閉門
久我の言葉に通信の向こうで、誰かが息を呑んだ。
久我の声は静かだった。
『責任は俺が取る。撃つなと言った対象を撃つな。撃つべき相手を見ろ』
管理局部隊の銃口が、白鯨へ向く。白鯨、管理局、澪たち。三つ巴だった構図が、ここで割れた。
すべての線が、中央の澪とエンデへ向かっている。澪はその中心にいた。怖かった。今すぐ逃げ出したかった。
けれど、逃げれば全部が崩れることも分かっていた。エンデが言った。
「澪。今」
「今?」
「歌、続けて」
「でも、向こう側が」
「聞く。でも、呑まれない」
澪は門の奥を見た。あれだけ私たちを追い詰めてきた“向こう側”の嘆きが、まだ聞こえている。
澪は息を吸った。
閉じたい——
アオの願いを、もう一度胸に置く。
そこへ、自分の言葉を重ねる。
私は知りたい。私は生きたい。私は繋がりたい。
その瞬間、エンデが澪の手を両手で包み込んだ。
「エンデ、道を作る」
虹色の光が、彼の足元から伸びる。それは橋ではなかった。糸だった。細い、細い糸。
海の底の門の隙間へ向かい、アオの残響と澪の声とを縫い合わせるように伸びていく。紫乃が本を開いたまま叫ぶ。
「第二節、続き!」
ページの上で文字が走る。
「“声は境界を越えよ。されど肉は越えるな。名は深みに沈めよ。されど忘却に渡すな”」
青織がそれに合わせて観測銃を構えた。
「固定する」
青い波紋が澪とエンデの歌へ重なる。歌は、目に見える形になった。
澪の声――境界侵食は淡い白。
アオの残響は深い青。エンデの境界侵食は虹色。
青織の固定は冷たい青。紫乃の読み上げる文字は黒い墨のように、それらを譜面へ落としていく。
成海の黒い改竄線は、白鯨の保存槽へ向かった。
「で、邪魔な機材は俺が処分しますかね」
彼が指を鳴らす。保存槽の円環が、ぎぎ、と奇妙な音を立てて捻じ曲がった。白鯨隊員が慌てて制御盤へ走る。
『保存槽、異常』
『内部位相が反転しています』
『停止しろ』
「無理無理」
成海は笑う。
「それ、もう保存槽じゃなくて洗濯機だよ」
次の瞬間、保存槽が白い泡を吐いて爆ぜた。白鯨隊員たちが吹き飛ぶ。伊坂が呆れたように言った。
「品がない」
「効きゃあいいのよ」
「最低です」
「褒めんなって」
だが、白鯨は止まらない。
さらに奥の通路から、別の隊員が現れる。その背後に、黒いスーツの男がいた。
戦術装備ではない。現場の人間ではない。管理室から降りてきた、上層部の人間だった。男は白い手袋をした手で通信端末を押さえながら、中央観測槽へ声を響かせた。
「伊坂執行官。久我指揮代理。あなた方の行動は、白鯨および境界管理局間の協定に対する重大な違反です」
久我の通信が途切れる。管理局部隊の一部が動揺する。男は続けた。
「九条澪、漂流個体エンデ、ならびにアオ感情記録は、今後の境界対策における最重要資産です。個人の情緒判断により失うことは許されません」
紫乃が低く呟く。
「資産……」
青織の目に怒りが宿る。男は、澪を見た。人間を見る目ではなかった。装置を見る目だった。
「九条澪。あなたは理解していない。あなたが歌えば、世界は一度だけ救われるかもしれない。しかし、あなたを保存すれば、世界は何度でも救える」
澪は息を止めた。男の言葉は、理屈としては通っていた。自分一人を保存して、歌を取り出し、何度も使う。
それで多くの人が救えると、彼らは本気で考えているのだろう。けれど、その瞬間に澪は分かった。
これが、アオに起きたことなのだ。
名前を消される。声だけを取り出される。願いを分類される。そして、世界を守るという言葉の下で、人間ではないものにされる。伊坂が、男の前へ立った。
「彼女は資産ではありません」
男は伊坂を見る。
「あなたがそれを言うのですか」
伊坂は答えない。ただ、銃を構える。男は少しだけ笑った。
「あなたも変わりましたね。伊坂執行官」
「ええ」
伊坂は静かに言った。
「遅すぎましたが」
銃声。男の足元が砕ける。白い床が割れ、男は一歩後退した。
「次は外しません」
伊坂の声には、感情がなかった。だからこそ、本気だった。男の表情が初めて歪む。その背後で、白鯨部隊が一斉に構えた。
久我の部隊も構える。中央観測槽は、一触即発の静寂に包まれた。だが、その静寂を破ったのは、人間の銃声ではなかった。
海の底の門が、悲鳴を上げた。澪とエンデの歌に反応し、門の片側が閉じ始めている。だが、もう片側が黒い海に引き戻されていた。深度意志が、必死に抵抗している。
門が歪む。閉じる方向と、開く方向。二つの力に引き裂かれ、中央観測槽そのものが割れ始めた。床に亀裂が走る。
観測柱が一本、根元から折れた。黒い海水が滝のように落ちてくる。紫乃が叫ぶ。
「このままだと槽ごと落ちる!」
青織が澪たちを固定しながら歯を食いしばる。
「九条、急げ!」
澪は歌おうとする。
だが、“向こう側”、深度存在の声が強まる。
閉じるな。
閉じるな。
閉じるな。
私たちを、ひとりにするな。
その声は、アオの願いに似ていた。誰もひとりにしないで。似ているからこそ、澪の心が揺れる。エンデが言った。
「澪。違う」
「何が」
「似てる。でも違う」
エンデは門の奥を見た。
「アオは、誰もひとりにしたくなかった。“向こう側”、深度存在は、ひとりになりたくないから全部を連れて行こうとしてる」
澪の胸に、その言葉が刺さった。同じ孤独ではない。
アオの孤独は、誰かを残したくない願いだった。“向こう側”の孤独は、誰かを巻き込みたい飢えだった。
澪は、ようやくその違いを聞き分けた。怖い。でも、分かる。分かったなら、歌える。
澪は目を閉じた。そして、今度こそ、自分の声で言った。
「私は、あなたを忘れない」
深度意志の声が止まる。
「でも、あなたに呑まれない」
澪の中の扉が開き、門が震える。
「私の世界も、あなたの世界も、どちらか一方のものじゃない」
エンデの虹色の糸が強く輝く。
「だから、閉じる」
澪は息を吸った。
「でも、声は残す」
その瞬間、歌が始まった。それはアオの歌ではなかった。エンデが遠い昔に作った歌でもなかった。
澪が、アオの願いを受け取り、エンデの記憶を道にして、自分の言葉で編み直した歌だった。
中央観測槽のすべてが、その歌に震えた。
青織は観測銃を構えたまま、声もなくその歌を見た。
紫乃は泣きそうな顔で、本に浮かぶ文字を追った。
伊坂は銃を下ろさず、けれど一瞬だけ目を細めた。
久我は通信の向こうで、誰にも撃たせなかった。
成海は血まみれで笑いながら、小さく呟いた。
「ほら。やっぱり、歌えた」
澪の中の扉と共に、海の底の門が、ゆっくりと閉じ始めた。




