かつての同僚
青織は澪たちと境界の門を閉じるため、東京湾に向けての物資を確保しに行く、そこで出会った意外な人物とは—
半刻ほど先のこと、青織が雨燕古書店を出ると、夜の東京は妙に静かだった。
雨は上がりかけている。路地のアスファルトには薄く水が残り、ネオンや街灯の光を揺らしながら、まるで足元に別の街が沈んでいるように見えた。
遠くでは境界侵食警報の低い音が鳴っているが、誰も本気で耳を傾けてはいない。東京の人間は、世界が壊れていく音に少しずつ慣れ始めていた。
青織はコートの襟を立て、肩にかけた黒い楽器ケースを持ち直した。
中に入っているのは観測銃だ。外から見れば、深夜の街を歩く疲れたバンドマンか、ライブ帰りの男に見えなくもない。
少なくとも、漂流個体と第一級監視対象の共鳴核を匿っている元・特殊観測班には見えないはずだった。
雨燕古書店の位置は、まだ割れていない。
紫乃の偽装は優秀だ。古物商の登録、配送業者の出入り履歴、電子決済のログ、周辺防犯カメラの映像まで、すべてが自然に見えるよう整えられている。
境界管理局の索敵でも、白鯨の裏網でも、通常なら半日は持つ。
通常なら。
青織は一人の男の顔を思い浮かべ、露骨に眉をひそめた。
成海玲司。
あの男だけは、いつも理屈の外から現れる。
商店街の端にある二十四時間営業の小さなドラッグストアへ入ると、店内には眠たげな店員が一人と、奥の棚を眺める中年の客が一人いるだけだった。
蛍光灯の白さがやけに薄く、深夜の狭い空間にぼんやりと飽和している。
青織は紫乃から渡されたメモを見ながら、必要なものを籠へ入れていった。
水。携帯食。包帯。消毒液。モバイルバッテリー。使い捨ての雨具。
澪の着替えは、このあと無人衣料店で調達する。制服姿はもう管理局の検索条件に入っているだろう。
問題はエンデの靴だった。
サイズが分からない。そもそも本人が靴という概念をまだ信用していない。
紐靴は無理だろう、と青織は思った。あの様子では、蝶結びを教えるだけで夜が明ける。
レジ横の棚に、子供用の絆創膏が並んでいた。
イルカや星の絵が描かれている。
実戦では何の役にも立たない。境界負荷による亀裂を塞げるわけでも、固定剤の代わりになるわけでもない。
エンデの腕を縫うには、あまりにも頼りない。
それでも青織は、その小さな箱をじっと見つめた。エンデが治療された腕を、困ったように見つめていた顔を思い出したからだ。
痛みに慣れていて、心配されることに慣れていない顔。壊れかけているのに「平気」と言う子供の顔。
青織は無言で、星柄の絆創膏を籠へ入れた。
「似合わねぇ買い物してんねぇ」
背後から声がした。
青織の身体は、考えるより先に動いていた。籠を棚へ置き、右手がコートの内側へ入る。
観測銃は使わない。こんな店内で撃てば目立ちすぎる。代わりに袖口へ仕込んだ境界針を指の間に挟み、声の方へ振り返った。
冷蔵棚の前に、成海玲司が立っていた。碧色のペイズリー柄シャツに、色付き眼鏡。片手には炭酸飲料の缶。深夜のドラッグストアに似合っているようで、どこにも似合っていない。
彼を構成するすべてが、この世界の緊張感から外れている。
それなのに、青織は一切油断しなかった。
「こんばんは〜、青織」
「……成海」
「買い出し?」
「いつからつけてた」
成海は軽く笑った。
「嫌だねぇ、俺がストーカーとでも言いたいの?」
青織は周囲を見た。
店員。客。防犯カメラ。外の路地。異常はない。少なくとも見える範囲には。
だが、成海がいる時点で普通は終わっている。目に見える異常がないということは、見えない場所が先に侵されている可能性が高い。
「雨燕古書店の場所を掴んだのか」
「まだ」
「とはいえ境界管理局の親切な人にいろいろ教えてもらってるからねぇ」
成海はあっさり答えた。親切な人――もうこの世にはいないのだろうと青織は思った。
「紫乃の偽装は相変わらず面倒くさい。あいつ、隠し事だけは几帳面だからな。棚の並びは雑なくせに」
「なら何故ここにいる」
「なんの備えもない拠点から誰かが物資補給に出てくるのは明白だろ?」
「だからお前だってそんな装備をしてるわけだ」
成海は缶のプルタブを開けた。炭酸の抜ける音が、深夜の店内に妙にはっきり響く。
「昔からそうだろ。大事な局面の前に、必要な物を自分で確認しに行く。人に任せるのが下手なんだよ、お前」
「それだけで待ち伏せたのか」
「それだけで十分」
成海は籠の中を覗き込む。
「水、包帯、消毒液、携帯食、バッテリー。あと……お、可愛い絆創膏」
「見るな」
「エンデちゃん用?」
青織は黙った。
エンデの名前すらすでに相手には把握済みか。
もはや古書店の所在以外はすべて抜き取られたと考えて良いだろう――青織が最も警戒するのはこの男の動機が見えないからだ。何を考えているのかわからない……
その沈黙だけで、成海は楽しそうに笑う。
「いいねぇ。お前、ほんと変わんねぇな」
「お前は相変わらず気色悪い」
「ひでぇなあ〜久々の再会なのに」
成海は悪びれなかった。
青織は境界針を下ろさない。
成海もそれに気づいているはずだが、まるで気にしていない。そういうところが、昔から変わらない。
危険を理解していないのではない。理解した上で、面白がっている。
「白鯨を襲ったな」
青織が言うと、成海は嬉しそうに口角を上げた。
「おっ、耳が早いねぇ」
「伊坂が動けば情報は流れる」
「あっ、そ」
成海の返事は軽かった。
軽すぎた。
青織の指に挟まれた境界針が、微かに青白く光る。
「お前はいつもそうだ」
「何が?」
「人の死を、数字か道具みたいに扱う」
「違ぇな」
成海は缶に口をつけた。
「数字でも道具でもない。反応だよ」
「……反応?」
「人間がどこまで耐えるのか。何を守るのか。何を諦めるのか。そういうのを見るのは嫌いじゃない」
「最低だな」
「よく言われる」
成海は笑っている。
だが青織は、その笑みの奥にある薄い違和感を見た。
昔からそうだった。この男は本心を見せない。見せないというより、自分でも整理できていないものを全部、軽薄な笑みで覆い隠している。
「目的は何だ」
「情報」
「澪とエンデの?」
「それとお前」
成海は指を三本立てた。
「九条澪。エンデ。青織零。三人がどこへ向かうのか、何をしようとしているのか。それを知りたい」
「何のために」
「見たいから」
「何を」
「お前らが変わっていくところ」
青織の眉が動いた。
成海は何でもないことのように続ける。
「お前とアオは、途中まで行って壊れただろ。お前は守れなかった。アオは消えた。関係が完成する前に、管理局が結論を出した」
「黙れ」
「でも、澪ちゃんとエンデちゃんはまだ途中だ」
成海は笑みを浮かべたまま、しかし声だけを少し低くした。
「あの二人、これから変わる。人間と境界個体が、ただの遭遇でも、監視対象でも、保護者と被保護者でもなくなっていく。その先に何があるのか、俺は見たい」
「見世物か」
「それだけなら、もっと雑に扱ってる」
その返答に、青織は一瞬だけ黙った。
成海らしくない言い方だった。
面白いから、と言えば済むところを、今の成海は少しだけ遠回りした。
「お前に、境界個体との絆を語る資格があるのか」
青織は低く言った。
「誰かを守ったことも、失ったことで悔いたこともないお前に」
成海は缶を持ったまま、少しだけ動きを止めた。一秒にも満たない。だが、確かに止まった。そしてすぐ、いつもの軽薄な笑みに戻る。
「絆ねぇ」
「何がおかしい」
「いや。綺麗な言葉だなと思って」
「成海」
「俺にはないよ、そういうの」
彼はあっさり言った。
「お前とアオみたいなものも、澪ちゃんとエンデみたいなものも、俺にはない」
その言葉は本当に軽かった。けれど青織は、その軽さの底に何か沈んでいる気がした。
成海はそれ以上話さなかった。話すつもりがないのだと、青織は悟る。その理由を、青織は知らない。
海の真ん中の基地。波の打ち付ける岸壁。薄青く湿った大気。
観測用ライトの光が伸びる――
名前もなく、声もなく、歌もなく――
生きたい。
まだ何にもなれていないのに。
まだ誰にも呼ばれていないのに。
ただ、生きたい。
「お前のその力」
青織が言った。
「どこで手に入れた」
成海の右目の奥で、ほんの一瞬、青い輪が揺れた。
虹色ではない。エンデやアオのような光ではない。
もっと暗く、もっと歪で、深い水底に沈んだ輪のような光。
成海は眼鏡を押し上げる。
「秘密ぅ〜」
「管理局の術式体系にはない」
「だろうな」
「白鯨の模倣技術でもない」
「そっちは趣味が悪いからな」
「お前自身は境界個体ではない」
「たぶんね」
「ふざけるな」
「ふざけてる方が話しやすいだろ〜」
青織の足元で、床のタイルが微かに歪んだ。
黒い線が一本、蛇のように走る。レジ横の防犯カメラへ向かって伸びていく。
青織は即座に境界針を投げた。青白い光が床を縫い止め、黒い線をその場に固定する。ひびはしばらく震え、やがて炭化した糸みたいに崩れた。
「店内で使うな」
「使ったのはお前が先だろ」
「何をした」
「監視カメラの接続を少し借りようとしただけ」
「どこへ繋げるつもりだった」
「管理局と白鯨。あと、紫乃の偽装の外周」
青織の殺気が濃くなる。成海は両手を上げた。
「安心しろよ。古書店の場所を売る気はない」
「信用できると思うか」
「そりゃあできないだろうね」
「なら黙れ」
「でも今売るより、東京湾まで泳がせた方が面白い」
青織は一歩前へ出た。
「お前は澪たちに近づくな」
「無理だな」
成海は即答した。
「俺は見るよ。澪ちゃんがどこまで歌えるのか。エンデちゃんがどこまで人間に近づくのか。お前が今度こそ、誰かを守れるのか」
「……悪趣味だ」
「知ってる」
「お前は結局、何も選ばない」
青織の声が冷たくなる。
「管理局でも、白鯨でも、今もそうだ。誰の味方でもないと言いながら、ただ人が壊れるところを見ている」
「そうかもな」
成海は笑った。だが、今度はその笑みがわずかに薄かった。
「でもさ、青織」
「何だ」
「見てるだけの人間が、何も持ってないとは限らないだろ」
その言葉の意味を、青織は掴めなかった。成海はそれ以上説明しない。
代わりに、ポケットから小さな金属片を取り出し、軽く弾いた。青織は反射的に受け取る。錆びた鍵のような形をしていた。
「旧・海上観測基底区画の補助ハッチ」
成海が言った。
「まだ生きてる。管理局の正式ルートは封鎖されるだろうから、それ使え」
「何故渡す」
「東京湾まで来てほしいから」
「罠か」
「半分」
「半分?」
「半分は親切」
「お前の親切ほど信用できないものはない」
「褒めてくれて嬉しいねぇ。なるべく期待に応えるよ」
成海は笑う。
「残り半分は、そこまで行ったお前たちが何を選ぶのか、俺が見たいだけ」
青織は鍵を握りしめた。
「お前のために選ぶわけじゃない」
「もちろん」
「澪とエンデは見世物じゃない」
「知ってる」
「なら、なぜ」
成海は少しだけ黙った。
蛍光灯の白い光が、色付き眼鏡のレンズへ反射している。その奥の目は見えない。
「願望だけでどこまで行けるのか知りたいんだよ」
成海はそれだけ言った。青織は眉をひそめる。
「何の話だ」
「さあ」
いつもの笑みが戻る。
「澪ちゃんかもしれないし、エンデちゃんかもしれないし、お前かもしれない」
「……」
「俺かもな」
その言葉だけは、冗談にも本音にも聞こえた。
青織は返事をしなかった。成海も求めていなかった。
自動ドアへ向かって歩き出した成海は、出口の前で一度だけ振り返る。
「青織」
「何だ」
「今度はちゃんと見ろよ」
その声には、いつもの軽薄さが少しだけ欠けていた。
「アオの時みたいに、誰かが決めた答えを呑み込むな」
青織は動かない。成海は軽く手を振った。
「あと、エンデちゃんの靴はマジックテープにしとけ。紐は絶対無理」
そう言い残して、成海は雨上がりの路地へ消えた。青織はしばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中には、錆びた鍵。籠の中には、水と包帯と、星柄の絆創膏。
そして耳の奥には、成海の言葉が残っていた。
――願望だけでどこまで行けるのか知りたい。
あの男は、何を見たのか。何を隠しているのか。
なぜ、人間のまま境界侵食を使えるのか。
答えは出ない――
ただ、青織には分かった。
成海玲司は、まだ何かを抱えている。
それはきっと本人にすら、正確には言葉にできていない。
青織は鍵をポケットへしまい、籠を持ち上げた。
支払いを済ませて外へ出ると、雨は完全に止んでいた。
だが空の裂け目は、さっきよりも少しだけ大きくなっていた。
目的のわからない男。成海。
何を目指して彼は澪たちを東京湾へ誘うのか—




