スニーカーと絆創膏
買い出しから戻ってきた青織はエンデにスニーカーと絆創膏を送る。
安らかなひと時が流れる—
裏口の鍵が開く。
冷たい夜気と一緒に、青織が店内へ入ってきた。コートの裾から雨粒が床へ落ちる。
彼は何も言わずにドアを閉め、内鍵をかけ、さらに紫乃が仕込んだらしい小さな符号錠を操作した。
それからようやく、買い物袋をカウンターへ置く。
「最低限は揃えた」
袋の中から、水、携帯食、包帯、消毒液、モバイルバッテリー、使い捨ての雨具が出てくる。
もう一つの袋には、澪用の白シャツ、顔を隠すためのキャップ、それから子供用のスニーカーが入っていた。
結局澪の服は雨燕古書店がたまにやる古着のフリーマーケットの在庫で何とかなったらしい。
澪曰く、紫乃に何でも着せられてほぼマネキン状態。
似合う色の模索から始まり、定番のスカートスタイルから、ボーイッシュ系、マニッシュ系……しばらくファッションショーは控えたいとのことだった。
今は学生服から紺碧色の少しレトロスタイルな半袖ブラウスとシンプルなミニスカートにデニール薄めの深い菫色のストッキング。
黒いローファーと言うスタイルに落ち着いている。
これは時任紫乃の完全なる好みである。
エンデが、スニーカーを見つめて固まる。
「……来た」
「敵じゃないよ」
澪が笑う。
エンデは真剣な顔で靴を指差した。
「これ、足を閉じ込めるもの」
「足を守るもの」
澪が訂正する。
青織はスニーカーの箱をエンデの前へ置いた。
「マジックテープにした。紐は無理だろ」
「むり?」
「お前にはまだ早い」
エンデは少し不満そうに眉を寄せたが、箱を開けると、そっと靴を取り出した。
白と紺のごく普通の子供用スニーカーだった。
何の特別な力もない。ただの靴。
それでもエンデは、まるで未知の生物でも扱うみたいに、両手で慎重に持っている。
「……軽い」
「そりゃ靴だからね」
澪が言うと、エンデは靴を裏返した。
「底、かたい」
「地面を踏むところだから」
「人間、足、弱い」
「まあ、裸足で東京歩ける君が変なんだと思う」
エンデは少し考え込んだあと、小さく頷いた。
「エンデ、変?」
「そこで納得しなくていいよ」
澪は笑いながら、エンデの前にしゃがみ込んだ。
「履いてみる?」
「履く。練習する」
「じゃあ、足出して」
エンデは言われた通りに裸足の足を出した。
澪はスニーカーの履き口を広げてやる。エンデは恐る恐る足を入れたが、途中で動きを止めた。
「……挟まれてる」
「それが履けてるってこと」
「足、捕獲された」
「されてない」
紫乃がカウンターにもたれながら吹き出す。
青織も何か言いたげに口を開きかけたが、結局黙った。ただ、ほんの一瞬だけ目元の険しさが薄れた。
エンデは両足に靴を履くと、立ち上がった。
そして一歩。
ぎこちなく歩く。
もう一歩。
今度は少しだけ膝が曲がる。
「……地面、遠い」
「靴底の分だけね」
「エンデ、少し背が高い」
「数センチだけど」
澪が笑うと、エンデは少し誇らしげに足元を見た。
「エンデ、進化」
「靴を履いただけで進化扱いなんだ」
「人間の道具、すごい」
その小さなやり取りの間だけ、雨燕古書店の空気は不思議と柔らかかった。
世界が裂けていることも、東京湾で何かが目を覚まそうとしていることも、管理局と白鯨が彼らを追っていることも、ほんの少しだけ遠くなる。
澪はその時間を、大事にしたいと思った。
その時、青織が買い物袋の底へ手を入れた。
何かを取り出しかけて、止まる。
それから、何事もなかったように一度戻そうとする。
紫乃が見逃さなかった。
「今、何隠した?」
「何も」
「嘘つく時、声低くなるよね」
「元から低い」
「じゃあ、もっと低くなった」
青織は無言で紫乃を睨んだが、紫乃はまったく怯まない。澪もつい気になって、青織の手元を見てしまう。
「青織、何か買ってきたの?」
「……大したものじゃない」
そう言いながら、青織はしばらく迷ったあと、小さな箱を取り出した。
星柄の絆創膏だった。
澪は一瞬、目を瞬かせる。
イルカや星の絵が描かれた、子供用の絆創膏。どう考えても、青織が自分用に買うようなものではない。
エンデが首を傾げた。
「それ、何?」
青織は何故か、エンデを見なかった。
代わりに、澪へ箱を差し出す。
「九条」
「はい?」
「渡せ」
「……私が?」
「ああ」
「えぇー?誰に〜?」
「分かるだろ」
澪は箱と青織の顔を交互に見た。
青織は無表情だった。けれど、ほんの少しだけ視線が泳いでいる。耳のあたりが、気のせいでなければ少し赤い。
澪はゆっくり箱を受け取った。
「これ、エンデに?」
「余った」
「買い物袋から新品で出てきましたけど」
「余った」
「まだ開けてもないのに」
「余ったんだ〜?」
紫乃が噴き出した。
「青織、君さあ……」
「黙れ」
「いや、これは黙れないでしょ。わざわざ子供用の星柄を選んだの?」
「目についただけだ」
「よりによって星柄とイルカ柄?」
「黙れと言った」
「しかも直接渡せないんだ」
「紫乃」
「はいはい、怖い怖い」
紫乃は笑いながら両手を上げたが、その目は完全に面白がっていた。
澪も思わず口元が緩む。生暖かい目で紫乃と澪が青織をねっとり見つめる。
「青織、優しいんだね」
「違う」
「違うの?」
「気休めだ」
「でも……気休めを買ってきてくれたんだよね?」
「……」
青織は答えなかった。その沈黙が答えだった。
澪は小さく笑って、エンデの前にしゃがみ込む。そして、絆創膏の箱を差し出した。
「はい。青織から」
「九条」
「ちゃんと言わないと伝わらないよ」
「……余計なことを」
エンデは箱を受け取り、じっと見つめた。
「これは、何をするもの?」
「人間の軽い怪我に貼るもの」
澪が説明する。
「境界負荷、治る?」
「治らない」
「じゃあ、なぜ?」
エンデは本気で不思議そうだった。
澪は少し考えたあと、優しく言った。
「痛いところに貼ると、ちょっとだけ大丈夫な気がするもの」
「大丈夫な気がする」
「うん。気休め」
エンデはその言葉を聞いて、ゆっくり青織を見た。
「青織、エンデに気休め、くれた?」
青織は目を逸らす。
「必要なら使え」
「ありがとう」
エンデは箱を胸元へ抱えた。
その仕草は、何か大切なものをしまうみたいだった。
「エンデ、これ好き」
青織の表情が、ほんのわずかに動いた。
困ったような、照れたような、怒るに怒れないような顔だった。
紫乃がにやにやしながら言う。
「よかったね、青織」
「何がだ」
「好かれて」
「黙れ」
「星柄の絆創膏で漂流個体を懐柔する元特殊観測班」
「撃つぞ」
「古書店で発砲禁止」
澪は堪えきれずに笑ってしまった。
エンデはなぜ笑われているのか分からないまま、星柄の絆創膏の箱を大事そうに持っている。
その光景を見ながら、澪は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
境界を閉じるとか、東京湾へ行くとか、世界が壊れるとか、そういう大きすぎる言葉ばかりが目の前に積み上がっている。
けれど今ここには、靴を履いて少し背が高くなったエンデがいて、星柄の絆創膏を直接渡せなかった青織がいて、それを面白がる紫乃がいる。
それだけで、まだこの世界を諦めたくないと思えた。
次回以降、澪たちは東京湾へ向かう—そこには何が待ち受けているのか……?




