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海へ

旧避難導線の道のりは険しい。澪の扉が開いてゆく—

 旧避難導線への入口が開いた瞬間、冷たい潮の匂いが吹きつけてきた。

 

 川沿いの点検扉の向こうは、本来なら人が通れるほどの幅しかない地下通路のはずだった。


 けれどそこには、細く長い階段が斜め下へ続いている。壁は古いコンクリートで、ところどころに錆びた手すりが埋まり、天井には非常灯が等間隔に並んでいた。


 その非常灯のいくつかは、赤ではなく青く光っている。

 澪は思わず足を止めた。

 

「……ここ、地下?」

 

「一応はな」

 

 青織は観測銃を構えたまま、背後から迫る黒い手を見据えていた。

 

「だが、もう普通の地下じゃない。境界に半分沈んでる」

 

 黒い影たちは橋の下から這い上がってきていた。顔のない人影。濡れた輪郭。


 口だけが裂けたように開き、そこから泡立つような声が漏れている。“向こう側”――深度存在の気配が強まる

 

 『ミオ』

 『ヒラク』

 『カエシテ』

 

 名前を呼ばれるたびに、澪の胸の奥が痛んだ。扉が反応しかける。自分の声。澪はそれを思い出す。

 

「入れ」

 

 青織が短く言った。

 エンデが先に階段へ足をかける。新しい靴の底が濡れた金属を踏み、きゅ、と小さく鳴った。

 

「靴、滑る」

 

「気をつけて」

 

「靴、少し信用下がった」

 

「早いよ!」

 

 澪も続いて階段へ入る。最後に青織が扉の内側へ飛び込み、観測銃を外へ向けた。

 

「——境界固定」

 

 青白い輪が銃口から放たれた。階段の入口、点検扉、橋の下へ伸びる黒い手。そのすべてが一瞬、硬直した。


 水が凍るようにではない。意味を留められたように、動きだけが空間へ縫いつけられる。

 

 青織はすぐに扉を閉めた。重い鉄扉が閉じる。外から、何かが叩きつけられる音がした。鈍い音が響く――けれど扉は開かなかった。

 

 青織が端末を操作し、ロックをかけ直す。扉の表面に青い波紋が走り、やがて静かに消えた。

 

「これでしばらくは持つ」

 

「しばらくってどれくらい?」

 

 澪が聞くと、青織は少し考えた。

 

「運がよければ十分」

 

「短い!」

 

「悪ければ一分だ」

 

「もっと短い!」

 

 エンデが真剣な顔で頷く。

 

「一分、短い」

 

「お前は同意してる場合じゃない。歩け」

 

「歩く」

 

 三人は階段を下り始めた。

 

 階段は思ったより長かった。下へ進むほど、外の音が遠ざかっていく。代わりに、湿った空気と潮の匂いが強くなった。壁には古い案内板が残っている。

 

《特殊空間災害対策室 緊急避難導線》

《非観測者立入禁止》

《名前確認を行わないこと》

 

 最後の一文を見た瞬間、澪は背筋が冷えた。

 

「名前確認って何?」

 

「侵食初期の規則だ」

 

 青織が答える。

 

「この通路では、たまに同行者のふりをしたものが混ざる。だから名前を呼んで確認するな、という意味だ」

 

「じゃあどうやって確認するの?」

 

「歩き方、呼吸、影の向き」

 

「難易度高すぎない?」

 

「だから大勢死んだ」

 

 青織の声は淡々としていた。

 その淡々さが、かえって恐ろしかった。

 

 エンデが自分の影を見る。

 

「エンデ、影ある?」

 

 澪もつられて足元を見た。薄い非常灯の下、エンデの影はたしかにあった。けれど時々、水面のように揺れている。

 

「あるよ。ちょっと揺れてるけど」

 

「影、不安定」

 

「本人も不安定だからな」

 

 青織が言う。

 

「ひどい」

 

 エンデは少しだけ不満そうにした。

 

 そのやり取りに澪は少し笑いかけたが、すぐに喉の奥で笑いが止まった。階段の下から、歌が聞こえたからだ。

 

 遠い――けれど、さっき川面で聞こえたものと同じ旋律だった。

 

 アオの歌。澪の胸の奥で、扉が静かに鳴る。まるで鼓動し、脈打つように響く。エンデも足を止める。

 

「聞こえる」

 

「お前にもか……アオの残響がお前の扉を通じて境界侵食の現象として現れて来ているようだな」

 

 これまでのアオや歌は、本物の現象ではない――だがアオの残響の影響は確実に受けている。青織の声が低くなる。

 

「アオの歌……何かを伝えたいの?」

 

 エンデは階段の奥を見つめていた。

 

「少し違う」

 

「何が」

 

「呼んでる歌じゃない」

 

 エンデは言葉を探すように黙った。

 

「道を、覚えてる歌」

 

 澪は息を呑んだ。

 

「場所を覚えてる歌……」

 

 古書店でエンデが言っていたことを思い出す。向こうでは、大事なことは歌になる。

 場所も、名前も、悲しいことも。長く残したいものは、歌の中に入れる。

 

 青織は何も言わなかった。ただ、観測銃を握る手に力が入っていた。やがて階段が終わる。その先には、地下通路が伸びていた。

 

 想像していたより広い。片側には古い線路のようなレールが二本走り、反対側には水路がある。

 水路の水は黒く、流れている方向が一定しない。時々、上流へ向かって波が戻っていく。

 

 天井には蛍光灯が並んでいたが、点いているものは少ない。壁にはところどころ、子供が落書きしたような文字が残っている。

 

《帰りたい》

《ここはどこ》

《名前を呼ばないで》

《雨が上に降る駅へ》

 

 澪は見ないようにした。

 見ていると、文字がこちらを見返してくる気がしたからだ。

 

「この通路を抜けると品川方面へ出る」

 

 青織が地図を確認しながら言う。

 

「途中に旧観測室が二つある。片方は使えるかもしれない。そこで一度、深度を測る」

 

「測ってどうするの?」

 

「澪の状態を見る」

 

 澪は少し肩を強張らせた。

 

「私の?」

 

「ああ。東京湾に近づくほど、お前の中の“扉”は反応する。今のうちに基準値を取る」

 

「基準値……」

 

 急に自分が検査対象みたいに思えて、澪は少し嫌な気持ちになった。

 それに気づいたのか、エンデが澪の袖を引く。

 

「澪、嫌?」

 

「ちょっと」

 

「エンデも、観測されるの嫌」

 

「そうなの?」

 

「見るだけの人、怖い」

 

 その言葉に、澪は青織の同僚だという、成海という男が言っていた事を思い出した。澪は古書店で成海の話を聞いていた。

 

 結末を見たいから、と言った男。そしてエンデと澪の変わっていくところを見たい、と。一体何を考えているのか掴めない――

 

 不気味であると同時に、エンデと自分はいつか成海とあい見えるのだろうという予感があった。それすらも成海の思惑通りなのだろうか――澪の顔が曇る。

 

 青織も同じことを考えたのか、表情が少し険しくなった。

 

「観測は必要だ」

 

 彼は言った。

 

「だが、観測だけで終わらせるつもりはない」

 

 エンデは青織を見上げた。

 

「青織は、見るだけじゃない?」

 

「……ああ」

 

 短い返事だった。エンデはしばらく青織を見つめ、それから小さく頷いた。

 

「なら、少し大丈夫」

 

 青織は返事をしなかった。ただ歩き出す。

 澪とエンデも続いた。

澪の観測も終わり、再度道をゆく—

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