アオの影
アオの影、深度存在の猛攻—三人は走る。
「走れ!」
青織の声と同時に、三人は水の上を走り出した。
足首ほどの水を蹴るたび、青い光が散る。エンデのスニーカーが水を吸い、きゅ、きゅ、と変な音を立てている。
「靴、水、かなり嫌いかも」
「今それ言う!?」
「大事」
「後で乾かそう!」
「約束?」
「約束!」
澪は半ば叫びながら答えた。そのやり取りすら、今は必要だった。言葉を交わしていないと、アオの声をまとった偽物たちの歌に呑まれそうになる。
背後で、青織が銃を撃ち続けている。青白い閃光が何度も地下空間を照らす。
そのたびに柱の影が伸び、アオの姿をしたものたちが水へ崩れ、また立ち上がる。青織の歩みが、一瞬だけ鈍る。澪は振り返った。
顔のないアオの一体が、青織のすぐ近くに立っていた。
その姿は、他のものよりも輪郭がはっきりしている。白い服。濡れた青い髪。小さな肩。顔だけが黒く塗り潰されている。
それが、青織へ手を伸ばした。
『ごめんね』
アオの声で言った。その一瞬。青織の表情が凍る。澪は叫んでいた。
「違う!」
声が調律槽に響いた。
「それはアオじゃない!」
青織の目が揺れた。そして、戻る。彼は観測銃を構え直し、低く言った。
「分かってる」
引き金を引く。青白い閃光が、顔のない少女の形を撃ち抜いた。影は水へ戻り、崩れ落ちる。
だが、崩れる寸前に、その黒く塗り潰された顔の奥から、ほんの一瞬だけ別の声が漏れた。
――閉じて。
澪の胸が大きく脈打った。
本物だ。
今の一瞬だけは、偽物ではなかった。アオの歌の断片が確かに存在している。深い水底に残っていた、願いの欠片。澪は思わず足を止めかける。エンデが強く手を引いた。
「澪、だめ」
「でも、今の」
「分かる。でも、今はだめ」
エンデの声も震えていた。
「アオの歌、罠に使われてる。触ったら、澪、引っ張られる」
澪は唇を噛む。その歌を助けたいと思った。
そんな考えが正しいのかも分からない。歌を助ける、なんて意味が分からない。
でも、アオの願いが、向こう側の何かに利用されているのなら、それをこのまま置いていくことがひどく苦しかった。
けれど今は、ここで沈むわけにはいかない。
澪は鈴を握りしめた。
「……行く」
澪は言った。
「でも、絶対に取り戻す」
エンデがこちらを見る。
「アオの歌?」
「うん」
「澪、できる?」
「分からない」
澪は息を切らしながら答えた。
「でも、置き去りにはしたくない」
エンデは少しだけ目を見開いた。それから、小さく頷く。
「エンデも、そう思う」
二人は再び走る。点検橋はもう目の前だった。
鉄製の細い階段を上ると、調律槽の水面が下に見えた。青い非常灯が揺れ、柱の森の間で、顔のない少女たちがまだこちらを見上げている。
点検橋の奥には、重い隔壁扉があった。青織が駆け寄り、端末を扉横の認証盤へ接続する。
短い電子音。赤い表示。
《認証不可》
「……死んでるな」
「壊す?」
澪が息を切らしながら言うと、青織は扉を一瞥した。
「ここで撃てば橋ごと落ちる」
「じゃあどうするの!?」
「手動ハッチがあるはずだ」
青織は扉横のパネルを乱暴に外した。中には古いレバーがある。錆びて固まっているように見えた。
青織が近づき、力任せに引く。
動かない。
「錆びてる」
「それは見れば分かる!」
背後から影が、アオの歌を着た深度存在の声が近づく。澪の胸の奥の扉が、開きかける。
歌え。
そう言われている気がした。アオの歌――それはきっとアオの特殊な境界侵食なのだ。今やっと澪は理解した。
歌えばこの扉は開く。
そんな確信が、どこからともなく湧いてくる。澪は喉に手を当てた。
「澪?」
エンデが気づく。
「だめ、澪。今の歌、“向こう側”が待ってる」
「でも、開けないと」
「違う」
エンデは首を横に振った。
「澪の歌を、まだ使わせちゃだめ」
その言葉で、澪ははっとした。
自分の歌。
アオの歌。
“向こう側”の声。
それらが混ざりかけていた。
澪は鈴を握る。鳴らすのではなく、強く握る。
そして、小さく息を吸った。歌ではなく、私の言葉にする。
「開いて」
短く、はっきり言った。
命令ではない。
祈りでもない。
ただ、自分の声で。
「私たちは、先へ行く」
澪の境界侵食が、鈴を通って細く伸びた。海のように広がるのではなく、一筋の線として。
レバーの錆が、ぱき、と音を立てて剥がれた。青織がすかさずもう一度引く。
今度は動いた。重い音を立てて、扉が開く。青織が一瞬だけ澪を見る。
「今のは」
「後で!」
澪は叫ぶ。
「後で説明する!」
「……分かった」
三人は扉の中へ飛び込んだ。
青織が最後に入り、扉を閉める。閉まる直前、調律槽の水面に立つ無数のアオの影が、一斉にこちらを見た。
顔のない口が開く。今度は、全員が同じ言葉を言った。
『東京湾で待ってる』
扉が閉じた。暗闇が広がる。すぐに重いロック音が響き、静寂が訪れる。
澪は壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返した。膝が震えている。
エンデも息を切らしていた。スニーカーは濡れ、髪の青が少し白く退色している。
青織は扉に背を向け、しばらく目を閉じていた。澪は胸元を押さえる。まだ、アオの声が残っている。
閉じて——
東京湾で待ってる。
その二つが頭の中で重なっていた。青織が静かに言った。
「九条」
「……なに」
「さっきの言葉で、ハッチが反応した」
「私の扉……エンデに触発されて開いた扉の影響で、境界侵食が使えるようになったみたい」
澪は自分の手を見る。まだ指先が震えていた。
「前から、不安定だけどできてた。渋谷でも、黒い海が出たり、言葉に反応したりしてた。でも、鈴のおかげで少しずつ安定して、イメージしたことを起こせるようになってる……気がする」
「そうか」
青織は少しだけ考え込む。
「それでも安定しないうちは決して無理はするな」
「うん」
「お前の力は、エンデと同じ境界侵食だ。ただし発現の仕方が違う。エンデは存在そのものが境界に近い。お前は、開いた扉を通して向こう側へ干渉している」
「……つまり、私は扉?」
「今はな」
その言い方が少し怖かった。
今は。
では、この先はどうなるのだろう。エンデが澪の手を握った。
「澪の言葉、さっき怖くなかった。“向こう側”は澪に境界を閉じるアオの歌を歌わそうとしている。何か変」
「たしかに……」
「でも澪は言葉で境界侵食した」
エンデは真剣に頷く。
「先へ行く言葉だった」
澪は少しだけ泣きそうになった。
「……ありがとう」
青織は歩き出す。
「行くぞ。ここから先は旧排水区画だ。地上に近い」
通路の先から、潮風が吹いてきた。今までの地下の湿気とは違う。本物の海の匂いだった。東京湾が近い。
澪の胸の奥で、扉が静かに鳴る。
怖い。
けれど、もう戻れない。アオの歌は、まだ水底で奪われたまま響いている。エンデは震えながらも、隣にいる。
青織は過去を抱えたまま、前を歩いている。澪は鈴を握った。自分の声を忘れない。
そう思いながら、三人は旧排水区画へ進んだ。
その先で、夜明け前の東京湾が、黒く脈打っていた。
なんとか追っ手を振り払い、旧排水区画を進んでゆく。
青織の心は癒えないまま……




