本の砦
一方その頃、雨燕古書店では—
雨燕古書店の地下で、古い紙の匂いが濃くなっていた。
紫乃は一人、作業机の上に広げた古書と、境界管理局時代の解析端末を見比べていた。
店内の照明は最低限まで落としてある。窓の外では雨がやみ、街灯の光だけが濡れた路地を青白く照らしていた。
澪たちが店を出てから、まだそれほど時間は経っていない。それでも、東京の空気は変わっていた。湾岸方面の侵食深度が上がっている。
古書店の壁に仕込んだ簡易観測紙が、さっきから微かに波打っていた。紙が湿気で反るのとは違う。文字が、紙の上で息をしている。
紫乃は読書用の眼鏡を外し、目元を揉んだ。
「……やっぱり、東京湾か」
机の上には、革張りの古書が開かれている。
『門歌断章集 附・海底閉門譜』
雨燕古書店の奥の奥、店主である紫乃ですら普段は開けない棚の最下段に眠っていた本だった。
表向きは、世界各地に残る「門を閉じる歌」「海を鎮める祈り」「死者を送る詩」を集めた民俗学資料。
だが違う。これは神話ではない。古い観測記録だ。
境界という言葉が生まれるより前に、世界のどこかで誰かが、同じものを見ていた。
その記録が、神話や詩歌の形に偽装されて残っている。
紫乃は指先で古い注釈をなぞった。掠れた文字。
『境界を開く歌は、残響として受け継がれる』
『されど、境界を閉じる歌は、残響をなぞるべからず』
『閉じる者は、己の名において、己の声を重ねよ』
『他者の歌のみを歌う者は、他者の残響に呑まれる』
紫乃は息を止めた。
澪がアオの歌をそのまま歌えば、境界は閉じるかもしれない。
けれど、その時、九条澪は九条澪でいられなくなる。
アオの残響に呑まれる。
それは死とは違う。けれど、紫乃にとっては、死と同じくらい許しがたいことだった。
「……駄目じゃん」
紫乃は苦く笑った。
「そんなの、あの子にさせられないでしょ」
その時だった。
店内に置かれた古いラジオが、砂嵐のような音を立てた。
荒く、鋭く擦過するようなノイズが響く――
その中に、短い電子音が混ざる。紫乃は顔を上げた。
雨燕古書店の表口、裏口、二階窓、屋上換気口。そこに仕込んである監視用の小型紙片が、次々に反応している。
外周結界に触れたものがいる。
一つ。
二つ。
三つ。
いや、もっと多い。
紫乃は端末を操作し、店の外の映像を呼び出した。ブラウン管に、雨上がりの路地が映る。
白い戦術装束。顔を覆う布。背中の箱型装置。小隊規模。白鯨だ。紫乃は椅子の背もたれに体重を預けた。
「来たかー」
画面の端に、灰銀色の髪が映る。
伊坂。
紫乃は少しだけ目を細めた。
「仕事が早いね。相変わらず」
通信端末へ手を伸ばす。
青織たちへ連絡する。そう考えた瞬間、端末の画面が激しく乱れた。湾岸方向からの侵食ノイズが強い。
黒い海の信号が、通信帯域そのものを汚している。繋がらない。紫乃は数秒だけ黙り、それから、端末を閉じた。
「私が行くしかないかぁ」
彼女は古書を閉じないまま、表紙に手を置いた。
この本を届けなければならない。
澪へ。
エンデへ。
そして、青織へ。
アオの歌をなぞるな。
澪自身の言葉を重ねろ。
その答えを、伝えなければならない。
しかし、白鯨の襲来はある意味今の紫乃にとって好都合だった。
危険分子の成海は東京湾に向かっていることは明確であり、もっとも動向を警戒していたのは白鯨だった。成海に襲撃されて以来、白鯨には動きがない。
紫乃は境界管理局、白鯨の動向を探知したり妨害するために古書店に留まっていた。
つまり白鯨がそちらから来てくれるなら紫乃は古書店にとどまる必要性は大きく下がる――澪に伝えに行ける。
紫乃は立ち上がった。カーディガンの袖をまくり、カウンター奥の古い配電盤を開ける。
そこには、普通の古書店には絶対に必要ない端末が並んでいた。
境界管理局時代の解析補助機。旧式の観測回線。自作の認識攪乱装置。そして、雨燕古書店の書架配置と連動した、店内誘導用の符号盤。
紫乃は一つずつスイッチを入れていく。店内の照明が、僅かに明滅した。積み上がった本の背表紙が、呼吸するように影を変える。
「さて」
紫乃は小さく笑った。
「古書店で暴れるなら、本の読み方くらい教えてあげないとね」
◇
白鯨小隊は、表口と裏口の二手に分かれて侵入した。
表口から入ったのは六名。
裏口から入ったのは四名。
伊坂は外で待機している。
紫乃はその判断に少し感心した。
伊坂なら最初から突入してくるかと思ったが、まず小隊を入れた。古書店がただの隠れ家ではないことに気づいている。
それでも足りない。ここは雨燕古書店だ。この本屋は曽祖父の時代から受け継いだ場所だ。管理局員になる前から紫乃は古書店員だった。
ここは時任紫乃が、何年もかけて作った本の砦だった。
『一階、異常なし』
『対象の姿なし』
『地下へ続く階段を確認』
『注意しろ。店主は元管理局解析班だ』
白鯨の通信が古いラジオから聞こえる。紫乃は地下の解析室でコーヒーを一口飲んだ。
「注意が足りないなあ」
彼女は端末を操作する。
まず、防犯カメラ映像を一秒だけ遅延させた。
次に、店内案内用の古いスピーカーへ、白鯨の通信音声を混ぜる。
最後に、二階西側書架の照明を落とした。
一階の隊員二名が、階段へ向かう。
だが、階段を下りたはずの二人は、なぜか二階の詩集棚へ出た。
『……待て』
『階段を下りたはずだ』
『位置情報、二階西側?』
『ありえない』
隊員の一人が周囲を見回す。
棚には、詩集が並んでいた。その背表紙の一冊に、こう書かれている。
『あなたはもうここへ来た』
隊員がそれを読んだ瞬間、足を止める。自分がこの棚の前を、すでに三度通っていることを思い出したからだ。
いや、思い出したのではない。そういう記憶を、いま植え込まれた。
『認識汚染!』
『書架から離れろ!』
紫乃はマイクを入れた。
「古書店で本の題名を雑に読むからだよ」
白鯨の隊員たちが一斉に銃口を上げる。
だが声の位置は掴めない。スピーカーは店中にある。
古いラジオ。ブラウン管。レジ横の呼び鈴。棚の奥に仕込んだ薄型端末。そのすべてが紫乃の声を少しずつ違う位置から流している。
「ようこそ、雨燕古書店へ」
紫乃は明るく言った。
「立ち読みは歓迎だけど、武装しての入店は困るな」
『店主、時任紫乃と判断』
『地下解析室にいる可能性』
『全階層を制圧する』
「うん、そう来るよね」
紫乃は頷いた。
「じゃあ、まずは君たちの位置情報を少し借りる」
白鯨小隊の視界表示に、仲間の位置が表示される。だが、紫乃はそれを入れ替えた。
表口班と裏口班。
一階と二階。
地下入口と非常階段。
すべての座標を、わずかにずらす。
たった三メートル。
けれど、古書店の中では致命的だった。
隊員の一人が、仲間の反応を追って棚の角を曲がる。そこに仲間はいない。代わりに、古い百科事典の山が崩れてくる。
『くっ……!』
隊員が避ける。その足元で床板が沈んだ。隠し収納が開き、中から青白い光が漏れる。
境界負荷を帯びた観測石。
紫乃が管理局時代に回収し、封印していたものだ。
直接触れれば危険だが、一定範囲内の侵食装備を狂わせる程度なら使える。
『装備エラー!』
『位相制御が乱れている!』
「はい、一人目」
紫乃は端末を叩く。
隊員の足元から、本棚の影が伸びた。影は縄のように絡みつき、隊員を棚と棚の間へ引き倒す。
殺しはしない。
ただ、しばらく動けないようにする。
「ごめんね。命までは取らないから、そこで寝てて」
◇
白鯨は強かった。
普通の部隊なら、最初の認識誘導で崩れている。だが彼らはすぐに視覚情報を切り、音声通信を限定し、互いの位置を物理的な合図で確認し始めた。
装備も優秀だ。箱型装置が紫乃の攪乱信号を解析し、徐々に店内構造を補正していく。
特に副隊長らしき男が厄介だった。
『書架に意味汚染がある。背表紙を読むな』
『足元の床板を信用するな』
『店内放送を遮断しろ』
『目標は地下。店主を無力化する』
的確だ。紫乃は少しだけ眉を上げた。
「伊坂の部下なだけあるね」
なら、次の手を使う。
紫乃は古いレジを開け、中から小さな紙片を取り出した。そこには短い詩が書かれている。管理局では《言語誘導片》と呼ばれたもの。
人の感情や認識へ強く作用する文節を、境界反応の薄い紙に固定したものだ。危険すぎて、今では使用禁止。紫乃も普段は絶対に使わない。
けれど、白鯨相手に手加減だけでは守れない。彼女は紙片を一枚、空調口へ入れた。店内の空気が、少し変わる。副隊長の足が止まった。
『……何だ』
彼の耳に、声が聞こえ始める。
雨の音。
ページを捲る音。
誰かが遠くで、自分の名前を呼ぶ音。
副隊長は即座に耳の通信を切った。正しい判断だ。だが遅かった。彼は自分がいつの間にか、児童書棚の前に立っていることに気づいた。
棚の一番下に、開いた絵本がある。そこにはこう書かれている。
『帰りたい子は、こちらへ』
副隊長は舌打ちし、銃口を向けた。だが背後の棚が動く。本棚そのものが壁になり、退路を塞いだ。
床に仕込まれた古いレールが動き、書架が音もなく配置を変えていく。
雨燕古書店は、古書店である前に、紫乃の作った迷路だった。
『隊長、分断されています!』
『二階班、応答しろ!』
『三番、反応消失!』
「消してないよ。眠らせただけ」
紫乃は誰にともなく言った。
「たぶん」
その時、ブラウン管の一つに、外の映像が映った。
伊坂が動いた。灰銀色の髪を揺らし、白い戦術装束の裾を雨上がりの風になびかせながら、彼女は表口へ向かっている。紫乃は笑みを消した。
「来るか」
ここからが本番だ。伊坂は、小隊とは違う。
認識誘導も、座標偽装も、意味汚染も、彼女相手には長く通じない。紫乃は、伊坂を止めるつもりはなかった。
通すつもりだった。ただし、一人にしてから。
◇
白鯨小隊の残り三名が、地下入口へ到達した。紫乃は最後の罠を起動する。
地下へ続く階段の踊り場に、古い本棚が一つ置かれている。誰が見ても不自然な位置だ。だが、追い詰められた人間は不自然を見落とす。
棚には、古い辞典が並んでいた。そのうち一冊の背表紙に、何も書かれていない本がある。
隊員の一人がそれを視界に入れた瞬間、足を止める。
『……隊長?』
『どうした』
『今、自分の名前が――』
言い終わる前に、その隊員の装備が沈黙した。
名前を抜く本。
もちろん本当に名前を奪うわけではない。意識の中で、自分の名前を思い出す経路を数分だけ遮断するだけだ。
だが、境界領域ではそれだけで十分危険だった。
自分の名前を一瞬でも見失った者は、立っている場所を見失う。隊員はその場に膝をついた。
残り二名が慌てて支えようとする。その瞬間、足元の階段が横へずれた。
紫乃は床下機構を操作する。二人はバランスを崩し、地下書庫横の閉鎖区画へ滑り落ちた。鉄格子が落ちる。古い防火扉が閉まる。
『くそっ!』
『開けろ!』
「ごめんね。そこ、湿気が多いから本当は人を入れたくないんだけど」
紫乃はマイク越しに言った。
「五分くらいで酸素濃度アラートが鳴るから、その前に開けてあげる。たぶん」
白鯨小隊、残り一名。そして、伊坂。
紫乃は端末の画面を見た。最後の隊員は、伊坂のすぐ前で止まっていた。
『伊坂さん、内部構造が変化しています。単独突入は危険です』
「分かっています」
伊坂の声は冷静だった。
「あなたは外へ。周辺警戒へ移行」
『しかし』
「命令です」
隊員は一瞬ためらい、それから従った。紫乃は口元を歪めた。
「さすが。損切りが早い」
伊坂が、雨燕古書店へ入る。その瞬間、店内の空気が変わった。白鯨小隊の時とは違う。伊坂は本を読まない。棚を見ない。音を追わない。
ただ、通路の構造と空気の流れだけを見て歩く。紫乃の仕掛けた認識誘導のほとんどを、最初から相手にしていない。
紫乃は静かに端末を閉じた。もう、遠隔操作だけでは足りない。
彼女は『門歌断章集 附・海底閉門譜』を抱え、地下解析室の灯りを落とした。
「さて」
紫乃は呟く。
「ここからは、直接話そうか」
地下へ続く階段を、伊坂の靴音が降りてくる。
一段。
また一段。
古書店の奥で、本のページが一斉に震えた。
まるで、これから語られる言葉を待っているみたいに。
紫乃はその中央に立ち、灰銀色の鯨を待った。
古書店の籠城戦。次回、二人は何を語るのか—




