共闘成立
紫乃は決意した顔で言った。
「もし澪ちゃんがアオの歌に呑まれそうになった時、あなたがそれを“成功”だと誤認したら最悪だから」
伊坂の表情がわずかに動いた。
「成功?」
「境界が閉じかけて、観測値は安定する。そうすれば侵食深度は下がるでしょ?管理局の計器だけ見れば、たぶん“こちら側”の世界は救われたように見える。白鯨からすれば商売あがったりかもだけど」
紫乃は静かに言った。
「でもその時、澪ちゃんが澪ちゃんじゃなくなっていたら、それは失敗だよ」
「世界が救われるなら成功でしょう?」
「その言い方、嫌い」
「事実では?」
「違う」
紫乃の声が、初めてはっきり硬くなった。
「世界を守るって言葉で、誰か一人を最初から数に入れないなら、それは守ってるんじゃない。切り捨ててるだけ」
伊坂は沈黙した。紫乃も、それ以上は詰めなかった。
ただ、古書の文字を指でなぞった。
『境界を開く歌は、残響として受け継がれる』
『されど、境界を閉じる歌は、残響をなぞるべからず』
『閉じる者は、己の名において、己の声を重ねよ』
『他者の歌のみを歌う者は、他者の残響に呑まれる』
伊坂の目が、静かに細くなる。
「……意味は」
「そのままだよ」
紫乃は声を落とした。
「澪ちゃんは、アオの歌を受信している。アオが最後に境界へ残した歌を、いつからかはわからないけど、受信した。だから彼女は“歌う者”になった」
「九条澪はアオではない」
「もちろん。別人。生まれ変わりでもない。けど、アオの歌を受け取ってしまった」
「それは知っています」
「問題はここから」
紫乃はページを指で叩いた。
「澪ちゃんが、アオの歌をそのまま歌えば、門は閉じるかもしれない」
「ならば」
「でも、その時、九条澪は九条澪でいられなくなる」
伊坂は沈黙した。
紫乃は続ける。
「アオの残響に呑まれる。正確に言えば、澪ちゃんの境界が、アオの歌に上書きされる。身体は残るかもしれない。意識も断片的には残るかもしれない。でも、それはもう澪ちゃんじゃない」
「死ぬということですか」
「死とは違う」
紫乃は一瞬だけ言葉を探した。
「でも、私はそれを死と同じくらい嫌だと思ってる」
伊坂は本を見下ろしたまま動かなかった。
「では、閉じる方法は」
「アオの歌をなぞるだけじゃ駄目。澪ちゃん自身の言葉を重ねる必要がある」
「自身の言葉」
「そう。アオの願いは、境界を閉じること――たぶんそういうもの。でも、澪ちゃんには澪ちゃんの願いがある」
「願いで世界が救えると?」
「救えるとは言ってない」
紫乃は静かに言った。
「でも、この現象は感情と言葉に反応する。境界侵食は、ただの物理現象じゃない。澪ちゃんの力も、エンデくんに触発されて開いた扉による境界侵食だ。なら、最後に必要なのは、アオの歌を再生することじゃない。澪ちゃんが、自分の声で境界へ意味を与えること」
「危険すぎます」
「うん」
「九条澪は高校生です」
「知ってる」
「そのような判断を子供に背負わせるべきでは、ない」
「じゃあ誰が代わりに背負うの?」
紫乃の声が、少しだけ鋭くなった。
「白鯨?管理局?青織?あなた?私?」
伊坂は答えない。
「アオの時、私たちは背負ったつもりで、あの子から選ぶ権利を奪った。青織からも奪った。結果、アオは処分された。世界は閉じず、歌だけが残った」
「アオの歌は不安定だった――処分は必要な判断でした」
「そう言わないと立っていられない?」
伊坂の空気が、少しだけ冷えた。だが紫乃は退かなかった。
「ごめん。でも、言うよ。今言わないと、また同じことになる」
「……」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。古書店の地下で、本のページがかすかに震えている。
まるで、二人の言葉を記録しているみたいだった。伊坂はやがて言った。
「あなたは、九条澪に選ばせるつもりですか」
「そうだよ」
「彼女が失敗すれば」
「世界がもっと壊れる」
「彼女が成功しても」
「彼女が壊れる可能性がある」
「それでも?」
「だから私が行く」
紫乃は古書を閉じた。
「この本を届ける。澪ちゃんへ。エンデくんへ。青織へ。アオの歌をそのままなぞるな。澪自身の声を重ねろ。それを伝える」
「通信は?」
「繋がらない。湾岸方向の侵食ノイズが強すぎる。それに、これは直接言わないと駄目」
「なぜ」
「澪ちゃんは、自分がアオじゃないってことを頭では理解してる。でも、東京湾へ近づけば近づくほど、アオの歌と自分の声の境目が曖昧になる。そこで誰かが言わないといけない」
紫乃は静かに続けた。
「あなたはアオじゃない。でも、アオの歌を受け取ったことまで否定しなくていい。受け取ったものを、自分の声で歌い直せる。そう言わなきゃいけない」
伊坂は無言だった。紫乃は、その沈黙を見つめる。
「伊坂。あえてこう言うよ。共闘しよう」
「白鯨の私と?」
「元特殊観測班の伊坂と」
「詭弁です」
「便利でしょ」
「あなたを信用する理由がありません」
「私もあなたを信用してない」
「ならなぜ」
「あなたの腕が必要だから」
紫乃ははっきり言った。
「東京湾へ行くには、白鯨の装備と現場判断が役に立つ。管理局の封鎖線も、あなたなら抜けられる。白鯨本隊が動く前に先回りするなら、あなたの判断速度がいる」
「あなたの利点は」
「今話した情報」
「それだけですか」
「それだけで十分でしょ」
伊坂は古書を見る。
「その本を白鯨に渡せば、より多くの戦力で東京湾へ向かえます」
「渡さない」
「なぜ」
「白鯨は澪ちゃんを人として扱わないから」
「人として扱った結果、判断を誤ることがあります」
「物として扱った結果、救えないものもある」
伊坂の目が冷える。
「漂流個体は災害です」
「エンデくんはエンデくんだよ」
「名前をつけるから、あなたたちは間違える」
「名前を呼ばないから、あなたたちは切り捨てる」
紫乃は、真正面から伊坂を見た。
「私は、エンデくんを災害としてだけ扱うあなたを信用しない。でも、あなたが世界を守りたいと思ってることは知ってる」
伊坂は答えなかった。
「あなたは白鯨の金銭目的だけで動いてるわけじゃない。怪物を怪物として扱わなきゃ、世界が壊れると思ってる。だから冷酷でいる。そうでしょ」
「知ったような口を」
「知ってるよ。元同僚だから」
「昔のことです」
「昔のことほど、残るんだよ」
紫乃の声は静かだった。
「私は、まだこの世界を知りたい。知って、それでも救えるものがあるなら救いたい。管理局に入ったのも、最初はそれだけだった」
伊坂の表情が、ほんの少しだけ揺れた。かつての紫乃を知っているからだろう。
特殊空間災害対策室に入ってきたばかりの頃、紫乃は今よりずっと無邪気だった。世界が壊れ始めていることを恐れながらも、その正体を知りたがっていた。
恐怖より好奇心が勝っていた。同時に、誰かを助けたいという気持ちもあった。だから、壊れた。だから、今もここにいる。
「条件があります」
やがて伊坂が言った。
「東京湾到達までは一時的に協力します。ただし、九条澪または漂流個体が制御不能になった場合、私は独自判断で対処します」
「処分も含む?」
「含みます」
「私は止めるよ」
「構いません。その場合、あなたも敵です」
「分かった」
紫乃は頷いた。
「私からも条件」
「何です」
「澪ちゃんに会うまで、この本は私が持つ。白鯨へ渡さない。複写もしない。あなたが読める範囲も、私が決める」
「ずいぶん強気ですね」
「この本を持っている私の価値は高いでしょ?」
伊坂は沈黙した。
それは肯定だった。
「分かりました」
やがて伊坂は言った。
「東京湾まで、あなたとその本は保護対象として扱います」
「保護って言い方が白鯨っぽくて嫌だなあ」
「妥協しなさい」
「はいはい」
「ただし、あなたが情報を隠した結果、世界に重大な被害が出ると判断した場合は――」
「その時は撃つ?」
「はい」
「分かった」
紫乃は軽く答えた。けれど、その表情には覚悟があった。
「その時は、撃たれる前に逃げる」
「本当に不愉快な人ですね」
「よく言われる」
二人の間に、奇妙な静けさが落ちた。敵同士ではある。信用などない。けれど、かつて同じ現場をくぐった者同士の呼吸が、わずかに戻っていた。
伊坂は通信端末を起動する。
「全員撤収。負傷者を回収。私は別ルートで湾岸へ向かいます」
『伊坂さん、単独行動ですか』
「命令です」
『了解』
通信が切れる。紫乃は端末を操作し、閉じ込めていた白鯨隊員たちの拘束を順に解除した。
全員、命に別状はない。ただし、装備はしばらく動かないようにしてある。伊坂がそれを見る。
「部下を無力化したまま返すのですね」
「東京湾に連れて行かれると困るからね。あなた一人なら通す」
「白鯨の戦力を削ってから、私だけ利用すると」
「そう」
「隠しませんね」
「隠しても分かるでしょ」
「ええ」
伊坂は静かに頷いた。
「なら私も隠しません。東京湾に着いた後、あなたが私の目的を妨げるなら排除します」
「うん。分かってる」
「青織たちに味方するなら、あなたも敵です」
「それも分かってる」
「それでも来ると?」
「行くよ」
紫乃は迷わなかった。
「私は、あの子たちに伝えることがある」
その瞬間だった。地下書庫の壁に、黒い文字が滲んだ。水が染み込むように、古い壁紙の上へ文字が浮かぶ。
《時任紫乃》
紫乃の名前だった。伊坂が即座に銃を構える。
「境界侵食による空間へのが異常が出ているようですが」
「少しね」
紫乃は何でもないことのように言った。だが、指先が僅かに震えている。古書を読んだ影響か。
あるいは、古書店全体を使った認識戦の負荷か。紫乃自身の境界が、少し削られている。伊坂は冷たく言う。
「あなた、東京湾まで持ちませんよ」
「持たせるよ」
「根拠は」
「気合い」
「最低です」
「今さら」
紫乃は壁に浮いた自分の名前を指でなぞった。文字はすぐに滲み、消える。
「まだ、自分の名前は分かる」
「それが基準ですか」
「境界領域では大事だよ」
紫乃は軽く笑った。けれど、その笑みは少しだけ疲れていた。
「行こう、伊坂」
「どこから出ます」
「裏口はあなたたちが塞いだ。表は管理局の監視に拾われる。だから屋上から隣のビルへ渡る」
「準備がいいですね」
「ここ、私の砦だから」
「砦を捨てるのですか」
伊坂の問いに、紫乃は一瞬だけ地下書庫を見回した。本棚。積まれた本。曽祖父の代から残る古い匂い。
管理局を辞めた後、帰ってきた場所。逃げ場所であり、観測所であり、研究室であり、誰かが迷い込んだ時の一時避難所だった場所。
紫乃は少しだけ、寂しそうに笑った。
「捨てないよ」
「では」
「また戻る」
そう言った。言った後で、自分でも少しだけ嘘っぽいと思った。それでも言った。戻るつもりで出なければ、足が止まるから。
紫乃は肩掛け鞄を背負い、端末を片手に持った。古書は鞄の一番奥、濡れないように布で包んで入れてある。
その上に、さらに二冊の詩集を重ねる。
伊坂はそれを一度だけ見た。
「その詩集も罠ですか」
「片方はね」
「もう片方は」
「本当に好きな本」
「紛らわしい」
「本ってそういうものだよ」
紫乃は鞄を閉じた。
「読まない人には、どれが武器で、どれが祈りか分からない」
伊坂はそれ以上追及しなかった。ただ、静かに言った。
「九条澪が、その情報を聞いても選べなかったら?」
「その時は、そばにいる大人が支える」
「あなたが?」
「私も。青織も。エンデくんも」
「漂流個体に支えさせると?」
「名前を呼び合う関係なら、支え合える」
「また名前ですか」
「うん」
紫乃は静かに言った。
「名前を呼ぶことからしか、始まらないものもある」
伊坂は返事をしなかった。二人は並んで地下階段を上がった。
雨燕古書店の一階は、戦闘の痕跡で荒れていた。本は崩れ、棚はずれ、床には白鯨隊員の残した装備片が散っている。けれど、不思議と致命的な破壊は少ない。
紫乃がそう仕組んだのだ。壊したくなかった。
ここは本の砦だから。
伊坂はその様子を見て、静かに言った。
「あなたは甘い」
「知ってる」
「その甘さが、いつか誰かを殺します」
「かもね〜」
紫乃は足を止めずに軽く、調子良く答えた。
「でも、あなたの冷たさも、誰かを殺すよ」
伊坂は返事をしなかった。二人は屋上へ出る。雨は止んでいた。
夜明け前の空は黒く、東京湾の方角だけが、異様な暗さで脈打っている。空の裂け目の向こうで、星のない海が揺れていた。
紫乃はその方角を見た。澪たちは、もう近づいているはずだ。
エンデは震えているだろうか。
青織はまた、自分一人で抱え込んでいるだろうか。
澪は、自分の声を忘れていないだろうか。
紫乃は鞄の紐を握りしめた。
「待っててね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
隣で伊坂が静かに言った。
「急ぎます」
「うん」
「途中で倒れないでくださいね」
「心配?」
「荷物になります」
「はいはい〜」
紫乃は笑った。
そして、隣のビルへかかった細い非常梯子へ足をかける。
雨燕古書店の看板が、背後で小さく揺れていた。古い本の匂いが、まだ服に残っている。紫乃は振り返らなかった。振り返れば、戻りたくなるから。
二人は夜明け前の屋上伝いに、東京湾へ向かって走り出した。
全員が東京湾へ向かう。運命が交わり、収束する—




