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巣立ちの時

 雨燕古書店を後にする—何があるのか、不安を抱えながら。

「出るぞ」

 

 青織の言葉に紫乃は頷き、店の裏側へ続く細い廊下へ三人を案内した。そこは本棚の奥に隠されていた通路で、澪は最初、ただの壁だと思っていた。

 

 紫乃が棚の背表紙の一冊を押し込むと、木製の壁が静かに横へずれた。

 

「古書店って、こういう隠し通路あるものなの?」

 

「ロマンでしょ」

 

「ロマンだけで作ったんですか」

 

「半分はロマン。半分は逃走経路」

 

「後半が重い」

 

 廊下は狭く、古い木の匂いがした。足元には細いレールが敷かれており、昔は荷物用の昇降機でも動いていたのかもしれない。

 

 壁には小さな御札や、駅の切符、錆びた鍵がいくつも貼られていた。エンデがそれをじっと見る。

 

「ここ、少し静か」

 

「分かる?」

 

 紫乃が振り返る。

 

「ここは昔、侵食初期の観測資材を運ぶための裏導線だったらしいの。境界に近いものを通すと、逆に境界が落ち着く場所ってたまにあるんだよね」

 

「へえ……」

 

「まあ、逆に暴れる場所もあるけど」

 

「今日はどっちなの」

 

「静かな方であってほしいね」

 

 澪は思わず鈴を握った。

 

 ちり、と小さく音が鳴る。

 

 その音に、エンデがこちらを見る。

 

「澪、大丈夫?」

 

「うん。たぶん」

 

「たぶん、多い」

 

「今日ずっとそうだから」

 

 エンデは少しだけ考えてから、澪の袖をそっと掴んだ。

 

「じゃあ、エンデもたぶん大丈夫」

 

「それ、心強いのかな」

 

「エンデ的には、心強い」

 

「ならいいか」

 

 青織が前方で足を止めた。

 通路の終点には、小さな鉄扉があった。紫乃が鍵を差し込み、古いロックを外す。


 軋んだ低い音を立てて扉が開くと、湿った夜気が流れ込んできた。

 

 裏路地だった。雨はほとんど止んでいる。地面には水たまりが残り、そこに映る月はひび割れていた。


 澪とエンデがつけた亀裂が、現実の空でもなお残っている。そのことが、今さらになって恐ろしく思えた。青織が先に外へ出て、周囲を確認する。


「右へ」

 

 短い指示。澪とエンデはそれに従って路地へ出た。紫乃は扉の内側に残ったまま、三人を見送る。

 

「ここから先、しばらく通信は切る。私から合図が行くまでは、端末を開かないで」

 

「紫乃さん」

 

「なに?」

 

 澪は何を言えばいいか迷った。

 

 ありがとう、だけでは足りない気がした。けれど、それ以外に言葉が出てこなかった。

 

「……本当にありがとう」

 

 紫乃は少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。

 

「どういたしまして。ちゃんと帰ってきて。古書店は買うだけじゃなくて、売りに来る場所でもあるんだからね」

 

「私の希少本狙ってる?」

 

 青織がぼそりと言う。

 

「こいつに賭けで負けてもう何冊も破格で売らされた」

 

「あんたが持ってても管理できないでしょ〜売らせたんじゃなくて収蔵だよ、収蔵。金払ってるだけでもありがたく思いなさ〜い」

 

 紫乃はそう言ってから、エンデを見た。

 

「靴、脱いじゃだめだよ」

 

「努力する」

 

「そこは約束して」

 

「約束する。たぶん」

 

「まあ、今はそれでいいか」

 

 最後に、紫乃は青織を見た。

 軽口はなかった。

 その目だけが、真剣だった。

 

「青織」

 

「何だ」

 

「今度は、一人で決めないで」

 

 青織は一瞬だけ黙った。雨上がりの路地に、遠いサイレンが響いている。

 

「……分かっている」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

 紫乃は少し笑った。

 

「その“たぶん”は、まあ信じてあげる」

 

 扉が閉まる。古い鍵が内側からかかる音がして、雨燕古書店の入口はただの壁に戻った。

 

 澪はしばらくその場所を見つめていた。さっきまであった温かな灯りが消えると、急に夜の東京が現実味を増した。湿ったアスファルト。


 遠くの警報。路地裏の生ぬるい風。どこかで鳴る救急車のサイレン。そして空の裂け目。青織が低く言った。

 

「行くぞ」

 

 三人は歩き出した。新宿の外れは、深夜にもかかわらず完全には眠っていなかった。


 コンビニの明かりが滲み、飲食店の看板が半分だけ点灯し、路地の壁には境界侵食への注意喚起ポスターが貼られている。

 

《異常な駅名を見たら振り返らないでください》

《雨が上に降る場合は屋内へ避難してください》

《知らない声に名前を呼ばれても応答しないでください》

 

 澪はそれらを見ながら、少し前なら都市伝説か悪趣味な広告だと思っただろうな、と思った。

 

 今は違う。全部、本当に起こる。青織は人通りの少ない道を選び、時々足を止めて周囲を確認した。


 エンデは靴にまだ慣れていないのか、少しぎこちなく歩いている。澪はその隣を歩きながら、何度か袖を掴んで支えた。

 

「歩ける?」

 

「歩ける」

 

「痛くない?」

 

「靴、まだ少し変。でも足、守られてる」

 

「よかった」

 

「澪は?」

 

「私?」

 

「怖くない?」

 

 澪は少し笑った。

 

「怖いよ」

 

「でも歩いてる」

 

「うん」

 

「人間、すごい」

 

「そうかな」

 

「怖いのに歩ける」

 

 その言葉に、澪はすぐには答えられなかった。

 怖いのに歩ける。

 それはきっと、勇敢というより、立ち止まれないだけかもしれない。


 それでもエンデがそう言うなら、少しくらいは信じてみてもいい気がした。

 

 前方で、青織が急に手を上げた。二人は反射的に足を止める。路地の先を、青い光が横切った。


 監視ドローンだった。境界管理局のものだ。丸い機体に小型カメラが複数つき、下部には青い探照灯が取り付けられている。


 機械音を鳴らしながら、ゆっくりと通りを走査していた。青織は澪とエンデを建物の影へ押し込む。

 

「息を抑えろ」

 

「息も見つかるの?」

 

 澪が小声で聞く。

 

「深度反応を拾う」

 

 青織は短く答えた。エンデは両手で口を塞いでいる。澪も思わず息を止める。

 

 ドローンの青い光が、壁を舐めるように通り過ぎた。澪の首元の鈴が、ほんのわずかに震える。


 音は出なかった。けれど、胸の奥の扉がそれに反応しそうになり、澪は必死に自分の呼吸へ意識を向ける。

 

 私は九条澪。

 ここにいる。

 私の声は、私のもの。

 

 エンデが袖を掴む力が少し強くなった。

 ドローンは数秒間、路地の入口で止まった。青織の指が境界針へ伸びる。

 

 しかしその瞬間、少し離れた別の路地で空き缶が派手に転がる音がした。ドローンがそちらへ向きを変える。青い光が遠ざかっていくのが見えた。澪はようやく息を吐いた。

 

「今の……」

 

「紫乃だ」

 

 青織が言う。

 

「もう偽装を始めてる」

 

 澪は雨燕古書店の方角を振り返りそうになり、青織の言葉を思い出して止めた。

 

 振り返らない。

 名前を呼ばれても応えない。

 

 進むしかない。

 

 ◇

 

 新宿の街を抜ける頃、空の裂け目はさらに低く見えた。

 月の亀裂から、薄い黒い雨が降っているように見える。けれどそれは雨ではなく、空の向こうの海がこちらへ滲んでいるのだと、澪にはなんとなく分かった。

 

 目黒川沿いへ近づくにつれて、人通りは減っていく。川は暗かった。

 

 水面にビルの灯りが映っているはずなのに、そこだけ光を飲み込んでいる。

 時々、川の流れとは逆方向へ波紋が走る。橋の欄干には境界管理局の黄色い封鎖テープが残っていたが、古くなって剥がれかけていた。

 

 青織は橋の手前で止まる。

 

「ここから旧避難導線へ入る」

 

「どこにあるの?」

 

 澪が聞くと、青織は橋の下を指差した。

 暗い水面のすぐ脇。コンクリートの壁に、小さな点検扉があった。


 錆びついていて、普通ならただの排水設備にしか見えない。だが表面には、波紋のような刻印が薄く浮かんでいる。

 

 エンデが小さく言った。

 

「ここ、少し薄い」

 

「境界が?」

 

「うん」

 

 澪は首元の鈴を握る。

 青織が扉の前へしゃがみ、古い端末を接続した。数秒後、赤いランプが点滅する。

 

「ロックは生きてる」

 

「開くの?」

 

「開ける」

 

 青織が操作を続ける。

 しかし、その時。

 

 澪の耳に、かすかな歌声が届いた。

 

 遠い——

 

 でも確かに聞こえる。

 川の下から。あるいは、もっと深い場所から。

 澪は思わず顔を上げる。

 

「……聞こえる」

 

 エンデも同時に顔を上げていた。

 

「歌」

 

 青織の手が止まる。

 

 その瞬間、川面に大きな波紋が広がった。水面に、青い髪の少女の影が映る。

 

 澪は息を呑む。それはほんの一瞬だった。けれど確かに、そこにいた。

 白い服に裸足。そして青い髪が広がる。

 

 こちらを見ているのか、あるいはどこか遠くを見ているのか分からない横顔。

 

「アオ……?」

 

 澪が呟くより早く、青織が川面へ視線を向けていた。その表情は凍りついていた。エンデは不安そうに青織を見る。

 

 川面の影は、口を動かした。声は聞こえない。ただ、澪の胸の奥の扉だけが、その意味を受け取った。

 

 ――急いで。

 

 次の瞬間、川面が黒く割れた。水ではない。影だった。橋の下から、黒い手がいくつも伸びてくる。青織が即座に立ち上がり、観測銃のケースを開いた。

 

「来るぞ」

 

 澪は鈴を握りしめる。エンデは一歩前へ出る。その足元で、新しい靴が濡れたコンクリートを踏みしめた。

 

「エンデ、靴、信用する」

 

「今!?」

 

 澪が思わず叫ぶ。

 エンデは真剣だった。

 

「走るから」

 

 黒い手が橋の欄干を掴む。川の底から、無数の顔のない影が這い上がってくる。青織が銃口を向けた。

 

「扉が開いたら、すぐ入れ」

 

 点検扉のロックが、青く光る。

 カチリ、と音がした。

 旧避難導線への入口が、ゆっくりと開いた。

 

 その奥から流れてきた空気は、冷たい潮の匂いがした。

 東京湾への道は始まったばかり—

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