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気休め装備

 出発前、紫乃は澪とエンデにあるものを渡す。

 その一時間は、驚くほど短かった。


 紫乃は地下へ降りたり上がったりを繰り返し、古い端末へ何かを打ち込み、時々本棚の奥から古びた資料束を引っ張り出しては、必要なページだけを乱暴に破らない程度の力で抜き取っていた。

 

「旧観測路の地図、最新版じゃないけどないよりマシ」

 

「最新版は?」

 

「管理局が持ってる。あと、たぶん白鯨も盗んでる」

 

「じゃあ盗み返せないの?」

 

 澪が聞くと、紫乃は端末から目を離さずに言った。

 

「できなくはないけど、今やると十秒で居場所が割れる」

 

「あっ、じゃあやらないほうがいいかも……」

 

「うん。私もまだこの店、燃やしたくないし」

 

 軽い口調だったが、紫乃の手元はずっと忙しなく動いていた。

 

 古い観測記録、東京湾沿岸の地図、侵食深度の推移データ、管理局が封鎖した区域の噂話めいたメモまで、机の上には紙と光の地図が重なっていく。

 

 澪はリュックの中身を確認しながら、ふと自分の姿を見下ろした。

 

 紺碧色の半袖ブラウス。シンプルなミニスカート。

 深い菫色のストッキング。黒いローファー。

 

 いつもの制服ではない。普段の自分では選ばない服だった。

 紫乃の趣味だと言われれば、たしかにそんな気もする。少し古い映画に出てくる少女みたいで、こんな状況でなければ、もっと落ち着いて鏡を見たかもしれない。

 

 首元には銀色の鈴。手で触れると独特な籠って響くような、小さいのに厳かさを感じさせる金属音が鳴った。

 

 エンデはというと、店の奥でまだ歩く練習をしていた。靴を履いた足を一歩ずつ確かめるように動かし、時々立ち止まっては、床との距離を見下ろしている。

 

「エンデ、少し慣れた」

 

「よかった」

 

「でも、まだ信用はしてない」

 

「靴への信用って、そんな段階踏むものなんだ」

 

「裏切るかもしれない」

 

「裏切らないよ、靴は」

 

 澪が笑うと、エンデは真剣に首を傾げた。

 

「靴、意思ない?」

 

「たぶんない」

 

「なら安心」

 

「意思があった方が安心する場合もあると思うけど」

 

「人間、難しい」

 

 その言い方がおかしくて、澪はまた少し笑った。

 その笑い声に、青織が一瞬だけこちらを見た。


 すぐに視線は地図へ戻されたが、その目元にはほんのわずかだけ柔らかさが残っていた。紫乃はそれを見逃さず、にやりと笑う。

 

「青織、保護者みたいな顔してる」

 

「してない」

 

「してるよ」

 

「していない」

 

「今の否定、ちょっと弱いね」

 

「黙れ」

 

「はいはい」

 

 紫乃は笑いながら、古い通信端末を澪へ差し出した。

 

「これは澪ちゃんが持ってて。こっちから一方的に短文を送れる。返信はしない方がいい。発信すると足がつくから」

 

「紫乃さんは一緒に来ないんですか?」

 

 澪が尋ねると、紫乃は少しだけ間を置いた。それから、肩をすくめる。

 

「行きたいけどね。私はここで目眩ましを続ける」

 

「目眩まし?」

 

「雨燕古書店の偽装を、しばらく“まだ中にいる”ように見せる。管理局の監視網にも、白鯨の裏網にも、澪ちゃんたちが店から出ていないように偽の影を流す」

 

 紫乃は何でもないことのように言ったが、青織の表情は少し険しくなった。

 

「危険だ」

 

「知ってる」

 

「逆探知されるぞ」

 

「される前に切る」

 

「相手は成海もいる」

 

 その名前が出た瞬間、紫乃はわずかに笑みを消した。

 

「だから私が残るんでしょ」

 

 青織は黙った。

 紫乃は端末を片手で回しながら、少しだけ疲れたように息を吐く。

 

「成海は、私の癖を知ってる。でも私も、あいつの癖は知ってる。あいつは必ず“面白い方”へ視線を向ける。だったら、見たいものをいくつか用意してやればいい」

 

「囮か」

 

「そう。古書店に澪ちゃんたちの偽の反応を残す。成海も白鯨も管理局も、しばらくはそっちを見る」

 

「その間に私たちは東京湾へ?」

 

 澪が言うと、紫乃は頷いた。

 

「正確には、東京湾へ入るための旧観測路の入口まで」

 

 青織が地図上の赤い線を指でなぞる。

 

「新宿を出て、目黒川沿いを抜ける。そこから品川の旧避難導線に入る。湾岸封鎖線の手前で、成海の鍵を使う」


「その鍵、本当に使うんですね」

 

 澪がまだ不安を隠せずに言うと、青織は短く答えた。

 

「使う」

 

「罠なのに?」

 

「罠でも道だ。道があるなら、罠ごと踏む」

 

「言い方が怖い……」

 

「怖がっている暇はない」

 

 そう言いながら、青織は自分のリュックを背負い直した。

 重そうなはずなのに、まったくそう見せない。観測銃の入った楽器ケースを肩にかける動きも、どこか手慣れている。

 

 澪は自分のリュックを背負った。軽い方だと言われたが、それでも肩に重みが乗る。


 その重さが、妙に現実的だった。水、携帯食、着替え、雨具、紫乃の端末。世界を閉じに行く荷物にしてはあまりにも普通で、だからこそ心細い。

 

 エンデは絆創膏の箱をどうするか迷っていた。両手で持ったまま、リュックのない自分の身体を見下ろしている。

 

「持つ場所、ない」

 

 澪は少し考えて、紫乃から小さなポーチを一つ借りた。それは普段ライターや薬を入れるケースだった。

 

 透明でカラビナがついており紐を通せばエンデの首からかけられる。絆創膏の可愛いパッケージが見えて澪は可愛いと思った。

 

「これに入れよっか」

 

「袋?」

 

「首から下げれば落とさないよ」

 

 澪がそれを結ぶと、エンデは首から下げられた袋を見下ろし、満足そうに頷いた。

 

 透明だから絆創膏のパッケージと絆創膏自体が見えるのがとても気に入ったらしい。紫乃から渡されたお守りも入っている。

 

「エンデ、装備した」

 

「うん、装備したね」

 

「気休め装備」

 

 青織が微妙な顔をした。紫乃がまた笑いそうになる。

 

「気休め装備、いいね」

 

「広めるな」

 

「商品化できそうじゃない?」

 

「するな」

 

 そんなやり取りをしている間にも、外の空気は変わり始めていた。窓ガラスの向こうの街灯が、一度だけ青く明滅する。

 

 遠くでサイレンが鳴った。先ほどまでより近い。青織が表情を引き締める。

 

「出るぞ」

 準備は整った—

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