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紫乃と伊坂

 伊坂と紫乃はあい見える。

 そこで紫乃は伊坂に一時休戦と共闘を持ちかける。

 伊坂は、ゆっくりと地下へ降りてきた。

 

 一段ごとに、靴音が古書店の骨組みへ沈んでいく。雨燕古書店は、地上から見れば小さな古書店にすぎない。


 古びた看板。狭い入口。積み上げられた本の山。けれど地下へ降りれば、その印象は変わる。

 

 そこは書庫というより、記録の墓場だった。

 壁一面を埋める本棚。天井近くまで積まれた古書。境界管理局時代の観測記録。誰かの手書きの調査ノート。


 異国語の詩集。製本されていない紙束。店では売られていない資料が、地下には幾層にも重なって眠っている。

 

 伊坂は、その中へ迷い込んでも歩調を変えなかった。

 視線は本の背に向けない。足元の床板も、壁の貼り紙も見ない。


 紫乃が仕掛けた認識誘導のほとんどを、最初から「情報」として扱っていない。

 

 紫乃は地下書庫の中央で、古書を抱えたまま彼女を待っていた。

 

 伊坂が最後の階段を降り切る。二人の距離は、十メートルほど。互いにすぐ殺せる距離ではない。けれど、会話だけで済ませるには近すぎる。

 

「久しぶり、伊坂」

 

 紫乃が先に言った。伊坂は表情を変えなかった。

 

「時任紫乃」

 

「相変わらずフルネーム呼びなんだ」

 

 紫乃はわざと軽く言った。伊坂の目が僅かに細くなる。

 

「名前に拘るのは、あなた方の悪い癖です」

 

「ああ、出た出た。白鯨の伊坂さん?」

 

「私は私です」

 

「それもそうだね。昔からそうだった」

 

 紫乃は小さく笑った。

 けれど、その笑みはすぐに消えた。伊坂の右手が、腰の装備に添えられている。銃ではない。白鯨の捕獲具だ。おそらく対漂流個体用の拘束弾。


 人間相手に使えば、神経系を一時的に焼かれる。紫乃はそれを見て、肩をすくめた。

 

「撃つ?」

 

「必要なら」

 

「私を回収しても高く売れないよ」

 

「あなたには情報価値があります」

 

「物みたいに言うね」

 

「白鯨では、情報も物も同じです」

 

「うわ、ひどい職場」

 

「境界管理局よりは単純です」

 

 その言葉に、紫乃の目が微かに揺れた。

 境界管理局。特殊空間災害対策室。まだ、すべてが今ほど歪む前の場所。青織がいて、成海がいて、伊坂がいて、紫乃がいた。

 

 世界が壊れ始めていて、それでも自分たちは何かを救えると本気で思っていた頃。

 

 紫乃は、抱えていた古書を胸元へ少し引き寄せた。伊坂の視線が、それを見逃さない。

 

「その本ですね」

 

「何が?」

 

「あなたが白鯨小隊を足止めしてまで守ったものです」

 

「店の商品だよ。雑に扱われると困る」

 

「嘘が下手になりましたね」

 

「昔から上手くないよ」

 

「いいえ。あなたは嘘が上手かった。ただし、青織には下手だった」

 

「それはあいつが無駄に勘がいいから」

 

「今も同じです」

 

 伊坂は一歩だけ前へ出た。

 

「その本には何が書かれているのしょう?」

 

 紫乃はすぐには答えなかった。地下書庫の空気が、少しだけ重くなる。

 

 遠くで、閉じ込められた白鯨隊員が防火扉を叩く音がした。紫乃が仕掛けた認識誘導はまだ機能している。

 酸素濃度も問題ない。死なせるつもりはない。

 

 ただ、しばらく動けないだけだ。紫乃は古書を作業机の上に置いた。革張りの表紙に、掠れた金文字が刻まれている。

 

『門歌断章集 附・海底閉門譜』

 

 伊坂の視線が、その題名を追う。

 

「民俗資料ですか」

 

「表向きはね」

 

「実際は?」

 

「古い観測記録」

 

 伊坂の表情が、初めて僅かに変わった。

 

「境界管理局以前の?」

 

「もっと前。たぶん、境界という言葉ができるより前。世界各地で、“門”や“海の向こう側”に関する詩や歌として残された記録。その中でもこれは、閉じる歌に関する断章集」

 

「閉じる歌」

 

「そう」

 

 紫乃は本を開いた。古い紙が、乾いた音を立てる。

 ページには、異国語の詩、古い和歌、民謡の採譜、注釈、そして時折、明らかに後世のものではない図式が挟まれていた。

 

 海。門。歌う者。黒い水。二つの世界を隔てる線。

 伊坂はページを覗き込もうとした。紫乃はそれを手で制した。

 

「先に言っておくけど、奪おうとしても無駄だよ」

 

 伊坂の目が、静かに細くなる。

 

「脅しですか」

 

「警告。優しさ込みの」

 

「あなたが?」

 

「私、けっこう優しいよ」

 

「自称するものではありません」

 

「じゃあ、元解析班としての事前説明」

 

 紫乃は古書の背を撫でた。

 

「この本、ただの古書じゃない。私が手を加えてる」

 

「改竄したと?」

 

「内容は変えてない。そんなことしたら資料価値が落ちるでしょ。ただ、白鯨や管理局に強奪された場合に備えて、何重か保険をかけてある」

 

 伊坂は答えない。その沈黙は、続きを促していた。

「まず一つ目。所有者認識の固定」

 

 紫乃は自分の胸元を指した。

 

「この本は今、私の名前に紐づいてる。私以外が一定時間以上持つと、本文の配列が崩れる。普通の人にはただの民謡集に見える。専門家が読んでも、閉門譜に関する部分だけは欠落する」

 

「意味汚染ですか」

 

「近いけど違う。認識の鍵を外すだけ。危険度は低め」

「低め、という言い方が信用できません」

 

「境界領域の基準では安全」


「人間基準では?」

 

「まあ、長時間読むと軽い頭痛くらいはあるかも」

 

 伊坂の表情は変わらない。紫乃は続けた。

 

「二つ目。複写対策。写真、スキャン、映像記録、全部駄目。撮った瞬間は写る。でも三分以内に文字が別の詩へ置き換わる。白鯨の解析機でもたぶん抜けない」

 

「たぶん?」

 

「抜ける可能性があるとすれば、成海くらい」

 

「不快な名前を出さないでください」

 

「同感」

 

 紫乃は苦笑した。

 

「三つ目。強制回収対策」

 

 そこだけ、声が少し低くなった。

 

「もし私が拘束されるか、意識を失うか、一定範囲以上この本から引き離された場合、本は自動的に閉じる。中身は読めなくなる。それだけじゃない。私が仕込んだ紙片が、古書店内と湾岸方面の予備回線へ同時に信号を送る」

 

「誰へ」

 

「青織たちへ届く可能性がある回線全部。正確には通信じゃない。境界紙を使った伝文。電波が死んでも、紙片の共鳴で一文だけ送れる」

 

「何と」

 

 紫乃は少し笑った。

 

「『アオの歌をなぞるな』」

 

 伊坂の目が、ほんのわずかに揺れた。

 

「……つまり、あなたを殺しても本は奪えない」

 

「殺す前提で話すのやめてくれる?」

 

「可能性の確認です」

 

「うん。まあ、そう。殺しても駄目。拘束しても駄目。脅しても駄目。白鯨に渡しても、中身はただの歌集になる」

 

「よく用意していましたね」

 

「私は疑り深いから」

 

「青織はあなたを信用していたようですが」

 

「青織は信用していい人間と、信用しちゃいけない状況を分けるのが下手なんだよ」

 

 紫乃は少しだけ寂しそうに言った。

 

「アオの時も、そうだった」

 

 伊坂は何も言わなかった。紫乃は古書のページへ視線を落とす。

 

「だから今回は、できるだけ準備した。私が倒れても、最低限の答えはあの子たちに届くように。私が本を奪われても、あなたたちが澪ちゃんを道具にできないように。あなたが途中で私を裏切っても、私の目的だけは残るように」

 

「ずいぶん信用されていますね、私は」

 

「信用してないってば」

 

 紫乃は顔を上げる。

 

「でも、あなたの腕は信用してる。あなたが本気で東京湾まで行くなら、たぶん管理局の封鎖線も白鯨本隊の横槍も抜けられる。だから共闘を持ちかけてる」

 

「私がこの本を奪う可能性を理解した上で?」

 

「もちろん」

 

「その上で、内容を話すと」

 

「核心だけはね」

 

 紫乃は本の一節を指した。

 

「だって、あなたにも知っておいてもらわないと困るから」

 

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