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南品川地下調律槽

 澪たちは南品川地下調律槽は出る。そこで遭遇したものとは—

 青い非常灯の列は、どこまでも続いているように見えた。

 

 旧避難導線は、真っ直ぐではなかった。少し進むたびに緩く湾曲し、あるいは唐突に右へ折れ、またはありえない角度で下へ沈んでいく。


 壁面には古いコンクリートの継ぎ目と、後から貼られた補強板が交互に現れ、その上から境界管理局の前身組織の警告文が幾重にも重ねられていた。

 

《泣き声は記録ではない》

 

 最後の一文を見て、澪は足を止めかけた。

 泣き声は記録ではない。

 

 どういう意味なのか、考えたくなかった。けれど考えないようにすればするほど、文字が頭の中へ染み込んでくる。

 

 泣き声は記録ではない。では、今も遠くから聞こえているこの歌は何なのだろう。記録なのか。呼び声なのか。それとも、まだどこかで生きているものの声なのか。

 

「九条」

 

 青織の声で、澪は我に返った。

 

「見るなと言ったはずだ」

 

「……ごめん」

 

「謝る必要はない。次から見るな」

 

 青織は前を向いたまま言う。その言い方は相変わらず素っ気なかったが、叱責というより確認に近かった。

 

 澪は首元の鈴を握る。紫乃から渡された、小さな鈴。

 指先に触れた瞬間、音として鳴るよりも先に、内側で細い共鳴が起きた。


 胸の奥の“扉”へ、一本の糸が結ばれるような感覚。広がりかけていた意識が、自分の身体の輪郭へ静かに戻ってくる。

 

 エンデに触発されて開いた扉。その影響で、澪はエンデと同じように境界侵食を使えるようになっている。

 

 けれどそれは、エンデのように生まれつき身に宿している力ではない。澪の内側に開いてしまった扉を通して、“向こう側”へ手を伸ばしてしまうようなものだった。

 

 だから、不安定だった。

 

 感情が揺れれば勝手に開き、恐怖に引かれれば黒い海が滲み、言葉が強くなれば現実へ干渉する。自分の意志で使っているというより、境界が澪の感情に反応しているだけだった。

 

 けれど鈴に触れていると、その波が少しだけ整う。散らばる感情が一つの線へ戻り、開きかけた扉の縁を、澪自身の意識が捉え直せる。


 自分の呼吸が、少しだけ戻ってきた。エンデが隣から澪を見上げた。

 

「澪、文字に引っ張られた」

 

「分かるの?」

 

「うん。澪の音、少し薄くなった」

 

「音って、そんなに分かるんだ」

 

「澪は分かりやすい」

 

「それ、褒めてる?」

 

 エンデは少し考えた。

 

「たぶん」

 

「たぶんなんだ……」

 

 そんなやり取りをしている間にも、背後から深度存在の気配は迫っていた。直接見えるわけではない。


 けれど、水路の奥で水位が変わる音がする。遠くの曲がり角から、泡立つような声が聞こえる。

 

 澪を呼ぶ声。青織を責める声。そして、どこかでアオの歌を真似ようとする、歪んだ旋律。

 

 青織は足を止めない。だが、観測銃を握る右手に力が入っているのが分かった。

 

「青織」

 

 澪は思わず呼んだ。

 

「大丈夫?」

 

「お前が気にすることじゃない」

 

「でも」

 

「今は進む」

 

 それだけだった。

 けれど、その声の奥にある硬さを、澪は聞き逃せなかった。

 

 青織はきっと、大丈夫ではないのだろう。それでも、足を止めない。

 その背中を見て、澪は胸の奥が痛くなる。アオの声を聞いた後で、この通路を進むことが、青織にとってどれほど残酷なのか、完全には分からない。


 でも少なくとも、彼が平気でいるはずがないことだけは分かる。

 

 エンデも同じことを感じているのか、しばらく青織の背中を見ていた。やがて小さく言う。

 

「青織の音、痛い」

 

 青織は答えなかった。ただ、少しだけ歩幅が速くなった。

 

 ◇

 

 旧避難導線の先に、広い空間が現れた。地下に造られた、巨大な貯水槽だった。澪は思わず息を呑む。

 

 天井は見上げるほど高く、何十本ものコンクリート柱が、暗い森のように奥へ奥へと並んでいる。


 床には足首ほどの水が張り、青い非常灯の光が水面へ細長く揺れていた。

 

 広すぎる地下空間は、ひとのために造られた施設というより、巨大な生き物の胸腔の内側に迷い込んだようだった。

 天井の排水口からは、雨が落ちていた。ただし、上から下へではない。

 

 床に溜まった水滴が、細い糸になって天井へ向かって昇っていく。音もなく、静かに、雨が逆さに降っている。壁には、古い施設名が残っていた。

 

《南品川地下調律槽》

 

 調整池ではなく、調律槽。

 その文字を見た瞬間、澪の胸の奥で“扉”が小さく鳴った。

 

「調律槽……?」

 

 澪が呟くと、青織が壁に残った案内板へ視線を向けた。

 

「元は雨水調整池だ。侵食初期に、避難導線と観測路の中継点として転用された」

 

「ただの貯水槽じゃないの?」

 

「ただの貯水槽だった。だが、水は境界反応を拾いやすい。ここでは、海鳴りや境界音を観測していた。人間の耳に聞こえる形へ整えるための場所だったらしい」

 

「だから、調律……」

 

「現場の呼び名だ。正式名称じゃない」

 

 青織は短く言ってから、少しだけ沈黙した。

 

「アオの観測記録にも、ここは出てくる」

 

 その名前が出た瞬間、地下空間の水面がわずかに震えた。澪は反射的にエンデの手を握る。エンデも、じっと水面を見つめていた。

 

「ここ、歌を覚えてる」

 

「アオの?」

 

「少し」

 

 エンデは言葉を探すように、ゆっくり続けた。

 

「でも、いろんな歌が沈んでる。泣いた人の声、帰れなかった人の名前、閉じた扉の音。混ざってる」

 

「……嫌な場所だね」

 

「うん」

 

 エンデは素直に頷いた。

 

「でも、静か」

 

 確かに、調律槽は静かだった。

 

 背後から迫っていた深度存在の黒い海の声も、ここへ入った途端、遠くなっている。完全に消えたわけではないが、“向こう側”自体が少し遠い。

 

 柱の奥、水路の向こう、暗い壁の隙間。

 

 そこからまだ何かが息を潜めている気配はあった。けれど、この広い地下空間そのものが、声を吸い込んでいるようだった。

 

 青織が腰の端末を取り出し、簡易観測器を起動する。小さな画面に青い波形が走った。

 

「ここはまだ使える。深度は高いが、安定している」

 

「安定してるようには見えないけど」

 

「境界管理局の基準ではな」

 

「基準が怖い……」

 

 澪が顔をしかめる。青織は調律槽の奥を見据えた。

 

「この施設を抜けると、品川側の旧排水区画に出る。そこから湾岸封鎖線の内側へ近づける」

 

「じゃあ、ここを横切るだけ?」

 

「横切れればな」

 

「今の言い方、すごく嫌だ」

 

「事実だ」

 

 青織は観測銃を構え直した。

 

 その時だった。調律槽の中央、水面の一部が淡く光った。澪は足を止める。

 

 青い光だった。

 

 地下の天井灯でも、非常灯の反射でもない。もっと柔らかく、もっと深い。海底に沈んだ月光のような光。

 

 その光の中心に、誰かが立っていた。澪の呼吸が止まった。アオだ――そう思った瞬間、青織の肩が強張った。

 

「……」

 

 彼は何も言わない。けれど、観測銃の銃口がわずかに下がった。


 少女は振り返らない。背中だけを見せて、水面の上に立っている。足元から波紋が広がるたび、調律槽の柱が青く照らされた。

 

 歌が聞こえる。澄んだ旋律が響く――青織の記憶にあるアオの歌。澪の夢に残っていた、あの歌。

 けれど。エンデが小さく呟いた。

 

「違う」

 

 声が震えていた。

 

「あれ、アオじゃない」

 

 澪も、すぐに分かった。

 歌は似ている。

 あまりにも似ている。

 

 けれど音の底に、黒い海水の泡立つ音が混ざっている。歌の輪郭に、何か冷たいものが貼りついている。誰かの声を、別の何かが上から被っている。

 

 “向こう側”からきた深度存在が()()()()()()

 

 その表現が、澪の頭に浮かんだ。

 アオの歌をまとって、何かがこちらを呼んでいる。

 青織が一歩前へ出た。

 

「青織!」

 

 澪が鋭く呼ぶ。青織は止まった。だが、目は少女の背中を見ていた。

 

 少女が、ゆっくり振り返る。顔はなかった。青い髪の下にあるはずの目も鼻も口も、すべて黒い水で塗り潰されている。けれど口だけが、後から裂けるように開いた。

 

 『アオリ』

 

 アオの声で、青織の名を呼んだ。その瞬間、青織が観測銃を撃った。

 青白い閃光が水面を裂き、少女の形をしたものを吹き飛ばす。水柱が上がり、調律槽全体に波紋が広がった。

 

 だが、影は消えない。水面に落ちたはずの形が、今度は十数個の波紋に分かれ、それぞれの波紋から青い髪の少女が立ち上がった。どれも顔がない。

 

 調律槽の柱の間から、さらに人影が現れた。顔のない観測員。白い防護服。水に濡れた手。胸元だけ青く光る、名前のない境界個体の影。

 

 それらが水面を滑るようにこちらへ近づいてくる。

 

「やっぱり罠か」

 

 青織が低く吐き捨てる。

 

「でも……本物も混ざってる」

 

 澪は水面を見つめた。

 

「アオの歌の断片が、沈んでる」

 

「分かるのか」

 

「うん。たぶん」

 

 鈴が小さく震えていた。澪の内側で、扉が開きかけている。けれど今までのように、無秩序に広がる感じではない。鈴が芯になって、境界侵食の波を澪の手の届く形へ整えている。

 

 澪は鈴を握った。共鳴を、慎重に起こす。

 

 境界侵食――

 

 自分から開く。

 広がりすぎないように。“向こう側”に名前を掴まれないように。

 

 まるで、波長を合わせるように。

 音として鳴らすのではなく、内側の震えを境界へ重ねる。

 

 澪の指先から、細い波紋のような光が広がった。

 水面が震え、顔のない少女たちの動きが、わずかに止まる。 

 

 アオの声を真似た歌が、一瞬だけ乱れた。

 エンデが澪の前に出る。

 

「澪、もう一回」

 

「うん!」

 

 澪はもう一度、鈴を媒体にして境界侵食を起こした。

 今度は少しだけ、安定していた。内側で整えた共鳴に、エンデの虹色の瞳が反応する。

 

 彼の周囲に淡い光が広がる。水面の波紋のような光。澪の境界侵食と重なり、足元の水の上に細い道を描く。

 青い光の道が、調律槽の奥へ伸びていく。

 

「道が出た」

 

 青織が端末を確認する。

 

「右奥の点検橋だ。あそこから排水区画に抜けられる」

 

「走れ!」

 

 青織の声と同時に、三人は水の上を走り出した。

 足首ほどの水を蹴るたび、青い光が散る。エンデのスニーカーが水を吸い、きゅ、きゅ、と変な音を立てている。

 

「靴、水、かなり嫌いかも」

 

「今それ言う!?」

 

「大事」

 

「後で乾かそう!」

 

「約束?」

 

「約束!」

 

 澪は半ば叫びながら答えた。そのやり取りすら、今は必要だった。言葉を交わしていないと、アオの声をまとった偽物たちの歌に呑まれそうになる。

 

 背後で、青織が銃を撃ち続けている。青白い閃光が何度も地下空間を照らす。


 そのたびに柱の影が伸び、アオの姿をしたものたちが水へ崩れ、また立ち上がる。青織の歩みが、一瞬だけ鈍る。澪は振り返った。

 

 顔のないアオの一体が、青織のすぐ近くに立っていた。

 その姿は、他のものよりも輪郭がはっきりしている。白い服。濡れた青い髪。小さな肩。顔だけが黒く塗り潰されている。

 それが、青織へ手を伸ばした。

 

 『ごめんね』

 

 アオの声で言った。その一瞬。青織の表情が凍る。澪は叫んでいた。

 

「違う!」

 

 声が調律槽に響いた。

 

「それはアオじゃない!」

 

 青織の目が揺れた。そして、戻る。彼は観測銃を構え直し、低く言った。

 

「分かってる」

 

 引き金を引く。青白い閃光が、顔のない少女の形を撃ち抜いた。影は水へ戻り、崩れ落ちる。

 

 だが、崩れる寸前に、その黒く塗り潰された顔の奥から、ほんの一瞬だけ別の声が漏れた。

 

 ――閉じて。

 

 澪の胸が大きく脈打った。

 本物だ。

 

 今の一瞬だけは、偽物ではなかった。アオの歌の断片が確かに存在している。深い水底に残っていた、願いの欠片。澪は思わず足を止めかける。エンデが強く手を引いた。

 

「澪、だめ」

 

「でも、今の」

 

「分かる。でも、今はだめ」

 

 エンデの声も震えていた。

 

「アオの歌、罠に使われてる。触ったら、澪、引っ張られる」

 

 澪は唇を噛む。その歌を助けたいと思った。

 そんな考えが正しいのかも分からない。歌を助ける、なんて意味が分からない。


 でも、アオの願いが、向こう側の何かに利用されているのなら、それをこのまま置いていくことがひどく苦しかった。

 

 けれど今は、ここで沈むわけにはいかない。

 澪は鈴を握りしめた。

 

「……行く」

 

 澪は言った。

 

「でも、絶対に取り戻す」

 

 エンデがこちらを見る。

 

「アオの歌?」

 

「うん」

 

「澪、できる?」

 

「分からない」

 

 澪は息を切らしながら答えた。

 

「でも、置き去りにはしたくない」

 

 エンデは少しだけ目を見開いた。それから、小さく頷く。

 

「エンデも、そう思う」

 

 二人は再び走る。点検橋はもう目の前だった。

 鉄製の細い階段を上ると、調律槽の水面が下に見えた。青い非常灯が揺れ、柱の森の間で、顔のない少女たちがまだこちらを見上げている。

 

 点検橋の奥には、重い隔壁扉があった。青織が駆け寄り、端末を扉横の認証盤へ接続する。

 短い電子音。赤い表示。

 

《認証不可》

 

「……死んでるな」

 

「壊す?」

 

 澪が息を切らしながら言うと、青織は扉を一瞥した。

 

「ここで撃てば橋ごと落ちる」

 

「じゃあどうするの!?」

 

「手動ハッチがあるはずだ」

 

 青織は扉横のパネルを乱暴に外した。中には古いレバーがある。錆びて固まっているように見えた。

 

 青織が近づき、力任せに引く。

 動かない。

 

「錆びてる」

 

「それは見れば分かる!」

 

 背後から影が、アオの歌を着た深度存在の声が近づく。澪の胸の奥の扉が、開きかける。

 

 歌え。

 

 そう言われている気がした。アオの歌――それはきっとアオの特殊な境界侵食なのだ。今やっと澪は理解した。

 

 歌えば(境界侵食)この扉は開く。

 

 そんな確信が、どこからともなく湧いてくる。澪は喉に手を当てた。

 

「澪?」

 

 エンデが気づく。

 

「だめ、澪。今の歌、“向こう側”が待ってる」

 

「でも、開けないと」

 

「違う」

 

 エンデは首を横に振った。

 

「澪の(境界侵食)を、まだ使わせちゃだめ」

 

 その言葉で、澪ははっとした。

 

 自分の(境界侵食)

 アオの(境界侵食)

 

 “向こう側”の声。

 それらが混ざりかけていた。

 澪は鈴を握る。鳴らすのではなく、強く握る。

 

 そして、小さく息を吸った。歌ではなく、私の()()にする。

 

「開いて」

 

 短く、はっきり言った。

 命令ではない。

 祈りでもない。

 ただ、自分の声で。

 

「私たちは、先へ行く」

 

 澪の境界侵食が、鈴を通って細く伸びた。海のように広がるのではなく、一筋の線として。

 

 レバーの錆が、ぱき、と音を立てて剥がれた。青織がすかさずもう一度引く。

 

 今度は動いた。重い音を立てて、扉が開く。青織が一瞬だけ澪を見る。

 

「今のは」

 

「後で!」

 

 澪は叫ぶ。

 

「後で説明する!」

 

「……分かった」

 

 三人は扉の中へ飛び込んだ。

 

 青織が最後に入り、扉を閉める。閉まる直前、調律槽の水面に立つ無数のアオの影が、一斉にこちらを見た。

 顔のない口が開く。今度は、全員が同じ言葉を言った。

 

 『東京湾で待ってる』

 

 扉が閉じた。暗闇が広がる。すぐに重いロック音が響き、静寂が訪れる。

 澪は壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返した。膝が震えている。

 

 エンデも息を切らしていた。スニーカーは濡れ、髪の青が少し白く退色している。

 

 青織は扉に背を向け、しばらく目を閉じていた。澪は胸元を押さえる。まだ、アオの声が残っている。

 

 閉じて——

 東京湾で待ってる。

 

 その二つが頭の中で重なっていた。青織が静かに言った。

 

「九条」

 

「……なに」

 

「さっきの言葉で、ハッチが反応した」

 

「私の扉……エンデに触発されて開いた扉の影響で、境界侵食が使えるようになったみたい」

 

 澪は自分の手を見る。まだ指先が震えていた。

 

「前から、不安定だけどできてた。渋谷でも、黒い海が出たり、言葉に反応したりしてた。でも、鈴のおかげで少しずつ安定して、イメージしたことを起こせるようになってる……気がする」

 

「そうか」

 

 青織は少しだけ考え込む。

 

「それでも安定しないうちは決して無理はするな」

 

「うん」

 

「お前の力は、エンデと同じ境界侵食だ。ただし発現の仕方が違う。エンデは存在そのものが境界に近い。お前は、開いた扉を通して向こう側へ干渉している」

 

「……つまり、私は(入り口)?」

 

「今はな」

 

 その言い方が少し怖かった。

 

 今は。

 

 では、この先はどうなるのだろう。エンデが澪の手を握った。

 

「澪の言葉、さっき怖くなかった。“向こう側”は澪に境界を閉じるアオの歌を歌わそうとしている。何か変」

 

「たしかに……」

 

「でも澪は言葉で境界侵食した」

 

 エンデは真剣に頷く。

 

「先へ行く言葉だった」

 

 澪は少しだけ泣きそうになった。

 

「……ありがとう」

 

 青織は歩き出す。

 

「行くぞ。ここから先は旧排水区画だ。地上に近い」

 

 通路の先から、潮風が吹いてきた。今までの地下の湿気とは違う。本物の海の匂いだった。東京湾が近い。

 澪の胸の奥で、扉が静かに鳴る。

 

 怖い。

 

 けれど、もう戻れない。アオの歌は、まだ水底で奪われたまま響いている。エンデは震えながらも、隣にいる。

 

 青織は過去を抱えたまま、前を歩いている。澪は鈴を握った。自分の声を忘れない。

 

 そう思いながら、三人は旧排水区画へ進んだ。

 

 その先で、夜明け前の東京湾が、黒く脈打っていた。

青織の苦痛は、未だ癒えない。それでも前は進むしかない—

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