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計画と準備

雨燕古書店を出る—ひとときの休息も終わり、また東京湾への激動が始まる。

  紫乃が笑いを収めたのは、それから少し経ってからだった。

 

 エンデは星柄の絆創膏の箱をまだ胸元に抱えている。箱の角を指先でなぞりながら、時々そっと振って、中に何が入っているのか確かめるような顔をしていた。


 澪はその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていたが、青織だけはすでに表情を戻していた。

 

 さっきまでの緩んだ空気の下に、何か硬いものが沈んでいる。澪はそれに気づいた。

 

「青織」

 

 紫乃が先に口を開く。

 

「買い出しだけじゃなかった顔してる」

 

 青織は少しだけ沈黙したあと、コートの内ポケットへ手を入れた。

 

 取り出したのは、小さな金属片だった。

 錆びた鍵のようにも見える。だが普通の鍵ではない。


 表面には細い波紋のような刻印が刻まれており、角度を変えると、青黒い光が薄く揺れた。

 紫乃の笑みが消える。

 

「……それ、どこで」

 

「成海から渡された」

 

 その名前が出た瞬間、店内の空気が一段冷えた。

 

 澪は思わずエンデを見る。エンデも箱を抱えたまま、静かに青織を見ていた。

 成海という名前の意味を完全には理解していないだろうが、その響きが歓迎されないものだということは分かったらしい。

 

 紫乃は鍵を受け取り、ランプの下へ持っていった。

 

「成海が?」

 

「ああ」


「どこで会ったの」

 

「ドラッグストア」

 

「うわ、最悪。あいつ、そこまで読んでたんだ」

 

「古書店の場所はまだ割れていないと言っていた」

 

「言っていた、ね」

 

 紫乃は眉を寄せる。

 

「成海の“まだ”ほど信用できない言葉もないんだけど」

 

「俺もそう思う」

 

 青織は短く答えた。

 澪は二人のやり取りを聞きながら、鍵を見つめた。小さな金属片なのに、妙に存在感がある。まるで古い傷跡みたいだった。

 

「それは何なの?」

 

 澪が尋ねると、紫乃は鍵を指先で回しながら言った。

「たぶん、旧・海上観測基底区画の補助ハッチ用の認証具」

 

「補助ハッチ?」

 

「正面入口じゃない裏口みたいなもの。侵食初期に作られた観測施設には、非常時用の通路がいくつかあったんだよ。管理局の正式ルートが封鎖された時に、研究員や観測班だけが使える抜け道」

 

 青織が続ける。

 

「成海は、それがまだ生きていると言っていた」


「……罠じゃないの?」

 

「罠だろうな」

 

 即答だった。

 澪は言葉に詰まる。

 

「じゃあ使わない方が……」

 

「半分は罠」

 

 青織は鍵を見たまま言った。

 

「だが、半分は本物だ」

 

 紫乃は小さく息を吐いた。

 

「成海らしいね。全部嘘なら無視できる。全部本当なら逆に怖い。でも半分だけ本当なら、こっちは考えざるを得ない」

 

「つまり、使うしかないってこと?」

 

「今のところは」

 

 紫乃は地図を広げた。

 雨燕古書店の大きな作業机の上に、東京湾の古い海図と、現在の侵食分布図が重ねられる。

 

 紙の地図の上に、紫乃の端末から投影された半透明の赤い線が浮かび上がった。

 

 湾岸部から中央へかけて、黒い染みのような侵食域が濃く広がっている。

 紫乃は湾中央の一点を指差した。

 

「旧・海上観測基底区画。最初期侵食の観測拠点の一つ。公式には二〇二六年の東京湾深部侵食事件で放棄されてる」

 

 青織の表情がわずかに硬くなる。

 そこがアオに繋がる場所なのだと、澪にも分かった。紫乃はそれを見て、少しだけ声を落とした。

 

「アオが最後にいた場所に近い」

 

 沈黙が落ちる。

 エンデが小さく呟いた。

 

「海の底の扉」

 

 澪の胸の奥で、静かに“扉”が鳴った。

 痛みはない。

 ただ、遠くから名前を呼ばれたような感覚があった。


 澪は胸元を押さえる。青織がすぐにそれに気づいた。

 

「反応したか」

 

「少しだけ」

 

「無理に聞くな」

 

「うん」

 

 澪は頷いた。

 

 けれど、完全に耳を塞ぐことはできなかった。東京湾。アオの最後の歌。エンデの見ている海の底の扉。自分の中にある、知らないはずの旋律。

 

 全部が同じ場所へ向かっている。それが怖いのに、同時に、行かなければいけない気もした。

 

 紫乃は端末を操作しながら続ける。

 

「問題は移動手段だね。地上ルートは管理局の検問が増えてる。地下鉄は半分死んでるし、侵食深度が不安定。車を出すにしても、湾岸方面の道路は白鯨も張ってる可能性が高い」

 

「裏道は?」

 

 青織が聞く。

 

「ある。ただし安全じゃない」

 

「今さらだ」

 

「だよね」

 

 紫乃は苦笑し、地図の端を指差した。

 

「新宿から南へ抜けて、目黒川沿いの旧避難導線へ入る。そこから品川方面へ下り、湾岸の封鎖線手前で旧観測路へ接続する。問題は、その旧観測路がまだ“こちら側”にあるかどうか」

 

「向こうへ沈んでる可能性がある?」

 

 澪が聞くと、紫乃は頷いた。

 

「ある。だけど、澪ちゃんがいるなら逆に開く可能性もある」

 

「それ、良いこと……?」

 

「状況による」

 

「だいたい悪い時の返事だよね……それ」

 

「うん」

 

 紫乃は悪びれずに言った。

 青織は地図を見下ろしたまま、低く言う。

 

「管理局は澪を監視対象として生け捕りにしたい。白鯨は澪とエンデを回収したい。成海は目的不明だが、東京湾へ誘導している」

 

「うわ……やっぱり、全方向から狙われてるじゃん……」

 

「そうだ」

 

「もうちょっとやわらく言うことは――」

 

「囲まれてる」

 

「変わってないかも……」

 

 澪が思わず言うと、紫乃が少し笑った。

 けれど、その笑いはすぐに消えた。

 

「でも、逆に言えば全員が東京湾を見る。だから古書店から離脱するなら、今しかない」

 

 紫乃は机の下から、古い金属ケースを引っ張り出した。

 中には、小型の観測器、携帯型の境界負荷計、古い通信端末、予備の固定剤、それから小さな布袋がいくつか入っていた。

 

「持っていくものを分けるよ」

 

 そう言って、彼女はまず青織へ固定剤と境界負荷計を渡す。

 

「これは君。説明いらないよね」


「分かってる」

 

「使い切ったら終わりだから、無駄撃ちしないで」

 

「すると思うか?」

 

「昔、壁ごと固定剤を吹っ飛ばした人が言う?」

 

「あれは必要だった」

 

「はいはい」

 

 次に紫乃は、澪へ小さな鈴を渡した。紐がついている。古びた銀色の鈴だった。振ると、澄んだ音が一度だけ鳴る。

 

「これは澪ちゃん」

 

「鈴?」

 

「音叉代わり。境界音に呑まれそうになった時、自分の声の位置を戻すために使う」

 

「声の位置……」

 

「アオの歌を受信してるってことは、澪ちゃんの中には境界侵食のによる“自分の声”と“アオの残響”が混ざってる。東京湾に近づけば、その境目はもっと曖昧になるはず。

 

 澪は鈴を手のひらに乗せた。冷たい。けれど嫌な冷たさではなかった。雨の後の空気みたいに、静かな冷たさだった。

 

「鳴らしたら、戻れるんですか」

 

「絶対とは言えない。でも、何もないよりはいい」

 

「またそういう言い方……」

 

「嘘つくよりいいでしょ」

 

 紫乃が肩を竦める。エンデが隣から鈴を覗き込んだ。

 

「澪の音?」

 

「たぶん」

 

 澪が言うと、エンデはそっと鈴へ指先を伸ばした。触れるか触れないかのところで止める。

 

「澪、忘れないで」

 

「何を?」

 

「澪の声」

 

 澪は息を呑む。

 エンデは真剣だった。

 

「アオの歌、澪の中にある。でも、澪の声もある」

 

 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。澪は鈴についた紐をチョーカーのように首に括り付けた。

 

「うん。忘れない」

 

 エンデは少しだけ安心したように頷いた。

 紫乃は最後に、エンデへ小さな布袋を渡した。

 

「これはエンデくん」

「エンデにも?」

 

「うん。侵食避け。まあ、君の場合は避けるというより、形を保つためのお守りみたいなものだけど」

 

 エンデは布袋を受け取る。

 

「これ、何が入ってる?」

 

「塩、古い駅の切符、あと細かく砕いた観測石」

 

「食べる?」

 

「いやいや!食べないよ!」

 

 子供に諭す母親のような即答だった。

 エンデは少し残念そうに布袋を見た。

 

「食べないもの、多い」

 

「普通はお守り食べないんだよ」

 

 澪が言うと、エンデは真面目に頷く。

 

「学習した」

 

 紫乃が笑いながら、最後に大きめのリュックを二つ出した。

 

「澪ちゃんは軽い方。エンデくんは靴に慣れるだけで精一杯だと思うから、荷物なし。青織は重い方」

 

「当然だな」

 

「文句言わないの珍しい」

 

「言っても軽くならん」

 

「それはそう」

 

 準備は少しずつ進んでいく。水が詰められ、包帯が分けられ、携帯食が隙間へ押し込まれる。

 

 澪は着替えの上に薄手の雨具を畳んで入れた。エンデは靴を履いたまま、店内をゆっくり歩く練習をしている。時々棚にぶつかりそうになっては、澪に袖を引かれて止まった。

 

 その姿を、青織が黙って見ていた。

 紫乃が隣へ来る。

 

「成海、何か言ってた?」

 

「東京湾まで来てほしい、と」

 

「他には」

 

「俺たちが何を選ぶのか見たいらしい」

 

「……らしいね」

 

 紫乃は棚に背を預けた。

 

「あいつ、昔から観測者でいたがるんだよ。自分は舞台に上がらない顔をして、いつも一番面倒なところにいる」

 

「何を隠してると思う」

 

 青織の問いに、紫乃は少し黙った。

 

「分からない」

 

「お前でも?」

 

「分からないよ。成海は、自分でも自分を全部分かってないタイプだから」

 

 紫乃は小さく息を吐く。

 

「でも、ひとつだけ言える。あいつが東京湾へ誘導してるなら、そこにはあいつが見たいものがある」

 

「それが俺たちの破滅でもか」

 

「あり得る」

 

「救いでも?」

 

 紫乃は少しだけ青織を見た。

 

「それも、あり得る」

 

 青織は答えなかった。

 

 成海は信用できない。危険で、悪趣味で、どこまでも不誠実だ。だが、ただの破壊者ではない。

 少なくとも、今日のあの言葉だけは、いつもの戯言とは違っていた。

 

 ――願望だけでどこまで行けるのか知りたい。

 

 何の話だったのか。

 誰の願望だったのか。

 青織には分からない。

 

 けれどその言葉は、妙に耳に残っていた。

 

「青織」

 

 エンデの声で、青織は顔を上げた。

 エンデがこちらへ歩いてくる。

 

 まだ少しぎこちないが、転ばずに歩けている。足元のスニーカーを何度も確かめながら、青織の前で止まった。

 

「歩けた」

 

「見れば分かる」

 

「靴、少し信用した」

 

「それはよかったな」

 

 エンデは胸元に抱えていた絆創膏の箱を見下ろす。

 

「これも、持っていく」

 

「好きにしろ」

 

「青織がくれたから」

 

 青織は一瞬だけ返事に詰まった。

 

 紫乃が横でにやにやしている。

 

「よかったね」

 

「黙れ」

 

「はいはい」


 澪も笑っていた。

 

 その笑顔を見て、青織は胸の奥に鈍い痛みを覚えた。

 アオの時も、こういう瞬間があった。

 

 何でもない会話。くだらないやり取り。任務の合間に差し込まれる、小さな日常。あの時の自分は、それがどれほど脆いものか分かっていなかった。

 

 今は分かっている。だからこそ、怖い。

 だが同時に、今度こそ目を逸らしてはいけないとも思った。

 

 青織はリュックを背負い、観測銃の入った楽器ケースを肩にかけ直した。

 

「出発は一時間後だ」

 

 澪が顔を上げる。

 

「そんなにすぐ?」

 

「長居すればするほど危険だ」

 

 紫乃も頷いた。

 

「私も最低限の偽装をかけ直す。ここを出たあと、しばらくは古書店に戻れないと思って」

 

 澪は店内を見回した。古い本棚。ランプのまろやかな光。紙とインクの静かな匂い。さっきまでエンデと並んで詩を読んでいたソファ。

 

 短い時間しかいなかったのに、もう少しだけここにいたいと思ってしまう。そんな自分に驚いた。

 

 けれど行かなければならない。東京湾へ。アオの歌が残る場所へ。

 エンデの世界と自分たちの世界を分けるために。

 澪は手の中の鈴を握りしめた。

 

「分かった」

 

 声は震えていなかった。青織がこちらを見る。エンデも見る。紫乃が少しだけ笑う。

 

 その瞬間、古書店の奥で、どこか遠い海鳴りが微かに響いた気がした。

 

 澪は目を閉じる。怖い。

 

 でも、もう逃げたくはなかった。

決意を固めた澪—決意を胸に東京湾の境界の門へ向かう—

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