十秒だ」

 

「……何?」

 

「三十秒だけ、俺が防壁を持たせる」

 

 隊員たちが驚いて久我を見る。

 

「久我班長、それは命令違反です」

 

「記録には、侵食体対応のため一時的に対象を見失ったと残せ」

 

「しかし」

 

「責任は俺が取る」

 

 久我は青織を見た。

 

「行け」

 

 青織は一瞬だけ黙った。

 

「借りは返さんぞ」

 

「いらん。昔の分を少し返すだけだ」

 

 その言葉に、青織の表情がかすかに揺れた。

 けれど彼は何も言わなかった。

 

「走るぞ」

 

 青織が澪とエンデへ言う。三人は右の通路へ駆け出した。背後で、久我の声が響く。

 

「防壁最大出力! 観測班、記録を切れ! これは正式記録に残すな!」

 

 隊員たちの返答。黒い海の轟き。そして、アオの声をまとった何かの笑い声。

 

 澪は振り返らなかった。振り返れば、また引かれる気がした。

 ただ、走った。旧排水区画の通路は、やがて上り坂へ変わっていく。水位が下がり、湿った空気の奥に、本物の風が混ざり始める。潮風が吹きつけ、車の音、遠くのサイレンが風に混じる。

 

 そして、空の裂け目から響く、低い海鳴り。

 出口が近い。青織が先頭で錆びた梯子を上る。重いマンホールのような蓋を押し上げると、夜明け前の灰色の光が差し込んだ。

 

 澪は眩しさに目を細める。地上だった。

 場所は、湾岸封鎖線の内側ぎりぎり。使われなくなった倉庫群の裏手だった。


 アスファルトには雨水が溜まり、遠くにはコンテナの影が並んでいる。その向こうに、黒い海が見えた。

 

 東京湾。

 

 けれど、それは澪の知っている海ではなかった。


 海面は夜明けの色を映さず、空よりも暗い黒でゆっくり脈打ち、湾の中央には細く巨大な影が立ち上がり始めている。

 

 空の裂け目には、エンデと澪が渋谷十三駅で薙ぎ払った巨大な月が浮び、彼方には星のない海が、現実の東京湾と重なり合っている。

 

 澪の胸の奥で、“扉”が深く鳴った。

 今度は痛みではなく、返事に近かった。エンデが隣で呟く。

 

「海の底、起きてる」

 

 青織は観測銃を握り直した。

 

「ここからが本番だ」

 

 澪は鈴を握った。内側で共鳴が起きる。

 自分の声を忘れない。

 

 そう思った直後、背後の倉庫の屋根から、軽い拍手が聞こえた。

 

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 

「いやあ」

 

 陽気な声。

 

「ちゃんと来たねぇ」

 

 澪はゆっくり顔を上げた。屋根の縁に、一人の男が座っていた。軽薄そうな笑顔、目に隠す色付きメガネ。


 その姿は、夜明け前の湾岸封鎖線にも、黒く脈打つ東京湾にも、あまりに似合っていなかった。

 けれど青織の表情が、一瞬で険しくなる。

 

「成海」

 

 男は笑った。

 

「おはよう、青織。いや、まだ夜かな。まあ、どっちでもいいや」

 

 そして、澪とエンデを見る。

 

「初めまして、九条澪ちゃん」

 

 色付き眼鏡の奥で、目が細くなる。

 

「君の歌、なかなか面白いことになってるね」

 謎の男成海、再見—!

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