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《第七保守員待機室》のひととき

 東京湾へ急ぐ一行。しかし休息も必要だ。

三人は青織の持ち込んだ物資で休息を得る。

海の匂いは強くなっていた。東京湾が近い。

 

 それは地図で確認しなくても分かった。空気そのものが塩を含み、肺の奥へ入るたびに、澪の胸の“扉”がわずかに震える。


 呼ばれている、と思った。けれどそれがアオの歌なのか、向こう側の声なのか、それとも自分自身の不安なのか、もう簡単には区別できない。

 

 澪は首元の鈴を握った。指先に触れると、内側で細い共鳴が起きる。音が鳴るのではなく、散りかけた意識が一本の線へ戻される。


 身体の輪郭が思い出される。私はここにいる。九条澪として、ここにいる。

 そう自分に言い聞かせた。

 

「九条」

 

 前を歩く青織が振り返らずに言った。

 

「息が乱れてる」

 

「……そんなのまで分かるの?」

 

「分かる。無理に扉を閉じようとするな。力で押さえつけると、逆に反動が来る」

 

「じゃあ、どうすればいいの」

 

「開きすぎないように、ドアノブを持て」

 

「ドアノブ?」

 

 澪が聞き返すと、青織は少しだけ言葉を探すように沈黙した。

 

「扉そのものの感覚を消そうとするな。開いていることを認めた上で、どこまで開けるかを決めろ」

 

「それ、簡単に言うけど……」

 

「簡単なら俺は言わない」

 

 澪は思わず顔をしかめた。

 

「励ましてるのか突き放してるのか、分かりにくい」

 

「どちらでもない。事実を言っている」

 

「それが一番困るんだけど」

 

 エンデが隣で真面目な顔をした。

 

「青織、説明へた」

 

「黙れ」

 

「でも、言ってること、少し分かる」

 

 エンデは澪を見上げた。

 

「澪、扉を怖がると、扉が大きくなる」

 

「怖がると?」

 

「うん。向こう側は、怖い人の近くに来る。寂しい人の近くにも来る」

 

 その言葉に、澪は返事ができなかった。

 渋谷第十三駅でエンデが言ったことを思い出す。苦しい時、人はどうして違うことを言うのか。


 あの時、自分は確かに怖かった。未来も、受験も、消えた大学も、壊れていく世界も。全部が怖くて、それでも平気な顔をしようとしていた。


 向こう側は、そういう隙間を見つけるのだろう。

 

「じゃあ、怖くないふりをするのは駄目ってこと?」

 

「たぶん」

 

 エンデは頷いた。

 

「怖いって言っても、澪が澪なら大丈夫」

 

「……それ、すごいこと言ってるね」

 

「すごい?」


「うん。ちょっとだけ」

 

 エンデは少し誇らしげにした。その表情を見て、澪はほんの少しだけ息が楽になった。

 

 旧排水区画の奥へ進むにつれ、壁面に貼られた注意書きの種類が変わっていった。

 

 旧い前身組織のものではなく、正式に境界管理局が発足した後の規格化された標識が増えていく。ふとその一つが澪の目に止まった。

 

《漂流個体への命名は禁止》

 

 澪は最後の一文を見て、無意識にエンデの手を握り直した。エンデは不思議そうに見上げる。

 

「澪?」

 

「……何でもない」

 

 漂流個体への命名は禁止。

 

 名前をつけた瞬間、人は災害を愛してしまう――

 伊坂の言葉が、記憶の奥で蘇る。

 

 白鯨も、管理局も、違う場所に立っているようで、似たような恐怖を抱えているのかもしれない。


 名前を呼べば、モノとして扱えなくなる。モノとして扱えなければ、処分も、回収も、利用も、簡単にはできなくなる。

 

 だから番号で呼ぶ。

 対象と呼ぶ。

 漂流個体と呼ぶ。

 

 その方が、きっと楽だから。澪は唇を噛んだ。

 

「エンデ」

 

「うん」

 

「名前、呼んだだけ」

 

「うん」

 

 エンデは少しだけ笑った。

 

「エンデ、いる」

 

 その言葉だけで、澪の胸の奥が少し温かくなった。

 

 ◇

 

 排水区画の途中で、青織が足を止めた。


 澪は反射的に身構えたが、彼は銃を構えなかった。

 代わりに、壁際に埋もれるように設置された古い鉄扉へ近づく。扉の上には、煤けたプレートが残っていた。

 

《第七保守員待機室》

 

「少し休む」

 

「休むの?」

 

 澪は思わず聞き返した。

 

「お前の顔色が悪い。エンデも縫合が緩んできてる」

 

「エンデ、平気」

 

「お前の平気は信用しない」

 

 青織は即答し、扉横の古い端末へ細いケーブルを繋いだ。数秒後、錆びたロックが鈍い音を立てて外れる。扉が開くと、中から古い空気と埃の匂いが流れ出した。

 

 中は狭い休憩室だった。

 壁際には三人掛けのベンチ。折り畳み式の机。金属製のロッカー。天井には壊れかけた換気扇がある。


 奥には非常用の小型ストーブと、空の給湯ポットが置かれていた。侵食の影響が完全にないわけではないが、今までの通路よりはずっとましだった。


 壁に貼られた古いカレンダーは二〇二四年十月で止まっている。

 澪は部屋に入るなり、力が抜けたようにベンチへ腰を下ろした。

 

「……座れる場所って、こんなにありがたいんだ」

 

「人間、座るの好き」

 

 エンデも隣に座ろうとして、濡れた靴の音に気づいたらしい。足元を見下ろし、深刻そうな顔をした。

 

「靴、死にかけてる」

 

「死んでないよ。濡れてるだけ」

 

「靴、濡れると元気なくなる」

 

「それは少し分かる」

 

 澪が笑うと、エンデは真剣なまま靴を脱ごうとした。だがマジックテープの扱いにまだ慣れていないらしく、しばらく靴と格闘している。

 

 澪が横目で見て、しゃがんだ。

 

「ほら貸して」

 

「エンデ、自分でできる」

 

「できてないじゃん」

 

「できる途中」

 

「ほらほら」

 

 澪はそう言って、手早くマジックテープを剥がした。エンデの足から濡れたスニーカーを抜き、壁際のストーブの近くへ並べる。


 登校の道のりは、毎日が晴れなわけではない。学生として靴を乾かすのは慣れていた。


 濡れた靴の中へ古い紙を詰めながら、通学していた日常のことが脳裏によぎって胸がつきりと痛む。

 

 澪は思わず見つめる。

 エンデが裸足のまま、澪を見上げた。

 

「澪、靴の医者?」

 

「違うけど、あはは何それ」

 

「靴、治る?」

 

「乾けばね」

 

「ありがとう」

 

 エンデは真面目に頭を下げた。

 

「お礼を言うほどのことじゃないよ」

 

 ミオは優しくエンデを見つめる。

 そのやりとりを青織は黙って見ていた。

 

 ――青織、ねえリボン結んでよ――

 

 過去の記憶の残響……それを振り払うように青織は買い込んでいた携帯食を机へ並べた。


 水、栄養ゼリー、硬いビスケット、ナッツ入りのバー。それからなぜか、潰れないように丁寧に袋へ入れられた小さな菓子パンが二つ出てきた。

 

「それも買ったの?」

 

 澪が聞くと、青織は平然と答えた。

 

「糖分がいる」

 

「青織の?」

 

「全員だ」


 エンデは菓子パンを見つめた。

 

「これは?」

 

「クリームパン」

 

「くりいむ」

 

「中に甘いものが入ってる」

 

 エンデはしばらく考え込んだ。

 

「罠?」

 

「食べ物」

 

「甘い罠?」

 

「食べ物だってば」

 

 澪が笑いながら袋を開けてやると、エンデは両手でクリームパンを受け取った。しばらく匂いを嗅ぎ、それから恐る恐るかじる。

 

 次の瞬間、目を見開いた。エンデの瞳孔がぐっと開くのを見て澪はちょっと笑ってしまった。

 

「……中、やわらかい」

 

「おいしい?」

 

「うん」

 

 エンデはもう一口食べる。齧った圧に耐えきれずクリームが溢れる。

 

「エンデ、がっつくねぇ」

 

 澪が笑いながらティッシュで拭いてあげる。澪は思った。そういえばこの前もコーヒーを拭いてあげたな……過保護すぎるだろうか?

 

 エンデは今度は少しだけ慎重に、けれど明らかに嬉しそうに三口目を食べた。

 

「人間、靴は難しいけど、甘いものはすごい」

 

「その評価、極端だね」

 

「澪も食べる?」

 

「食べる」

 

 澪ももう一つの菓子パンを開けた。口に入れると、安いクリームの甘さが舌に広がる。


 普段なら何でもない味だった。コンビニでよく見る、特別ではない菓子パン。

 

 けれど今は、不思議なくらい胸に染みた。

 

 世界が壊れかけていても、東京湾が黒く脈打っていても、クリームパンは普通に甘い。

 そのことが、どうしようもなく泣きたくなるほどありがたかった。

 

「澪?」

 

 エンデが覗き込む。


「泣いてる?」

 

「泣いてない」

 

 そう言ってから、澪は少しだけ笑った。

 

「いや、ちょっと泣いてるかも」

 

「苦しい?」

 

「違う。たぶん、安心した」

 

「甘いもの、安心する?」

 

「うん。する時もある」

 

 エンデは自分のクリームパンを見下ろした。

 

「すごい」

 

 青織は机の端で水を飲んでいた。例によって無表情だったが、どこか少しだけ気が抜けているように見えた。

 澪はふと聞いた。

 

「青織は、甘いもの好きなの?」

 

「普通だ」

 

「コーヒーに砂糖めちゃくちゃ入れてた人の普通は信用できない」

 

「糖分がいると言った」

 

「便利な言葉だね」

 

 エンデがクリームパンを半分ほど食べ終えて、真剣な顔で言った。

 

「青織、甘いもの、ラーメン、米……糖質が好き?」

 

 エンデは()()()()で覚えた言葉を覚え、翻訳する際に言葉を分解したり、さらに分岐させたりして学習することができるらしかった。しかし糖質とは――澪は吹き出した。

 

「必要だからだ。今はお前たちには動いてもらわないといけない。しっかり食え。」

 

「エンデ、学習した。青織は優しい時、必要という」

 

 澪は吹き出した。

 青織は本当に嫌そうな顔をしたが、否定しなかった。否定しないことが、ほとんど肯定みたいに見えて、澪はまた笑いそうになった。

 

「さっさと終わらせて八郎ラーメン全マシが食いたい……」

 

 誰にも聞こえない声で青織が珍しくぼやいた。

 

 ◇

 

 ほんの数分だった。

 古い休憩室。乾かされる靴。安い菓子パン。


 疲れた顔で水を飲む青織。クリームのついた口元を澪に拭かれるエンデ。それは、あまりにも普通だった。普通すぎて、逆に現実味がなかった。

 

 澪は胸元の鈴を指先で触れた。内側で、細い共鳴が穏やかに返ってくる。今だけは、扉も静かだった。

 休憩室の壁には、古いメモが貼られている。

 

《夜勤者へ。ポットの水は補充すること》

《十月七日、第二観測班帰還せず》

《誰かが泣いていても、ひとりで見に行くな》

《休める時に休め。判断を誤る》

 

 最後の一文を、澪はしばらく見つめた。

 休める時に休め。

 

 誰が書いたのか分からない。もうここにはいない誰か。境界侵食の初期に、この場所で夜を越えた人。怖がりながら、それでも仕事をしていた人。

 

 その人も、ここで何かを食べただろうか。靴を乾かしただろうか。怖くないふりをして、誰かとどうでもいい話をしただろうか。

 

 澪は少しだけ、その知らない人に近づいたような気がした。

 

「そろそろ行く」

 

 青織が立ち上がった。

 短い休憩は終わりだった。

 エンデは乾ききっていない靴へ足を入れ、少し顔をしかめた。

 

「靴、冷たい」

 

「完全には乾かないよ」

 

「靴、機嫌悪い」

 

「靴のせいにしない」

 

 澪が笑いながら立ち上がると、青織が机の上を片付けた。

 食べ終えた袋をまとめ、痕跡が残らないようにする。その動作の手際が良すぎて、澪はまた少し現実に戻された。

 

 ここは避難場所ではない。逃亡の途中だ。休んだなら、進まなければならない。青織は扉の前で一度だけ振り返った。

 

「ここから先は、管理局の監視網に近い。会敵する可能性がある」

 

「管理局……」

 

 澪は小さく呟く。エンデの手が、そっと澪の袖を掴んだ。青織は二人を見て、低く言った。

 

「もし交渉になっても、俺の後ろから出るな。相手が保護と言っても信用するな」

 

「全員、敵?」

 

 エンデが尋ねる。青織は少しだけ黙った。

 

「全員ではない」

 

 その答えは、意外だった。

 

「だが、全員が味方でもない」

 

「難しい」

 

「そうだ」

 

 青織は扉を開けた。


 再び、湿った排水区画の空気が流れ込む。休憩室の暖かさは、すぐに背後へ消えた。

再度排水区画に戻る—物語が再度動き出す。

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