閑話2 冬の湖に入ったなら
名もなき少女の視点
(わたし、死んじゃうのかな……)
夜の池の中で、どちらが水面かも分からないなか、必死でもがく。息が苦しい。
ーーその少女は、王立学園の一般クラスの学生で、王都で商売をしている実家から通学していた。家は魔力を帯びた魔草を取り扱っており、少女も魔草に対して深い知識を持っていた。
そして彼女には今、欲しい魔草があった。
初冬の夜の湖や池にだけ生える魔草である。水辺ではなく水の中で咲く草だ。
(王立学園にも小さな池があるけど、人工的な池に、良い魔草はなかなか生えないのよね)
そんな少女は、学園に程近い場所に、穴場の魔草採取場所があることを知っていたため、その湖を訪れたのだった。
そこは決して初めて訪れたわけではない。その魔草を採取するため、頻繁に足を運んでいる小さな湖で慣れた場所だ。
魔草は、腰ぐらいの位置まで水に浸かったところに生えている。少女はスカートの裾をたくし上げて結び、迷いなく水に中を歩いて行った。
しかし。
「え……!?」
水面が腰あたりの深さになり、更に一歩、踏み出した先に、いつもあるはずの足場がなかった。
想定外のことに、頭は一瞬で混乱状態に陥る。
(こんなに深いはず、ない!)
しかし、ふと思い出す。少し前に大雨が降ったことを。流れ込んだ土で、湖はいつもと違う様相だったのだ。
そんなふうに理由が分かったところで、危機に陥っていることに変わりはない。
必死にもがくが、最早、どちらが上か下かも分からなかった。
初冬の湖は冷たく、少しずつ体温が奪われていく。もがく腕が重くなる。息が苦しくなって思わず口を開けると、反射的に空気を吸い込もうとした喉が、水を飲み込んでしまう。
ーー息ができない。苦しい。
(もう、ダメなのかな……)
力尽き、諦めかけた、その時。
「しっかりして!」
女性の声がして、ぐいっと力強く腕を掴まれた。そのまま体を引き上げられる。
水面に顔が出た。息を吸い込むと、新鮮な空気が肺に一気に入ってきて、逆に咳き込んだ。思わず助けてくれた腕にしがみつくと相手は、
「もう足が付くから落ち着いて」
と声をかけ、少女の腕を引いて陸地へと導いてくれた。
地面にへたり込み、足りなかった空気を求めるよう大きく呼吸を繰り返す。その間、女性もしゃがみ込み、背中をさすってくれた。
ようやく落ち着いたところで、少女は助けてくれた女性を見てーー目を見開いた。
夜の闇に浮かび上がるその女性は、まるで月の化身のようだった。美しい瞳、整った顔立ち。長く黒い髪が濡れて頬に張り付いているのが、妙に色っぽい。
(綺麗……)
と思わず見惚れてーーすぐに、この女性に、まだ礼の一つも言っていないことに気付いた。
「あの……ありがとうございます」
命の恩人に深々と頭を下げる。すると美少女は柔らかく微笑んだ。
「無事でよかった。でも駄目ですよ。いくら薬草を探しているといっても、一人で水に入っては」
嗜める言葉の中にも優しさが籠っている。
立てますか? と差し伸べられた手を取り立ち上がろうとしたところで、ふと気付いた。
「あの、すみません……」
「?」
麗しい人は首を傾げた。
「服が、その……透けています」
その人の服は白いブラウスだったので、水に濡れて下着が透けて見えていた。決して豊満な体つきではないが、逆にそれが艶かしく、何というか……女の自分が見ても、物凄く扇情的で目のやり場に困る。
女性は無造作に自分のシャツを摘む。何だか男の子のような仕草に見えた。そして、
「あ、ああ。……寮までそんなに距離がないから、このままで大丈夫ですよ」
と言う女性の上から、不意に影が差した。同時に、
「いいわけないだろう」
という少し不機嫌な声と共に、ばさっと布のようなものが上から女性の頭に落ちてくる。
「うわ……」
と美少女は声を上げ、少女から手を離し、落ちてきたものを手に取って広げた。それは男子生徒の制服の上着だった。
見上げると、そこに立っていたのは、まさかの人物だった。
(ローラン・シャルトル様だ)
王立学園で最も美形かつ優秀な学生であり、一般クラスの生徒は、滅多に接触できない高嶺の花である。
(うわぁ……)
初めて間近で見るローラン・シャルトルは、とにかくーーイケメンだった。月に煌めく髪も、瞳も鼻筋も唇も、全てが完璧だ。
「大丈夫か?」
そう言って、紳士的に手を差し出してくれる。この手を取っても良いのだろうか、と戸惑っていると、柔らかく微笑まれた。
その一方で、少女の視線の先には、そろりそろりとその場を後にしようとする美少女の姿がある。ローランの背中の向こう側ーー彼からは決して見えない死角での動きだ。にもかかわらず、
「リアーヌ、君も一緒に送っていくから勝手に帰るな」
とまるで背中に目があるかのように、リアーヌと呼ばれた綺麗な女生徒の動きを制する声を上げた。
(リアーヌ……リアーヌ・セネヴィル様?)
少女はあまり特別クラスに興味がなかったため、編入生についても噂を聞いたことがある程度の知識しかなかった。が、聞きしに勝る美少女ぶりで、こういうのを絶世の美少女というのだろうと思った。
そんな麗しの少女は、
「嫌です」
ときっぱりと告げるなり、脱兎の如く駆け出した。すごく足が早くて、あっという間に姿が見えなくなってしまった。ちなみに。
(上着は、ちゃんと着てた)
さすがに男性に指摘されると気になったのだろう。いくら王都は治安が良いとはいえ「絶対」というものはない。
リアーヌに全力で逃げられたローランは大きな溜め息をついたのち、少女に向き直った。
「……家は近所かい?」
「は、はい」
「じゃあ、送っていくよ」
紳士的な対応だったが、何となく雰囲気で察した。ローランはリアーヌを送りたかったのだろう。少しーーいや、かなりがっかりした様子だった。
しかし少女にとっては、束の間とはいえ学園の王子様と過ごす、夢のような時間になったのは間違いない。
⭐︎18話の前振りのお話です⭐︎




