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海へ2

旧避難導線にも脅威は潜む—

 旧避難導線の中は、時間の感覚がおかしかった。

 

 十分歩いた気もするし、もう一時間以上経った気もする。

 端末の時計を見ると、表示は何度も同じ時刻へ戻っていた。十八時二十三分。渋谷第十三駅で止まっていた時間。

 

 澪はそれを見て、すぐに画面を消した。

 見ていると、またあの駅へ戻される気がした。

 

 通路の途中には、何度か分岐があった。

 青織はそのたびに古い地図と壁の標識を見比べる。


 けれど標識は信用できない。片方には《品川方面》と書かれ、もう片方には《まだ帰れる》と書かれている。

 

 澪は後者を見て、ぞっとした。

 

「……あれ、絶対だめなやつだよね」

 

「見るな」

 

 青織が即座に言った。

 

「意味を与えると道になる」

 

「見るだけで?」

 

「そういう場所だ」

 

 エンデが真面目に呟く。

 

「人間の道、危ない」

 

「向こう側の道よりはマシだ」

 

 青織が言うと、エンデは少し考え込んだ。

 

「それは、場合による」

 

「張り合うな」

 

 澪は少し笑った。

 

 だがその直後、通路の奥から人の声が聞こえた。

 

「——こちら、第三観測班。避難導線内にて漂流物を確認」

 

 澪は足を止める。声は古かった。まるで壊れた録音機から流れているように、ノイズ混じりで掠れている。

 

「今の……」

 

「過去の観測記録だ」

 

 青織が低く言った。

 

「この通路には、初期の記録が染みついてる。再生されることがある」

 

「染みつくって、音が?」

 

「音だけじゃない」

 

 その言葉の直後、通路の先に人影が現れた。防護服を着た数人の隊員。

 

 境界管理局ではない。もっと古い装備。特殊空間災害対策室、と背中に書かれている。

 

 彼らは澪たちに気づいていない。いや、そもそも本当にそこにいるわけではないのだと、すぐに分かった。


 身体が少し透けていて、歩くたびにノイズみたいな粒子が散る。

 過去の幻影。隊員たちは水路の側にしゃがみ込み、何かを覗き込んでいる。

 

「生存者か?」

 

「いや、輪郭がない。人間じゃない」

 

「でも泣いてるぞ」

 

「記録しろ。接触はするな」

 

 澪の喉が詰まった。

 水路の中に、小さな影が浮かんでいた。

 

 人間の子供ほどの大きさ。形は曖昧で、髪も顔も見えない。ただ、胸のあたりだけが青く光っている。

 エンデが澪の袖を強く掴んだ。

 

「……あれ」

 

「知ってるの?」

 

「知らない」

 

 エンデは首を振った。

 

「でも、寂しい」

 

 幻影の隊員たちは、結局その影へ手を伸ばさなかった。観測し、記録し、何かを話し合い、そしてその場を去っていく。

 

 小さな影だけが水路に残された。やがて青い光が弱まり、消える。澪は思わず息を呑んだ。

 

「助けなかったの……?」

 

 青織は黙っていたが、やがて低く答える。

 

「初期は、何を助ければいいのかすら分からなかった」

 

「だからって……」

 

「それが言い訳にならないことも分かってる」

 

 その声には、苦いものが混じっていた。幻影はやがて消えてゆく、水路にはもう何も浮かんでいない。

 

 けれど澪は、胸の奥が痛かった。見知らぬ境界個体。名前も、形も、声もないまま消えたもの。それが何なのか分からないのに、なぜかひどく悲しい。

 

 その時、エンデが小さく言った。

 

「名前、なかった」

 

「……うん」

 

「誰にも呼ばれないと、消えるの早い」

 

 澪はエンデを見る。

 彼は水路を見つめたまま、静かに続けた。

 

「エンデ、名前もらったから、少し残ってる」

 

 澪の胸が詰まる。

 

「エンデ」

 

 呼ぶと、彼はこちらを見た。虹色の瞳が微かに揺れている。

 

「うん」

 

「ちゃんといるよ」

 

 エンデは少しだけ目を見開いた。それから、ほんの小さく頷く。

 

「……うん」

 

 青織は二人を見ていた。だが何も言わなかった。ただ、先へ進むように顎で示す。


 三人は再び歩き出した。

 水路の向こうで、今はもうない青い光が、まだ残像みたいに揺れている気がした。

 

 ◇

 

 旧観測室は、通路の途中にあった。

 錆びた扉の上に、《第三中継観測室》と書かれたプレートが残っている。


 青織が端末を接続すると、扉は意外なほどあっさり開いた。中は狭い部屋だった。

 

 壁一面に古い計器が並び、ブラウン管モニターが三台、机の上に積まれている。

 

 床には埃が溜まっていたが、中央の観測台だけはなぜか綺麗だった。まるで今も誰かが使っているように。澪は少し嫌な予感がした。

 

「ここ、安全なの?」

 

「比較的な」

 

「比較対象が怖い」

 

 青織は返事をせず、観測器を起動した。古い機械が低い音を立てて動き出す。ブラウン管に砂嵐が走り、やがて青い波形が表示された。

 

「九条、そこへ立て」

 

 青織が観測台を指す。

 

 澪は少し迷ったが、言われた通りに立った。

 エンデが不安そうに見ている。

 

「澪、痛い?」

 

「まだ何もされてないよ」

 

「観測、痛い時ある」

 

「え……怖いこと言わないで」

 

 青織が端末を操作する。観測台の周囲に、薄い青い光の輪が浮かび上がった。澪の身体をなぞるように、ゆっくり上下する。

 

 首元の鈴が微かに鳴った。画面の波形が大きく揺れる。青織の眉が動いた。

 

「……高いな」

 

「何が?」

 

「境界感受性。普通の人間なら、この深度で意識混濁を起こす。お前はむしろ安定している」

 

「それ、良いこと?」

 

「危険かつ良いことだ」

 

「またそういう……」

 

 青織は別の数値を確認する。

 

「アオの波形に近い部分がある」

 

 その名前が出た瞬間、澪の身体が強張った。

 青織も気づいたらしい。すぐに続ける。

 

「同じという意味じゃない」

 

「……うん」

 

「お前はアオじゃない」

 

 その声は、澪へ言っているようで、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。

 

「ただ、歌の残響が混ざっている。だから東京湾に近づくほど、向こうの声とアオの歌とお前自身の感情が区別しづらくなる」

 

「どうしたらいいの」

 

「鈴を使え。あと、エンデから離れすぎるな」

 

 エンデが少し顔を上げる。

 

「離れない方がいい?」

 

「今のところはな」

 

 青織は不本意そうに言った。

 

「お前たちは同期しすぎている。無理に切ると澪の方が不安定になる可能性がある」

 

「じゃあ、一緒にいる」

 

 エンデは即答した。

 

 澪は少し笑った。

 

「そんなすぐ決めていいの?」

 

「いい」

 

「理由は?」

 

「澪、ひとりにしない」

 

 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。

 澪は何も言えなくなる。

  青織は画面へ視線を戻し、低く呟いた。

 

「……本当に面倒な共鳴だ」

 

 その時だった。ブラウン管の一台に、別の映像が映った。砂嵐の向こうに、白い部屋が見える。観測室ではない。

 

 処分室。

 

 澪は直感した。青織の表情が凍る。

 

「消せ」

 

 彼が端末へ手を伸ばすより早く、映像の中で少女の声が聞こえた。

 

 歌だった。

 

 青い髪の少女が、強化ガラスの向こうで立っている。

 顔ははっきり映らない。けれど澪には分かった。

 

 アオだ。

 

 映像の中のアオは、何かを見つめていた。カメラではない。処分室の外にいる誰か。

 きっと青織だ。青織の手が止まる。アオは歌っている。言葉にはならない。それでも意味が流れ込んでくる。

 

 閉じて――

 

 澪の目から、勝手に涙が零れた。エンデも黙っていた。青織は動かなかった。

 動けなかったのかもしれない。映像の中で、アオがほんの少しだけ笑ったように見えた。

 

 そして、歌が途切れる直前。彼女の唇が、音のない言葉を形作った。青織には見えなかったかもしれない。

 けれど澪には分かった。

 

 ――ごめんね。

 

 次の瞬間、ブラウン管が弾けた。火花が散り、部屋の照明が激しく明滅する。青織が我に返ったように銃を構える。

 

「まずい。記録じゃない」

 

「え?」

 

「今の映像に、“向こう側”が混ざった」

 

 床の下から、水音がした。ぽたり。水滴が上へ落ちていく。

 

 観測室の床がじわじわと黒く濡れ始め、“向こう側”――深度存在が現れる。エンデが青ざめた。

 

「来る」

 

 青織が叫ぶ。

 

「出るぞ!」

 

 三人は観測室を飛び出した。背後で、さっきまでいた部屋がぐしゃりと潰れるような音を立てた。


 振り返ると、部屋の入口から黒い海水が噴き出し、その中に白い手が何本も浮かんでいる。その手は、澪ではなく青織へ伸びていた。

 

 『アオリ』

 『ミテイタ』

 『マモレナカッタ』

 

 青織の表情が歪み、澪は息を呑む。それは青織の傷を抉る声だった。“


 向こう側”は、澪だけではなく、青織の後悔も見つけている。青織は奥歯を噛みしめ、観測銃を構えた。

 

「黙れ」

 

 銃声の後、青白い光が黒い水を切り裂く。だが声は消えない。

 

 『アオリ』

 『アオハ』

 『ウタッテイタ』

 

 青織の腕がわずかに震える。

 その瞬間、澪は集中して白鯨を退けたときのように、エンデと同じような、境界侵食を起こすイメージを頭の中で描いた。

 

 首の鈴が呼応するかのように共鳴して小さく響く――

 小さな波紋が織りなす、音の波が空間を満たす。


 その音が通路に広がった瞬間、黒い水の声が一瞬だけ遠のいた。澪は自分でも驚いた。

 

「今の……」

 

「効いた」

 

 青織が短く言った。

 

「もう一度鳴らせ。走るぞ」

 

 澪は鈴を握る。

 

 エンデが隣に立つ。

 

「澪の境界侵食、道になる」

 

「だったら、行こう」

 

 澪はもう一度、鈴を鳴らした。

 その共鳴がさざなみのように広がり、通路の非常灯が一つずつ青く灯っていく。

 

 まるで、失われた道を思い出すように三人は走り出した。背後から黒い海が追ってくる。

 

 アオの歌と、向こう側の声と、澪自身の呼吸が混ざり合う。

 それでも澪は鈴を握りしめる。

 

 忘れない――

 

 アオの歌が自分の中にあっても。向こう側が名前を呼んでも。私は、九条澪だ。私の声で、先へ進む。

 

 旧避難導線の奥で、青い非常灯が長く長く連なっていた。

 澪は歌を再認識した。旧避難導線はもうすぐ終点。

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