古書店の夜
澪とエンデは青織に東京湾は行く準備を任せ、ひとときの休息と心の交流を得る—
雨燕古書店の中に、しばらく沈黙が落ちていた。
閉じる時もまた、歌を要する。
その一文は、古い紙の上に掠れて残っているだけなのに、誰かの声で直接告げられたみたいに重かった。
澪は膝の上で拳を握りしめたまま、古書の挿絵を見つめていた。
黒い海の上で歌う誰か。浮かび上がる門。そこに描かれている人物の顔は曖昧で、アオなのか、自分なのか、それともまったく別の誰かなのか判別できない。
ただ、胸の奥の“扉”だけが、それを知っているみたいに静かに震えていた。
「今すぐ動くのは無理だね」
最初に口を開いたのは紫乃だった。いつもの軽い調子ではなく、店主というより解析官の声だった。
「澪ちゃんは寝起きで深度が不安定。エンデくんも縫合したばかり。青織はずっと戦闘続き。そんな状態で東京湾に突っ込んだら、門を閉じる前に全員沈む」
「時間はない」
青織が言う。
「でも準備なしで行くほど馬鹿じゃないでしょ」
紫乃はそう返しながら、古書を閉じた。革張りの表紙が重く鳴る。
「白鯨も管理局も、まだここまでは掴んでない。雨燕古書店には何重にも偽装をかけてあるし、表向きはただの古書店だからね。もちろん永遠には保たないけど、半日くらいなら隠れられる」
「半日か」
「十分とは言わないけど、ゼロよりマシ」
紫乃は立ち上がり、カウンター奥の棚から古びた帆布のバッグを二つ取り出した。
「青織、戦闘続きとはいえあなたが1番動けるでしょ、買い出し行ってきて」
「俺が?」
「その顔で文句言わない。澪ちゃんとエンデくんを外に出す方が危険でしょ」
青織は露骨に嫌そうな顔をした。精悍な顔立ちのわりに、こういう時の表情は少しだけ年相応に見える。
「何を買う」
「水、携帯食、あっ、食べ物はたくさん買わないでよ!山盛り買ってくるんだから……あとモバイルバッテリー、包帯、消毒液、あと着替え。澪ちゃんの服は目立つから替えた方がいい。制服はもう管理局の検索条件に入ってると思う」
澪は自分の制服を見下ろした。濡れて、煤けて、ところどころ灰のようなものが付着している。
つい昨日まで、それは自分が普通の高校生である証みたいなものだったのに、今はむしろ追跡されるための目印になっている。その事実に、胸が少し痛んだ。
「あとエンデくん用に靴」
紫乃が付け加える。
エンデは自分の裸足を見下ろした。
「靴」
「そう。外歩くなら必要」
「エンデ、裸足でも平気」
「人間の街では平気じゃないの。通報される」
エンデは少し考えてから、真面目な顔で頷いた。
「通報、困る」
「そういうこと」
紫乃は満足そうに頷き、青織へバッグを押し付けた。
「私は地下で観測器の調整してくる。東京湾の深度推移を追えるようにしないといけないし、昔の観測ログも掘り返す必要がある」
「一人で大丈夫か」
「私を誰だと思ってるの」
「元解析班の引きこもり」
「ひどいな。だいたい合ってるけど」
紫乃は笑ったが、その目は真剣だった。
「青織。外、気をつけて。白鯨はともかく、管理局はたぶんもう民間監視網まで使ってる。顔認証も歩容認証も信用しない方がいい」
「わかってる」
「あと煙草買いに行くふりして余計なことしないでね」
「吸ってない」
「昔は吸ってたでしょ」
「昔の話だ」
そう言いながら、青織はコートを羽織った。
観測銃は目立つためか、布に包んで古い楽器ケースのようなものへ収める。何気ない動作だったが、あまりにも慣れていて、澪はこの人がずっと逃げたり潜ったりしてきたのだと改めて思った。
出入口へ向かう前に、青織は一度だけ澪とエンデを見た。
「ここから出るな」
「うん」
「窓にも近づくな。妙な音が聞こえても返事をするな。名前を呼ばれても反応するな」
澪は小さく頷く。
「……わかった」
エンデもこくりと頷いた。
「エンデ、留守番する」
「それでいい」
青織はそれだけ言うと、雨の残る路地へ出ていった。
扉が閉まると、店内は急に静かになった。
古い紙の匂い。ランプの淡い光。窓を濡らす雨粒。遠くで鳴る警報音も、ここではずいぶん遠いものに聞こえる。
紫乃は地下へ降りる前に、澪へ視線を向けた。
「澪ちゃん、少し休んでて。寝ろとは言わないけど、頭を使うのは本当はあまりよくない」
「でも、本なら読んでいい?」
「それ言うと思った」
紫乃は苦笑し、棚から何冊か薄い本を抜き出した。
「じゃあ軽いやつ。詩集と、民謡採集録と、あと古い合唱曲の解説本。専門書はだめ。境界深度に影響があるかもしれないからね」
「本で?」
「今起きている一連の現象は心や記憶といった絶対値では測れない要素が多いの、何がトリガーになるかわからない。でしょ?」
こんな時の紫乃は、青織よりも理性的で合理的に見えた。
いつもは距離感を感じさせない気楽さを相手に感じさせることに長けているが、こちらの方が彼女の本質なのかもしれないと澪は考えた。
紫乃が地下へ降りると、店の奥には澪とエンデだけが残った。
エンデはソファの端に座り、買ってもらう予定の“靴”についてまだ考えているようだった。膝を抱え、裸足のつま先をじっと見ている。
「靴、嫌?」
澪が聞くと、エンデは首を傾げた。
「嫌ではない」
「じゃあ何考えてたの?」
「足を閉じ込める道具」
「ふふ、言い方」
「違う?」
「まあ、間違ってはないけど……」
澪は思わず笑った。
「でも靴があると、熱い地面とか、ガラスとか、痛いものを踏まずに済むよ」
「守るもの?」
「うん。足を守るもの」
エンデはもう一度、自分の足を見る。
「なら、少し良い」
「少しなんだ」
「エンデ、まだ靴を信用してない」
その言い方が妙に真面目で、澪はまた笑いそうになった。
笑うと、少しだけ胸が軽くなった。
今から東京湾へ向かう。世界を分けるとか、境界を閉じるとか、自分の手に余ることばかりが並んでいる。
けれどその合間に、エンデの靴の心配をしている時間がある。それがどうしようもなく変で、どうしようもなく救いだった。
澪は紫乃が置いていった詩集を一冊手に取った。
古い新書判で、表紙には薄い青色の装丁が施されている。ページを開くと、少し黄ばんだ紙から懐かしい匂いがした。
「澪、本、好き」
エンデが言った。
「うん。好き」
「どうして?」
澪は少し考えた。
今までなら、知らない世界へ行けるから、と答えただろう。あるいは、言葉が好きだから、と。でも今は、その答えだけでは足りない気がした。
「本ってさ、誰かがずっと前に考えたことが、今の私のところまで届くものなんだよ」
「時間、越える?」
「そう。書いた人がもういなくても、その人が見た景色とか、悲しかったこととか、嬉しかったこととか、誰かに伝えたかったことが残ってる」
言いながら、澪は自分で少し苦しくなった。アオの歌と同じだ。
残された言葉は、誰かへ届く。それを自分はずっと好きだったのだ。
「だから、本を読むと、ひとりじゃない感じがする」
澪がそう言うと、エンデは黙ってこちらを見た。
「ひとりじゃない」
「うん。知らない誰かが、昔ここにいたんだってわかるから」
エンデはゆっくり瞬きをした。
「エンデの世界、本、あまりない」
「そうなの?」
「紙、少ない。文字も、人間の文字と違う」
「じゃあ記録は?」
「歌」
澪は顔を上げた。
エンデは窓の外の暗い雨を見ていた。
「向こうでは、大事なことは歌になる。場所も、名前も、悲しいことも。長く残したいものは、歌の中に入れる」
「じゃあ、歴史も?」
「たぶん。エンデ、全部知らない。でも古い歌は、古い場所を覚えてる」
澪は息を呑んだ。
それはまるで、アオの最後の歌そのものだった。
「歌が、場所を覚えてるんだ」
「うん」
エンデは自分の胸元を押さえる。
「だからエンデ、澪の歌を聞くと、場所を思い出す」
「どんな場所?」
エンデは少し困ったように眉を寄せた。
「暗い海」
「門」
「青い光」
「それから……誰かがいた場所」
「アオ?」
澪が尋ねると、エンデはすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「たぶん」
その声には、懐かしさよりも不安が混じっていた。
「エンデ、アオを知ってる?」
「知らない」
「でも、歌は知ってる」
エンデの記憶は不完全だった。けれど時々、その不完全さの中にしか入らない真実があるように思える。
澪は詩集を開いたまま、ふと小さく息を吸った。
夢で聞いた旋律が、まだ喉の奥に残っている。歌ってはいけない気がした。でも、完全に拒むこともできなかった。
澪は声にならないくらい小さく、鼻歌のように一節だけ口ずさんだ。エンデの肩がぴくりと震える。
「……それ」
「ごめん、やっぱり変だった?」
「違う」
エンデは首を振った。
「怖いけど、嫌じゃない」
澪は胸が痛くなる。
「怖いんだ」
「アオの歌、少し寂しい」
「うん」
「でも、澪の声だと、少しあたたかい」
澪は何も言えなかった。
自分の中にあるものが、自分だけのものではないかもしれない。それは怖い。
でもエンデがそう言ってくれるなら、自分の声で歌う意味は、まだ残っているのかもしれない。
澪は詩集を閉じ、エンデの隣へ少しだけ移動した。
「じゃあ、今度は私の好きな詩を読む」
「澪の好きな歌?」
「歌じゃなくて詩。でも近いかも」
「聞く」
エンデは姿勢を正した。
そのあまりの真剣さに、澪は少し笑う。
「そんなにかしこまらなくていいよ」
「言葉、大事」
「そうだね」
澪はページをめくり、昔から好きだった短い詩を探した。小学生の頃、初めて読んで胸が詰まった詩。
意味を完全に理解できたわけではなかったけれど、そこにある寂しさと光だけは分かった。
澪は声に出して読む。古書店の奥に、静かな言葉が落ちていく。外では雨が止みかけていた。
エンデは一言も口を挟まずに聞いていた。言葉の意味を全部理解しているわけではないだろう。
それでも、彼は澪の声を聞いていた。文字ではなく、声の揺れを。言葉の奥にある感情を。
読み終えると、エンデはしばらく黙っていた。
「……人間の言葉、変」
「変?」
「短いのに、広い」
澪は目を瞬かせる。
それから、少し笑った。
「それ、すごく良い感想だと思う」
「良い?」
「うん。詩って、たぶんそういうものだから」
エンデは少しだけ嬉しそうにした。
その表情があまりに幼くて、澪はふと、この子がどれだけ長く生きているのかも、あるいは本当に子供なのかも知らないことに気づく。
けれど今この瞬間、古書店のソファに並んで座り、詩を聞いているエンデは、ただ知らないものを知ろうとしている少年に見えた。
「澪」
「なに?」
「また読んで」
「いいよ」
澪は別のページを開いた。
今度は海の詩だった。遠い灯台と、夜の波と、帰ってこない船の詩。
読みながら、澪は自分が少しずつ落ち着いていくのを感じた。詩を読むことは、前からそうだった。
現実が苦しい時でも、言葉の並びを辿っている間だけは、自分の輪郭を取り戻せる。
アオの残響があったとしても。
境界の歌が混ざっていたとしても。
この本を選んだのは自分だ。
この言葉を好きだと思ったのも自分だ。
そのことを、今は信じたかった。
やがて地下から紫乃の声がした。
「澪ちゃーん、エンデくーん。生きてる?」
「生きてまーす」
「エンデ、生存」
「よろしい」
階段の下から、紫乃が顔だけ出した。
「青織から連絡。もうすぐ戻るって。あとエンデくんの靴、買えたらしいよ」
エンデがわずかに緊張した。
「靴、来る」
「あはは……そんな敵襲みたいに言わないで」
澪が笑う。その笑い声は小さかったけれど、雨燕古書店の奥に柔らかく広がった。
世界は壊れかけている。東京湾では何かが目を覚まそうとしている。管理局も、白鯨も、きっとすぐに追いついてくる。
それでもその短い時間だけは、古い本と雨の匂いの中で、澪とエンデは同じ詩を読んでいた。
そして澪は思った。もし言葉が境界を越えるなら。
もし歌が時間を越えて誰かへ届くなら。
自分がこれから歌う言葉も、いつか誰かをひとりにしないために残るのかもしれない、と。
終末の東京のやさしい夜はもう少し続く—




